つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

隆起

2015-04-06 14:03:12 | 日記
私が教える仕事をするのに登録させていただいているサイトがあって、なんとMVPをいただいた。
https://cyta.jp/pr/entry/8945

まあ、受賞の大きな理由に、私が東京にいて都内でレッスンが可能、ペン字や書道のジャンルの先生が少ない、ということはある。
たとえば私が千葉市に住んでいて、千葉市近郊でしか行えませんとなったら、生徒数は激減だろうと思う。
子供向けの書道教室でない限り、こういうのは都心でないと成り立たないビジネスと言える。

ともあれ、このことを私はフェイスブックにアップした。
フェイスブックというのは個人のプレスリリースの場であるような気がする。
私の個人的な見解だが、フェイスブックを頻繁に使っている人たちは、「個人の何か露出物」よりも「個人が“社会的に”頑張っている」という姿が好きな気がする。
だからこのような内容のものには、「いいね!」は他の内容に比べてたくさん付く。

他の方の投稿を見ていると、子どもの成長などの内容にも「いいね!」はたくさん付く。
子どもの単純な愛らしさについて「いいね!」なのだろうけれど、子どもを育てるということは極めて社会的な営みなのだろうなと思う。

これは社会性に対する批判では全然なくて、しかしながら、社会性に乏しいものについて考慮にも入れられずに排除されるのも悲しいなと思ったりする。
社会的云々を抜きにして、私も十分に子どもの存在は愛らしいと思うし、愛されるべき存在であると思うし、愛されて欲しいと願う。
ただ一般的な「社会性」のようなものの外にも、何か意志や意見が存在するということを忘れてはならないと思う。
分からないものは怖いから取り入れない、という一方向的な姿勢を、最初からとってはならないと思う。

それはそうと、下の兄から「いいね!」が付いた。
こんなことは初めてだし、確かに兄は「友達」にはいるわけだけれど、フェイスブックを見ていることさえ知らなかった。
ちなみにおそらく上の兄はフェイスブックをやっていないと思う。

私は下の兄のことを「どうしようもない人」という感じで見ていて、私もそう思われているだろうと思っていた。
4人兄弟のうち、真ん中の2人、つまり下の兄と私は社会性にいささか乏しい。
お互いが持つ憂いのようなものは、少し切なくて、触れづらかったりもする。

「いいね!」は薄っぺらい意味だったとしても「私はあなたのことを見ていますよ」という証である。
このようなことに慣れていない私は、いつまで経ってもフェイスブックに何かをアップするのにそれなりの緊張を要するし、「いいね!」が付けばそれなりに嬉しいわけである。

ブログのように、「誰かが見ている。しかし書き手の主体性がとても強く、レスポンスがなくてもよい媒体」の方が楽である。
しかしながら、レスポンスというのは下心たっぷりに求めてしまうというか、まあないのが通常だとするとあれば嬉しい。
そしてまた、レスポンスがなくても書くのだけれども。

誰かが見ているのは嬉しくて恥ずかしくて、でもたとえ誰も見ていなくてもそれをする。
このことについては奥田民生が彼のいくつかの歌で歌っている。


松任谷由美「春よ、来い」

この曲は小学校の頃、音楽の教科書に載っていた。
リコーダーで吹いていた覚えがある。

小学生の私は詩の意味など思いを馳せようともしていなかったわけなのだけれど、今になってユーミンの詩って本当にすごいなと思う。


青臭いほど好きになる春菊かな





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