つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

作り笑いと本能と証明

2015-06-08 13:55:23 | 日記
私が今まで煙草を吸わなかったのは、お金がかかるとか、健康に良くないとか、匂いがつくとか、自分でも止められなくなるくらい吸わなきゃいけなくなったら面倒だから、というのがあった。
過去、私は明らかな嫌煙の姿勢を人にとったこともあったけれども、それは煙草が嫌だったからではないように思う。
寧ろ、タバコの匂いは昔からちょっと好きだったりする。

要は、一番最後の理由、依存するのが怖かったのだと思う。

今、私はときどき煙草を吸う。
お酒を飲んでいるときと、夜というか明け方に、1,2本。
夜明け頃の煙草は、あらなんて美味しいの、と思う。

チョコレートを食べるような感覚だろうか。
欲しくなったときに、少しだけ。

私は色んなことに無意識に目を閉じてしまう傾向がある。
見えているものも、見えていないのだ、と自分で暗示をかけてしまうことがある。
無意識化で、それを知るのが怖くて、それを受け入れたくなくて、そうするのだと思う。
もはやそれが、自己暗示であるかどうかなんて、私には気付くことができない。

ときどき、それをズバリと他人から言われたり、様々な方法で思い知らされることがある。
それはとても貴重な体験であり、それはまさに、私が言うところの"ロックンロール"だ。

私は、自分に向けている名目上、依存、ということを良しとしていない。
そうしたら「依存しないことに依存している」と言われた。
「依存しないことに依存している」ということは、まさに「依存」ではないか。

本当は、自分が依存体質な傾向にあることを、私はいくつかの経験で知っていたりもする。
それを周りに隠す術も、自分に嘘をつく術も、長けている。

自分がこれまでに積み上げてきた価値観を壊す、あるいはそれにメスを入れるのは簡単ではない。
単純に苦しいのと、再構築の際に整合性が上手く取れなくて面倒ということもある。

しかしいくら目を背けたところで、背け切れないのが自分の心であることを、そろそろ私は受け入れねばならない。

とても久しぶりに、交感神経のスイッチが入りっぱなしになってしまっている気がする。
私の見る世界が震えていて、手触りが遠い。
食欲がない。
原因は分かっている。


来週の「夜タモリ」にヒロトが出演するらしい。
予告で、「僕は長い間、過大評価に苦しんできました」と言っていた。
そうだろうなあと思う。


青野そよぎ遠くチャイムに消ゆ昨日




原子をリサイクル

2015-06-03 13:18:28 | 日記
雨が降っている。
6月の匂いに、いただいた蚊取り線香の匂いを足す。
重力に耐え切れなくなった灰がそっと音もなく落ちる。
たぶん微かに音はしているのだろう。

最近は生徒さんが自宅に来るたびに簡単に掃除をするので、床を二度拭きすることがかなり少なくなった。
しかしやっぱり水拭きでないとすっきりしない。
あと、捨てたいタオルの切れ端が水拭きをしないと捨てられず、これはどうしてもこのようにして使い倒して捨てたい。

早起きしたついでに広い床を二度、丁寧に力を込めて水拭きする。
二度目はユーカリのオイルを5,6滴垂らして。
玄関と共用部もざざっと拭いて、真っ黒になったタオルの切れ端を捨てる。

捨てたいバシバシのタオルはまだたくさんあって、しかしこのペースで掃除をしていてはなかなかなくならない。

それにしても手触りならぬ、足触りがすっきりした。


いろんなことを、次の瞬間には忘れてしまう。
意識なんてものはそんなもので、それで良いのだと思う。
それでも残り続ける、継続し得る、せざるを得ない意志なんてものがあるのだと思っている。

どれだけ自分がしたたかであるか、どれだけ自分のことを守るために生きているのか、私は一応把握しているつもりだ。
いや私が把握している以上に、もっともっと汚らしいものかもしれない、たぶんそうだと思う。

だから他人とコミュニケーションを取るとき、相手も自らのメリットだけで判断してほしいと願ってしまう。
もちろん各個人におけるトータル的なメリットとして。
すべては個人の合意の下であると、そう思いたい。
もしそうだったとしたら、私はたぶんそのことで安心するし、その人のことを信頼するであろうと思う。


薔薇は朽ちてゆくとき、花びらを反らせる。
ライトなオレンジ色の薔薇が玄関先で花びらを反らせながら、咲き続けている。


駅前に夏の気配とハイボール