ギターを始めて3か月が経った。
なんとなく、コードが抑えられるようになって、コードと単純なストロークであれば何曲かたどたどしく弾ける。
ブルーハーツやハイロウズの曲はコード進行が単純だとよく言われるのだが、本当にそうで、A→E→Dが「月の爆撃機」で、A→D→Eが「終わらない歌」だったりする。
はじめ、Dも抑えられずにFなと到底無理だと思っていたのだが、まあできるようになるもので、なんとなくギター弾いている感じが出せるようにはなったので、成長したなあと思う。
がしかし、確かにギターの音が出せるのは嬉しいしそれなりにピンポイントに好きな音もあるのだけれど、もっとそれを自分で出したい!という衝動とまではいかない。
ピアノもそうなのだけど、3曲くらい簡単な曲をゆっくりでも弾けたりするとそんな序の口も序の口で私自身は満足してしまう。
ギターをほんの少しだけ齧って思うのが、「狭い!細かい!」ということである。
ギターの先生然り、それを自在に操る人を見ていると、本当によくもあんなに狭い弦の並びをそんなに早く正しく押さえられるなあと見入ってしまう。
ピアノのように鍵盤は太くないし全部を見渡せない、それに隣りの弦に指が触れてしまえば音は消えてしまうし、きちんと押さえられないとクリアな音が出ない。
強く弾けば大きく強い音が出るかというとそうでもなく、逆に弦の振動が他のフレットに触れてしまったりして、“かき鳴らす”というエレキギターのイメージは何だったのか、となる。
“とても正しく”やらないとだめな楽器なのだ。
それに、ピッキングだって、左手で弦を“とても正しく”押さえながらあんなに近くに隣り合っている弦を間違えずに弾くのは至難である。
第一ピックすら思うように持てないのに。
ただ仕組みやら難しさやらを少し知った上で、ギターを始めるずっと前に見たYouTubeの動画の「おしゃかさま」の一般人のギターを改めて見ると、本当にすごい。
RADWIMPSは好きではないけれど、これだけは動画も何度も見たし、曲として興味深くてよく聞いた。
もっとギターのことを知れば、このすごさももっとすごいと思えるのだろうと思う。
前にも書いたけれど、PCのタイピングが早く自在にできるのもすごいことだと思うわけだが、タイピングは後戻りができてそれを消すことができて、正しいものとして存在させることができる。
リズムもペースも個人の自由だ。
でも音は鳴ってしまったら消せないし、その時点で正しくなくなってしまうし、曲をやろうと思ったらリズムもペースもそれが再現できないといけない。
私はギターというか、楽器に向いていないんだな、ということになる。
なんにせよ、やってみて向いてないとわかるのは良いことである。
それに、ちょっとだけ、マーシーがやっていることがわかるようになったのはとても嬉しいことだ。
あんな体勢で弾いたり、弾きながら動いたり飛んだりできるのが尋常じゃないと思えるようになっただけでも嬉しいことだ。
それはそうと、1曲くらいはコードを弾くだけではなくマーシーが弾いている感じでコピーをしたいと思っているし、向いていないなりに楽しさはあるのでまだ止めようとは思っていない。
しかしながら、この前習ったことを家でやろうと思ったのに、3つのうちのチョーキングとスライド、もう一つが思い出せないという間抜けっぷりなのはどうかと思う。
そして、チョーキングする指が痛いと嘆きたい。
まあ焦る理由はない、ゆっくりでいい。
「物事を始めるときは、それが終わるときのことを想像しなさい、と糸井重里が言っていた」と友人が言っていたことがある気がする。
特に仕事以外のことは、自分の休息にも充てられるものに、時間と労力とお金を消費するわけだから、そのバランスが取れないと続けられない。
それに、止める、ということは別の労力がいることでもある。
それに、どこまで止めるのか、ということもある。
また、良さそうと思って一旦始めたことを手放すことは、なんとなくもったいないように思ってしまうものだけど、それによって自分を圧迫したり他に手を伸ばせなくなるようでは良くない。
しかし、判断のタイミングというのは難しいもので、やり続けることによってわかることもあるのかもしれないという可能性は捨てきれなかったりする。
収納を占めているコートをはじめとする衣類が、果たして本当に私を豊かにしているか。
と思って、時々服は大量に処分するのである。
カメラも花も、もっとお金も時間もかけてやってみたいけれど。
自分自身と自分の持ち物を消費して、自分のことを知る。
私は大学生の頃まで、文字通りの無趣味な人間だった。
仕方なく、趣味は旅行、と言っていた気がする。
なんとなく、コードが抑えられるようになって、コードと単純なストロークであれば何曲かたどたどしく弾ける。
ブルーハーツやハイロウズの曲はコード進行が単純だとよく言われるのだが、本当にそうで、A→E→Dが「月の爆撃機」で、A→D→Eが「終わらない歌」だったりする。
はじめ、Dも抑えられずにFなと到底無理だと思っていたのだが、まあできるようになるもので、なんとなくギター弾いている感じが出せるようにはなったので、成長したなあと思う。
がしかし、確かにギターの音が出せるのは嬉しいしそれなりにピンポイントに好きな音もあるのだけれど、もっとそれを自分で出したい!という衝動とまではいかない。
ピアノもそうなのだけど、3曲くらい簡単な曲をゆっくりでも弾けたりするとそんな序の口も序の口で私自身は満足してしまう。
ギターをほんの少しだけ齧って思うのが、「狭い!細かい!」ということである。
ギターの先生然り、それを自在に操る人を見ていると、本当によくもあんなに狭い弦の並びをそんなに早く正しく押さえられるなあと見入ってしまう。
ピアノのように鍵盤は太くないし全部を見渡せない、それに隣りの弦に指が触れてしまえば音は消えてしまうし、きちんと押さえられないとクリアな音が出ない。
強く弾けば大きく強い音が出るかというとそうでもなく、逆に弦の振動が他のフレットに触れてしまったりして、“かき鳴らす”というエレキギターのイメージは何だったのか、となる。
“とても正しく”やらないとだめな楽器なのだ。
それに、ピッキングだって、左手で弦を“とても正しく”押さえながらあんなに近くに隣り合っている弦を間違えずに弾くのは至難である。
第一ピックすら思うように持てないのに。
ただ仕組みやら難しさやらを少し知った上で、ギターを始めるずっと前に見たYouTubeの動画の「おしゃかさま」の一般人のギターを改めて見ると、本当にすごい。
RADWIMPSは好きではないけれど、これだけは動画も何度も見たし、曲として興味深くてよく聞いた。
もっとギターのことを知れば、このすごさももっとすごいと思えるのだろうと思う。
前にも書いたけれど、PCのタイピングが早く自在にできるのもすごいことだと思うわけだが、タイピングは後戻りができてそれを消すことができて、正しいものとして存在させることができる。
リズムもペースも個人の自由だ。
でも音は鳴ってしまったら消せないし、その時点で正しくなくなってしまうし、曲をやろうと思ったらリズムもペースもそれが再現できないといけない。
私はギターというか、楽器に向いていないんだな、ということになる。
なんにせよ、やってみて向いてないとわかるのは良いことである。
それに、ちょっとだけ、マーシーがやっていることがわかるようになったのはとても嬉しいことだ。
あんな体勢で弾いたり、弾きながら動いたり飛んだりできるのが尋常じゃないと思えるようになっただけでも嬉しいことだ。
それはそうと、1曲くらいはコードを弾くだけではなくマーシーが弾いている感じでコピーをしたいと思っているし、向いていないなりに楽しさはあるのでまだ止めようとは思っていない。
しかしながら、この前習ったことを家でやろうと思ったのに、3つのうちのチョーキングとスライド、もう一つが思い出せないという間抜けっぷりなのはどうかと思う。
そして、チョーキングする指が痛いと嘆きたい。
まあ焦る理由はない、ゆっくりでいい。
「物事を始めるときは、それが終わるときのことを想像しなさい、と糸井重里が言っていた」と友人が言っていたことがある気がする。
特に仕事以外のことは、自分の休息にも充てられるものに、時間と労力とお金を消費するわけだから、そのバランスが取れないと続けられない。
それに、止める、ということは別の労力がいることでもある。
それに、どこまで止めるのか、ということもある。
また、良さそうと思って一旦始めたことを手放すことは、なんとなくもったいないように思ってしまうものだけど、それによって自分を圧迫したり他に手を伸ばせなくなるようでは良くない。
しかし、判断のタイミングというのは難しいもので、やり続けることによってわかることもあるのかもしれないという可能性は捨てきれなかったりする。
収納を占めているコートをはじめとする衣類が、果たして本当に私を豊かにしているか。
と思って、時々服は大量に処分するのである。
カメラも花も、もっとお金も時間もかけてやってみたいけれど。
自分自身と自分の持ち物を消費して、自分のことを知る。
私は大学生の頃まで、文字通りの無趣味な人間だった。
仕方なく、趣味は旅行、と言っていた気がする。