私はブルーハーツのように社会や大人に抗う思いというのは幸か不幸かほとんど持ったことがない。
世界がくそったれだと思ったこともない。
迎合、あるいは順応してきた。
社会や大人に対しての思いは今もほとんど持っていないが、でも今彼らの歌が響くのは自分の思いに逆らえないようになってしまったからなのだと思う。
いつからか、いや5年間から、生きることにひどくロマンティストになってしまった。
そのあとも私は大きな変化を遂げたと自分で思っているが、たぶん5年前を境にある意味で生きる世界が変わってしまったのだと思う。
予測できない不可抗力を知って、本当に取り返しのつかないことがあることも知って、何事も変わらないものはないことを知った。
案外淡々としたものも根底に流れていることも知ったし、「無い」ことの美しさみたいなものも垣間見た。
大半が悲観的変化かというと結構そうでもなくて、逆に楽観視できることも増えた。
今ある体温を、今ある優しさを、今ある興奮を、感じ惜しみしないことを体現できるようになったのはほんの最近だけど、冷静と引き換えに血の気の多さを持ってしまって、感じ入ってしまうことも増えた。
それが人と比較して過剰であることも認識しているつもりだから、独りよがりや押しつけということを考えたりもするものだけど、大切な誰か、に対しての敬意や感謝は持っていたいし、許されるのであればそれを伝えたい。
他人を理解するなどおこがましいが、ちょっとだけ持っているその他大勢の人よりもその誰かに理解が及んでいるのではないかという自負も持ちつつ。
まず自分の処理のあとに。
お酒でも飲もうかと思ったけれどバッドトリップするのは嫌なのでやめる。
というよりは家にお酒は置いていないので一度部屋着になってしまった姿から外に出るのは、たとえコンビニが100mの距離にあっても、寒すぎるし億劫だったという理由の方が大きい。
代わりに、何だかんだ買い込んでいた食料でごはんを作る。
人のために見栄を張らないと本当にろくな料理を作らない私だけど、玉ねぎを細かく切ってじゃがいもの皮を剥いて、卵をかき混ぜ、バターの溶けた匂いが漂うと、なんだか料理するのが楽しく思えた。
けいこがハカリを使っているのを見たことがないから、私も大匙小匙のスプーンも計量カップも持っていない。
たとえネットで人気の黄金レシピがあったとしても、材料の状態もフライパンの熱伝導率も油の質も違うし作る人も違うからあてにならない、というのは屁理屈だろうか。
調味料は味見しながら少量から、というのが鉄則だが、当然ながら手元が狂うことは、ある。
少し乗ってきたので盛り付けまで気を使ってみる。
最近買ったホーローの真っ赤で小さなカップ。
どこかでもらったHANAE MORIのモダンな四角いお皿。
パセリなんか、散らしてみたりして。
料理の一連の作業は、材料や味付け、片付けまで含めて合理性を求めるのに適している、ということしか今まであまり考えたことがなかった。
そうか、料理には色があるんだ、と今日感じた。
作ったのはコンソメスープとスパニッシュオムレツ。
先日の名もないスープと同様、なんてことはない、でも美味しいし優しい味がした。
世界がくそったれだと思ったこともない。
迎合、あるいは順応してきた。
社会や大人に対しての思いは今もほとんど持っていないが、でも今彼らの歌が響くのは自分の思いに逆らえないようになってしまったからなのだと思う。
いつからか、いや5年間から、生きることにひどくロマンティストになってしまった。
そのあとも私は大きな変化を遂げたと自分で思っているが、たぶん5年前を境にある意味で生きる世界が変わってしまったのだと思う。
予測できない不可抗力を知って、本当に取り返しのつかないことがあることも知って、何事も変わらないものはないことを知った。
案外淡々としたものも根底に流れていることも知ったし、「無い」ことの美しさみたいなものも垣間見た。
大半が悲観的変化かというと結構そうでもなくて、逆に楽観視できることも増えた。
今ある体温を、今ある優しさを、今ある興奮を、感じ惜しみしないことを体現できるようになったのはほんの最近だけど、冷静と引き換えに血の気の多さを持ってしまって、感じ入ってしまうことも増えた。
それが人と比較して過剰であることも認識しているつもりだから、独りよがりや押しつけということを考えたりもするものだけど、大切な誰か、に対しての敬意や感謝は持っていたいし、許されるのであればそれを伝えたい。
他人を理解するなどおこがましいが、ちょっとだけ持っているその他大勢の人よりもその誰かに理解が及んでいるのではないかという自負も持ちつつ。
まず自分の処理のあとに。
お酒でも飲もうかと思ったけれどバッドトリップするのは嫌なのでやめる。
というよりは家にお酒は置いていないので一度部屋着になってしまった姿から外に出るのは、たとえコンビニが100mの距離にあっても、寒すぎるし億劫だったという理由の方が大きい。
代わりに、何だかんだ買い込んでいた食料でごはんを作る。
人のために見栄を張らないと本当にろくな料理を作らない私だけど、玉ねぎを細かく切ってじゃがいもの皮を剥いて、卵をかき混ぜ、バターの溶けた匂いが漂うと、なんだか料理するのが楽しく思えた。
けいこがハカリを使っているのを見たことがないから、私も大匙小匙のスプーンも計量カップも持っていない。
たとえネットで人気の黄金レシピがあったとしても、材料の状態もフライパンの熱伝導率も油の質も違うし作る人も違うからあてにならない、というのは屁理屈だろうか。
調味料は味見しながら少量から、というのが鉄則だが、当然ながら手元が狂うことは、ある。
少し乗ってきたので盛り付けまで気を使ってみる。
最近買ったホーローの真っ赤で小さなカップ。
どこかでもらったHANAE MORIのモダンな四角いお皿。
パセリなんか、散らしてみたりして。
料理の一連の作業は、材料や味付け、片付けまで含めて合理性を求めるのに適している、ということしか今まであまり考えたことがなかった。
そうか、料理には色があるんだ、と今日感じた。
作ったのはコンソメスープとスパニッシュオムレツ。
先日の名もないスープと同様、なんてことはない、でも美味しいし優しい味がした。

感じ入れるからこそ、人生は面白いのかなと思う。
ロマンがあったほうが、自分が楽しめるから、いいと思う!
もう、頭も心もごちゃごちゃしたくないって
一度は何も考えないって思ったけど
わたしはあなたの勿忘草ブログを読んで
もう一度、あの頃(高校生の)のように
全部受け止めてみたい、考えてみたい、と思えたのよ。
(そして、ブログ開設。)
最近、料理してるのね!
普通の味、やさしくておいしくて
特別なものじゃなくても自分で作れることって、うれしいよね。
溢れちゃう思いがあなたのブログにもだーだーに溢れちゃってるのがよくわかる。これFacebookみたいなソーシャルな場じゃ「気違い」のレッテルを貼られてやってられないと思うたぶん。
カタルシスの一方法なんだと思う、ブログ、うん。
料理、まだろくなもの作らないけどね。いろんな材料に味があってそれを自分でまた味を重ねて・・ってなんて創作的!とか大げさに考えすぎた挙句、適当な炒め物になるんだけど。。
今度は一緒におうちごはんも楽しそう♪