つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

CHINADA

2015-05-16 16:17:54 | 日記
仕事の空き時間に、とても疲れていたので寝るつもりで漫画喫茶にでも入ろうと思って歩く。
漫画喫茶に入ったのは、学生の頃、プリントアウトをするためだけのただ一度きり。
しかし、最近はよく漫画を読むので、漫画を読むために漫画喫茶に行きたいところなのだが、今日は休息の在り処を求めていた。

が、歩けどもあるけども、原宿のあたりには漫画喫茶がなく。
ふらりと立ち寄った雑貨と服のお店で靴を2足買う。

ヒールでない、底が安定している靴。
歩きやすいとは大事なこと、疲れにくいとは大事なこと。
しかしながら、あまりにもフラットな靴は慣れていないのでかえってバランスが取りづらく、ふくらはぎを傷めやすい。

少しだけソールが分厚い靴を2足。
デニム生地と黒の革。
そもそもセール品で、2足でさらに20%OFF!という抱き合わせ施策に喜んで乗っかる。
休日は10000円以上のお買い上げでトラベルポーチプレゼントです、と更なる抱き合わせ施策を提示されたが、トラベルポーチなど要らないので断る。

そう言えば久しぶりに、靴を買った気がする。
服も靴も、最近は見に行く時間があまりないので全然買っていなかった。
元より、何となく立ち寄った先で買ってしまった、ということばかりで、「服や靴を買いに行く」という目的意識の下にそういった買い物に行かないけれど。

そう言えば昔は、友人と一緒に買い物に出かけることもあった。
しかし、衣服の想像と購入の決断は一人でしたいので、誰かと見に行くのもしなくなった。


とある決断を、友人が私に話してくれた。
もし半年後、それが決行されなければ罵ってほしい、というようなことを言われたけれど、別に罵りはしないだろう。
まあそれは、私にとってはどちらでもいいようなことで、しかし、意に叶う行動を本人がしていてくれるのならば私も当然嬉しい。

そう考えてみると、敢えて罵るということは愛のある行為だと思わざるを得ない。
その愛が相手でなく、発信者本人の意を叶えるためだとしても。

自分で決める、という快感は存在する。
辞める、とか、止める、とかも一時的な興奮が伴う。
その快感について私は人に報告されることが比較的多いような気がする。
それは私がそのように生きているように見えるから、だろうと思う。

斯く言う私は、いつだってフラットな決断をしたいと思っているのだけれどもそれがなかなか叶わなかったりする。


六本木故郷(ふるさと)満ちるクレソンサラダ




無意識の衝撃

2015-05-13 14:33:14 | 日記
先日、3分の2くらい残っている煙草を箱ごともらった。
吸い口にミントのカプセルが入っていて、それを噛んでカチッと割るとミントの清涼感と一緒に吸えるもの。
ミントが入っていないものもその場で吸わせてもらったけれど、その方が煙草の“あの匂いの味”がダイレクトにする。

30年間、特に理由もなく、いや時にとても毛嫌いして、本当に1本たりとも吸ったことがなかった。
笑ってしまうくらい、私は煙草の吸い方を知らない。

数か月前、初めて丸ごと1本吸った。
「花火を吸っているみたい!」という感想は記憶に新しい。

私にとって初めて煙草を吸うことは、「依存してしまうかもしれない」という身構えが多分にあった。
まあでも、本当にもしそうなっても、総合的にそれは良いことのような気がしたから、差し出された煙草を受け取ったのだった。

持ち方も、灰の落とし方も、煙の吐き方も、全然分からない。
買ってきてと言われたって、何がどれで何ミリで、ソフトケースとハードケースと、ほとんど何にも分からない。
かろうじて知っていることと言えば、吸いながらでないと火が付かないことくらいだ。

当たり前だけれど、1本吸って昇天するとか、体が熱くなるとか、気持ちが落ち着くとか、そんなことは全然なかった。
私は煙草に対して、ある種の魔法作用のようなものを実は期待していたのかもしれない。
煙の刺激だけは喉にきつく、こんな刺激になれてしまえるものなのか、と思った。

あれから、私は煙草のことを忘れていた。
そして箱ごともらった煙草が玄関に置いたままになっていたけれど、ふとあのミントのカプセルを割ってみたくなって火をつける。
一般的には、自分の手のひらを顔の方に向けて人差し指と中指で挟んで持つ、と教わったことを思い出しながら。

また煙が喉にきつく、むせる。
煙草をひと吸いしたら、空気とブレンドして好みの濃さにしてさらに吸い込む、とまた教わったことを思い出す。
なるほど、むせない。
灰皿も空き缶もないので、ティーライトキャンドルのカラを使う。

一連の動作を、私は鏡の前で行った。

中学生の頃、トイレで煙草を吸っていた人たちは、どのくらい煙草が好きで吸っていたのだろうか。
反抗のシンボルとしての意味や、惰性以外に、「嗜好品」として。

私は今のところ、この箱だけは長い時間をかけて吸い切りそうな気はしている。


「書家なら一度は書いてみたい言葉シリーズ」と題して、自分の拡張を図る。
「愛」「夢」「笑顔」「絆」「感動」「感謝」
そんなに簡単なことではなくて、涙が出そうになる。


憧れて糸子拵ふアッパッパ





笑ったら風が吹いた

2015-05-11 20:24:32 | 日記
特段書きたいことがない。
しかし、俳句も花も書も、時間が過ぎすぎては色褪せるので更新する。

そう言えば、家のテレビの受信状況がまた悪い。
全然番組が映らない。
映っても映像や音声が途切れとぎれになったりする。

もちろん録画もできない。
何のためにレコーダーを買ったのか。

そう言えば、この症状は暖かい時期に起こっている気がする。
気温が受信に関係があることなんて、あるのだろうか。

あと、兄から第二子が生まれたとつい先ほど連絡をもらう。
命がまたひとつ、始まった。
良い人生となりますようにと今は祈る。
実感が伴わないので、すぐに忘れてしまうけれども。


食べられる葉っぱを食んで春満ちる




五月六日押して作ろうおにぎらず

2015-05-07 04:03:51 | 日記
久しぶりに小石川植物園に行く。
春も夏も秋も冬も、私はここが大好きである。
しかし、口に出すのも憚れるアイツが出るのではないかと、私はいつでも気を張っている。

花の季節真っ盛りだけれど、あそこにはそもそも花が咲くものが少ない。
遅咲きの椿や菖蒲、シロツメクサ、たんぽぽなどは緑と土の景色に点在するように咲いていた。

おばあちゃんの家の庭の匂いがした。
愛知県の中でも忘れ去られた地にあるおばあちゃんの家はとても大きい。
敷地内の庭が、見える部分以外は手入れが行き届かず、森のようになっていた。

私がおばあちゃんの家の庭の匂いと記憶しているものは、どうやら、椿が朽ち落下して堆肥と化した土の匂い、松やクヌギの木の匂いらしい。
個人的な思い出の正体は、あるとき時空を飛び越えて不意にやってくることがある。

木陰に座って、持ってきていた季語辞典をぺらぺらと捲り、俳句を詠む。
花やら緑を、青空バックに写真に撮る。

母の日の贈り物を選ばねばと花屋にも寄る。
けいこは花ならば何でも喜ぶ。
そして大切にしてくれる。

けいこが好きそうなカップや箸などをあげても、あまり喜びもしないし、そのまましまい込むので、もうあまり思考を凝らすことなく毎年花にしようといもうとと決めた。
とはいえ毎年同じでは芸がないと思い、しかし去年も一昨年も何をあげたのかさっぱり思い出せない。
けいこは7月が誕生日なので、贈る機会が多いのと、あといつもはネット注文なので実感がないのだろう。

ブーケも何だかアレンジメントの良さに欠けたので、オンシジウムと何かのかけあわせの蘭にした。
ちらちらと小さな黄色い蝶々が飛んでいるかのような。
可愛い小さなモスラが飛んでいるようにも見える。


先日生まれた友人の赤ちゃんに会いに行く。
こんなにもさもさと髪の毛が生えた赤ちゃんを私は初めて見た。

友人は、随分と友人のままお母さんをしていた。
赤ちゃんがそこにいることが、なんだか“普通”だった。
こんな風に育てられるんだなあと思った。

昼食を振る舞ってくれて、「いつもはもっと上手くできるんだけど、人が来ると思って失敗しちゃった」と友人は言う。
「わかるわかる」と私は答えて、ご主人は「いつもと同じだよ」と答える。

また、私も一緒に遊んでほしい。


美しき緑陰隣で与太話




浅い批判も

2015-05-04 16:37:48 | 日記
家でごはんを作ると、どうしてもたんぱく質には納豆やら卵やらになってしまうことが多く、粗食になって肉を食べないことが多い。
牛肉の塊は苦手だけれど、鶏肉や豚肉は好きで、決して肉がダメなわけではないのだけれど。

肉は日持ちしないことと、触るのがあまり好きではないことがあって、取り扱う頻度が低い。
もちろん時々は買うけれど、鶏胸肉やささみを買って、腐らせる前に全部茹でて冷凍してしまう。
肉のストックが冷凍庫にあると、なんだか強くなった気分になる。

肉の力が絶大であることは、腹持ちや力の出具合だけではなく、味にも関わる。
たとえベーコンであったとしても、野菜スープに顆粒コンソメだけ入れるのと、そこにベーコンを入れるのでは格段に味が強くなる。
塩味という意味ではなく、肉の旨味、という意味で。
肉様、というわけである。

と、ここまでは今までのことなのだけれど、肉をちゃんと食べると、ごはんの量やお菓子の量も少なくて済む、ということを最近になってひしと体感している。
「もう食べなくて良いです」と体が言うのが早くなる。

鶏肉が安かったのでまとめて買って、鶏肉の煮物を大量に作ったら、案外あっさりとなくなった。
そしてごはんの量が少なくて済んだ。

仕事で糖尿病をテーマに扱っていて、炭水化物が恐ろしいということを知りつつ、自分の食事がかなり炭水化物に偏っていることも知っているので、肉で満足してくれるのは何だか体に良いことをしている気分になった。
原理的に言って、肉の方が太りづらいわけだけれど、もちろん食べる量や部位にもよる。
果たして肉を多く食べるようになると、太るのだろうか、痩せるのだろうか。
もう少し肉を食べる頻度と量を増やしてみようかと思う。


エレキギターを見に行く。
「レスポール」「ストラト」「テレキャスター」「ギブソン」「グレッチ」など今までごちゃごちゃになっていた名前たちが何を指しているのか今日始めて分かった。

ジャケ的に欲しいのは、黒に近い濃い臙脂のような色合いの「レスポール」のバインディングがあるギター。
一通り見て、目を付けていたギターが忽然と姿を消していた。
定員はそんなギターはなかったと言う。
幻だったのだろうか。

ないとなるとあれが欲しい。


また借りた「ハチワンダイバー」を読む。
「ハチワンダイバー」ってそういうことか、と3巻くらいでハッとした。

漫画的王道、の疾走感がある漫画である。
私はこれを“男子感”と呼んでいるわけだけれど、そういうことでもない“在る”という概念が今私は気になって仕方ない。


病室から生気眺める五月晴れ