最近、寝るのがやたらと早い。
そして寝ている時間が異様に長い。
まあ日によってまちまちではあるものの。
それに、異様に、といっても8時間とか9時間とか10時間だけれど。
いやしかし、8時間も9時間も10時間も寝ていたら、私が余剰で、あるいは本心でやりたいことなど何もできない。
しかしながら、寝ること以外の体力の回復方法を知らない私だ。
滅多に風邪はひかないものの、私は決して体力がある方ではない。
それでも、私が通っている書道教室の百人一首の任意課題を、ぎりぎりになってやり始めた。
百首すべてを、どんなふうでも良いので作品にしなさい、という任意課題。
任意、なのでとりあえず気が向くまでは放ってあった。
巻物のような紙に書こうと、買ってあった紙に書き始めるものの、なんと30首くらいで紙がなくなってしまった。
とんだ誤算である。
翌日、紙を買い足し、睡眠時間4時間で朝6時半に起きて書き始める。
起きられたのは奇跡的で、早朝も良いものだと思いながら書き始めたものの、9時には出ないといけなかったので今度は60首で時間切れになってしまった。
そして時間が迫っていることに追い詰められながら書いていたので、あまり出来栄えも良い感じがしない。
結局、任意課題は出せずじまい。
まあ我々は大人なのでいつでも待っています、と先生方は仰っていたので、せっかくだから完成させようかとも思うし、いやでもだったら他の言葉の方が書きたいとか、そろそろ展覧会の出品作品を書き始めねばならないとか、いろいろある。
そして、他の方が書いた百人一首の作品をたくさん目の当たりにして、大きな感銘を受けた。
自分が出さなかったことに対する罪悪感はあまりなく、その作品たちが素晴らしいという点において。
どれもこれも、というわけではないけれど、上手い…と言葉を失くして唸ってしまうようなものがいくつかあった。
和綴じをしているものや、本仕立てになっているもの、1首ずつきれいなはがきに書かれたもの、柄入りの巻物に書いているものなど、仕立て方も本当にこだわりがあって、完成度が高い。
1首につき何度も書いているというふうではなく、ほぼ1回で決めているのだろうと思われた。
空間も文字も“自然”であり“華麗”。
無意識の領域まで高められた技術と、それでも遊んでみようという余裕とセンス。
あり余る時間が全くない今、私は創作に対してどのように向き合えばいいのかを見失いつつある。
百人一首を完成度高く仕上げることが私のしたいことではないけれど、何かを創るそのものに対する愛情すら欠け始めているのかもしれない。
それは私のことながら、とてもとても悲しい。
教室の陽だまりの記憶ヒヤシンス
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/03/1e5180933ef99d85f8abf0d146ab5868.jpg)
そして寝ている時間が異様に長い。
まあ日によってまちまちではあるものの。
それに、異様に、といっても8時間とか9時間とか10時間だけれど。
いやしかし、8時間も9時間も10時間も寝ていたら、私が余剰で、あるいは本心でやりたいことなど何もできない。
しかしながら、寝ること以外の体力の回復方法を知らない私だ。
滅多に風邪はひかないものの、私は決して体力がある方ではない。
それでも、私が通っている書道教室の百人一首の任意課題を、ぎりぎりになってやり始めた。
百首すべてを、どんなふうでも良いので作品にしなさい、という任意課題。
任意、なのでとりあえず気が向くまでは放ってあった。
巻物のような紙に書こうと、買ってあった紙に書き始めるものの、なんと30首くらいで紙がなくなってしまった。
とんだ誤算である。
翌日、紙を買い足し、睡眠時間4時間で朝6時半に起きて書き始める。
起きられたのは奇跡的で、早朝も良いものだと思いながら書き始めたものの、9時には出ないといけなかったので今度は60首で時間切れになってしまった。
そして時間が迫っていることに追い詰められながら書いていたので、あまり出来栄えも良い感じがしない。
結局、任意課題は出せずじまい。
まあ我々は大人なのでいつでも待っています、と先生方は仰っていたので、せっかくだから完成させようかとも思うし、いやでもだったら他の言葉の方が書きたいとか、そろそろ展覧会の出品作品を書き始めねばならないとか、いろいろある。
そして、他の方が書いた百人一首の作品をたくさん目の当たりにして、大きな感銘を受けた。
自分が出さなかったことに対する罪悪感はあまりなく、その作品たちが素晴らしいという点において。
どれもこれも、というわけではないけれど、上手い…と言葉を失くして唸ってしまうようなものがいくつかあった。
和綴じをしているものや、本仕立てになっているもの、1首ずつきれいなはがきに書かれたもの、柄入りの巻物に書いているものなど、仕立て方も本当にこだわりがあって、完成度が高い。
1首につき何度も書いているというふうではなく、ほぼ1回で決めているのだろうと思われた。
空間も文字も“自然”であり“華麗”。
無意識の領域まで高められた技術と、それでも遊んでみようという余裕とセンス。
あり余る時間が全くない今、私は創作に対してどのように向き合えばいいのかを見失いつつある。
百人一首を完成度高く仕上げることが私のしたいことではないけれど、何かを創るそのものに対する愛情すら欠け始めているのかもしれない。
それは私のことながら、とてもとても悲しい。
教室の陽だまりの記憶ヒヤシンス
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