いただきものの無農薬のさつまいもを炊飯器で炊く。
いつかにこの方法が美味しかったことから、以来さつまいもをそのまま食べるときは炊飯器で炊いている。
残りの小さなさつまいもはさいの目に切る。
絵に書いた幼い少女のほっぺたのように、薄いオレンジピンクのかわいい色合いをしていた。
ついでに冷蔵庫にあった玉ねぎとチンゲン菜、凍っていたきのこたちと油揚げ、も入れて軽く炒める。
さてはて、私は一体何を作っているのだろう。
私はこういう得体の知れないスープをよく作る。
行先をその場で探っていくような。
大抵、こういうときはお腹が空いてはいない。
そしてなぜか、猛烈に掃除をしたときのように、このことをブログに書きたくなる。
いつもはほとんど買わないさつまいもが入っているので、ベースを何味にしようかと、ぐつぐついっている鍋の灰汁を取りながらしばし考える。
赤味噌でもない。
コンソメでもない。
醤油でもない。
シチューのルウでもカレーのルウでもない。
白味噌とウェイパーを少し。
味を締める意味合いで唐辛子を一本。
お腹が空いていないので最終的な塩味の調整は明日にするとしよう。
2日後くらい、牛乳を入れてもいけそうだ。
ノエルギャラガーズハイフライングバーズの『チェイシングイエスタデイ』をamazonで買った。
iTunesに入っているオアシスのアルバムも再度聴いてみる。
英語はもう全然、分からなくて。
ある異言語を理解するには、文化的背景やその国、その時代の日常まで知る必要がある。
まあそんなことを言う前に、単語の一対一の意味だって全然分からないわけなのだけれど。
もちろん言葉の対訳だけでないニュアンスを含めた意味も知りたいけれど、これについて私は諦めている。
そこには特別な興味は今のところない。
しかしながら、私がかつて斜めから冷やかに見ていた“洋楽”というようなものにはとても興味がある。
というより、あるロックンロールと、音が存在しているただそれだけのことが、私はたまらなく愛おしいので、“洋楽”と括らなくったって、それらは大好きである。
私の音楽コンプレックスは残念ながらおそらく本物だけれども、私はいつも音楽のことが知りたいと願っている。
音楽の正しい聴き方なんてないと言われても、私はその解釈の手法を求めている。
感じることが全て、だとしても。
全部だなんて言わないから、主要なコードが分かったときのような、そんな些細で基礎のことが知りたい。
もしかすると、私が一番知りたがっていることが、音楽ではないかもしれないけれど。
テレビが無事に録画できるようになって、NHKの「ららら♪クラシック」という番組やら、ミュージシャンの対談やらを録っている。
NHKのEテレは、「亀田音楽専門学校」など、音楽を事細かに解説してくれる番組をよくやっている。
字がただ線でできているように、音楽だってただ音からできている。
そこには「まったくもって訳の分からない世俗を超越した音楽家」が存在しているわけではなくて、細かな鍛錬を積み上げた一人の人間がいるのだなと、やっとそういうことが分かってきた現時点である。
音楽というのは、「まったくもって訳の分からない世俗を超越した」人がやるものだと思ってきたので。
音楽は、時間に乗っていて止めることができない。
音楽は、空気の振動が終われば消えてしまう。
音楽は、見えない。
これが書との違いで、私は自分の呼吸で止められない時間軸に乗った運動がどうにも苦手だ。
何の花なのかわからないけれど、六本木ヒルズの花壇に咲いていた。
左の白い花が、先日生まれた友人のあかちゃんの口をすぼめた顔を想像して止まない。
大きいぞ外野手あくびで春うらら
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/69/150f1ad5f11ade6310dd30a33987a526.jpg)
いつかにこの方法が美味しかったことから、以来さつまいもをそのまま食べるときは炊飯器で炊いている。
残りの小さなさつまいもはさいの目に切る。
絵に書いた幼い少女のほっぺたのように、薄いオレンジピンクのかわいい色合いをしていた。
ついでに冷蔵庫にあった玉ねぎとチンゲン菜、凍っていたきのこたちと油揚げ、も入れて軽く炒める。
さてはて、私は一体何を作っているのだろう。
私はこういう得体の知れないスープをよく作る。
行先をその場で探っていくような。
大抵、こういうときはお腹が空いてはいない。
そしてなぜか、猛烈に掃除をしたときのように、このことをブログに書きたくなる。
いつもはほとんど買わないさつまいもが入っているので、ベースを何味にしようかと、ぐつぐついっている鍋の灰汁を取りながらしばし考える。
赤味噌でもない。
コンソメでもない。
醤油でもない。
シチューのルウでもカレーのルウでもない。
白味噌とウェイパーを少し。
味を締める意味合いで唐辛子を一本。
お腹が空いていないので最終的な塩味の調整は明日にするとしよう。
2日後くらい、牛乳を入れてもいけそうだ。
ノエルギャラガーズハイフライングバーズの『チェイシングイエスタデイ』をamazonで買った。
iTunesに入っているオアシスのアルバムも再度聴いてみる。
英語はもう全然、分からなくて。
ある異言語を理解するには、文化的背景やその国、その時代の日常まで知る必要がある。
まあそんなことを言う前に、単語の一対一の意味だって全然分からないわけなのだけれど。
もちろん言葉の対訳だけでないニュアンスを含めた意味も知りたいけれど、これについて私は諦めている。
そこには特別な興味は今のところない。
しかしながら、私がかつて斜めから冷やかに見ていた“洋楽”というようなものにはとても興味がある。
というより、あるロックンロールと、音が存在しているただそれだけのことが、私はたまらなく愛おしいので、“洋楽”と括らなくったって、それらは大好きである。
私の音楽コンプレックスは残念ながらおそらく本物だけれども、私はいつも音楽のことが知りたいと願っている。
音楽の正しい聴き方なんてないと言われても、私はその解釈の手法を求めている。
感じることが全て、だとしても。
全部だなんて言わないから、主要なコードが分かったときのような、そんな些細で基礎のことが知りたい。
もしかすると、私が一番知りたがっていることが、音楽ではないかもしれないけれど。
テレビが無事に録画できるようになって、NHKの「ららら♪クラシック」という番組やら、ミュージシャンの対談やらを録っている。
NHKのEテレは、「亀田音楽専門学校」など、音楽を事細かに解説してくれる番組をよくやっている。
字がただ線でできているように、音楽だってただ音からできている。
そこには「まったくもって訳の分からない世俗を超越した音楽家」が存在しているわけではなくて、細かな鍛錬を積み上げた一人の人間がいるのだなと、やっとそういうことが分かってきた現時点である。
音楽というのは、「まったくもって訳の分からない世俗を超越した」人がやるものだと思ってきたので。
音楽は、時間に乗っていて止めることができない。
音楽は、空気の振動が終われば消えてしまう。
音楽は、見えない。
これが書との違いで、私は自分の呼吸で止められない時間軸に乗った運動がどうにも苦手だ。
何の花なのかわからないけれど、六本木ヒルズの花壇に咲いていた。
左の白い花が、先日生まれた友人のあかちゃんの口をすぼめた顔を想像して止まない。
大きいぞ外野手あくびで春うらら
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/69/150f1ad5f11ade6310dd30a33987a526.jpg)
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