▼ 主任教諭反対の取り組みを具体化せよ!
○管理職等の受験強要をやめさせよ!
○業績評価を選考に使わせるのは、制度の趣旨と違うぞ!
○不合格者を見捨てるな!
▼ 「主任教諭」の導入をどう考えるか?
残念ながら「主任教諭」の導入が決まった以上、次の段階として、組合執行部が合格者の枠を増やしたり、受験のハードルを下げるように取り組むのは止むを得ないことかもしれません。しかし、受験者が増えれば増えるほど、都教委側の選択の余地が広がることになります。結果として主任教諭を受けても落ちる人が出てきます。そこをどう考えるのか。受験しなさいだけでいいのか。
都教委としては、制度の立ち上げのためにできるだけたくさんの受験者を確保しなければならず、組合も2年間の「移行措置」を認めさせたからには、これに積極的に協力するということでしょうか。しかし、小中高盲ろう養など合わせて45,000人の都内公立学校教員の中で、有資格者が30,000人、その内22,000人ほどを主任教諭に「昇任」させると都教委が言っていることからすれば(今年は13,500人という話)、有資格者の中で8,000人、約27%は受験したとしても主任教諭にはなれません。しかも合否の基準がはっきりしない中で、誰を合格させるかは全て都教委の手に握られているのです。
昔の話になりますが、1960年の勤評反対闘争の成果として、特昇については都立高校でも長く各分会で該当者リストをつくり、それを校長に具申させていました。しかし95年からは今に至るような成果主義が導入されることになりました。勿論、前年にはストライキを構えるなど組合の導入反対闘争がありましたが、結局は一定の線を確保したような話で妥結しました。現実にはその年、分会のリストの上位にありながら、特昇を外された人たちがあちこちの職場で出てきました。
この時、組合執行部は、ある程度の人たちが特昇から外されるのは仕方がない。都教委が個人情報を握っていて、その人たちに何か問題があるのだという姿勢でした。本部委員会で組合の対応を求めて発言する人達に対して、全員が外されるよりはましだというようなことを、この時は支部担で、今は賃対を担当している執行委員が大声でヤジってたことを覚えています。今だと「自己責任」とか言う言葉が飛び交うのでしょうか。
受験者が増えれば増えるほど同じような事態が再び起こるに違いありません。それを防ぐためには、ある程度受験者を絞ることで不合格者をほとんど出させないような工夫が必要ではないでしょうか。年齢構成が異なる小中などの組合や非組の人たちに対しても協力を呼びかけ、例えばそれぞれに一定の年齢以上の人に受験を限るような「方向付け」は無理なことなのでしょうか。そうすることでその年齢に達した人がほぼ全員主任教諭に任用され、フラット化する賃金を次の段階に上げることができないかと考えるのです。
勿論、そのような年齢制限に取り組めば、非組がどんどん受験するぞという反論が必ず出てくるでしょう。「主幹制度」導入の時にも同じことが叫ばれました。しかし結果はどうでしょうか。主幹の受験倍率は低迷したままです。全日制6名定時制1名の配置は未だに充足していません。何よりも、このまま何の工夫もなく受験を勧めるだけでは、2割の人が排除されることを黙認することになります。少数者を見捨てて生き延びるのも仕方がないことなのでしょうか。
また主任教諭になればなったで、都教委は、新しくOJTなどを通して、校長→副校長→主幹→主任教諭→教諭と、上意下達・上命下服の態勢に教員を組み込もうと準備を整えています。これは10月に出された報告書(裏面に一部を掲載してあります)などでも明らかです。
またさらに主幹へと駆り立てるために、校長に校内研修の機会を設けさせることなども計画しています。主任教諭応募に際して求められる「職務レポート」の課題は、いかに校長に寄り添うかが問われる踏絵です。このレポートを元に校長の面接があり、校長自身は一人ひとりにA4の用紙1枚の推薦書を書くとも聞いています。選考に当たって筋違いにも「業績評価」を利用することといい、これでは何事にせよ校長に異をとなえることは難しくなります。そればかりか、教諭を校長の意向に沿わせるのが主任教諭の仕事となるのです。
都教委としては、制度導入によって、それでも不本意ながらやむなく応募せざるを得ない状況に教員を追い込んだということでしょう。これは都教委に従わせるという点で、「日の丸・君が代」の強制と本質的に共通するものがあります。日々の仕事ぶりが管理の対象になるという点で、それ以上に厳しい事態かもしれません。
しかしこの「不本意ながらやむをえず」とか、「悔しいけれども仕方なく」という気持ちこそ何よりも大切な気がします。主任教諭を受ける受けない、なるならないということではなく、教諭であれ、主任教諭であれ、主幹であれ、どういう立場であろうと、権力に押し流されない気持ち、踏みとどまる気持ちをどこで守っていくかが問われているからです。
反対に、毒を食らわば皿までもとばかりに居直ってしまうこと、先のことは考えたくないとばかり思考停止状態に陥ることこそ最も危険なことです。都教委の意向に逆らえない管理職に、何の疑問さえ感じず唯々諾々と従うようになってしまってはおしまいです。それでは、成果を出すことを迫られて、厚生年金記録を改ざんした社会保険庁職員と同じ立場に立たされてしまうのではないでしょうか。同時に、やがては仕事に就く生徒たちが、長時間労働や派遣・請負など不安定な雇用の中で使い捨てにされても、ただ沈黙するしかないよと、身をもって示してしまうのではないでしょうか。 <OT>
『YOU SEE』(2008年12月09日 No.237)
元気・勇気・連帯 新しい都高教をめざす会
○管理職等の受験強要をやめさせよ!
○業績評価を選考に使わせるのは、制度の趣旨と違うぞ!
○不合格者を見捨てるな!
▼ 「主任教諭」の導入をどう考えるか?
残念ながら「主任教諭」の導入が決まった以上、次の段階として、組合執行部が合格者の枠を増やしたり、受験のハードルを下げるように取り組むのは止むを得ないことかもしれません。しかし、受験者が増えれば増えるほど、都教委側の選択の余地が広がることになります。結果として主任教諭を受けても落ちる人が出てきます。そこをどう考えるのか。受験しなさいだけでいいのか。
都教委としては、制度の立ち上げのためにできるだけたくさんの受験者を確保しなければならず、組合も2年間の「移行措置」を認めさせたからには、これに積極的に協力するということでしょうか。しかし、小中高盲ろう養など合わせて45,000人の都内公立学校教員の中で、有資格者が30,000人、その内22,000人ほどを主任教諭に「昇任」させると都教委が言っていることからすれば(今年は13,500人という話)、有資格者の中で8,000人、約27%は受験したとしても主任教諭にはなれません。しかも合否の基準がはっきりしない中で、誰を合格させるかは全て都教委の手に握られているのです。
昔の話になりますが、1960年の勤評反対闘争の成果として、特昇については都立高校でも長く各分会で該当者リストをつくり、それを校長に具申させていました。しかし95年からは今に至るような成果主義が導入されることになりました。勿論、前年にはストライキを構えるなど組合の導入反対闘争がありましたが、結局は一定の線を確保したような話で妥結しました。現実にはその年、分会のリストの上位にありながら、特昇を外された人たちがあちこちの職場で出てきました。
この時、組合執行部は、ある程度の人たちが特昇から外されるのは仕方がない。都教委が個人情報を握っていて、その人たちに何か問題があるのだという姿勢でした。本部委員会で組合の対応を求めて発言する人達に対して、全員が外されるよりはましだというようなことを、この時は支部担で、今は賃対を担当している執行委員が大声でヤジってたことを覚えています。今だと「自己責任」とか言う言葉が飛び交うのでしょうか。
受験者が増えれば増えるほど同じような事態が再び起こるに違いありません。それを防ぐためには、ある程度受験者を絞ることで不合格者をほとんど出させないような工夫が必要ではないでしょうか。年齢構成が異なる小中などの組合や非組の人たちに対しても協力を呼びかけ、例えばそれぞれに一定の年齢以上の人に受験を限るような「方向付け」は無理なことなのでしょうか。そうすることでその年齢に達した人がほぼ全員主任教諭に任用され、フラット化する賃金を次の段階に上げることができないかと考えるのです。
勿論、そのような年齢制限に取り組めば、非組がどんどん受験するぞという反論が必ず出てくるでしょう。「主幹制度」導入の時にも同じことが叫ばれました。しかし結果はどうでしょうか。主幹の受験倍率は低迷したままです。全日制6名定時制1名の配置は未だに充足していません。何よりも、このまま何の工夫もなく受験を勧めるだけでは、2割の人が排除されることを黙認することになります。少数者を見捨てて生き延びるのも仕方がないことなのでしょうか。
また主任教諭になればなったで、都教委は、新しくOJTなどを通して、校長→副校長→主幹→主任教諭→教諭と、上意下達・上命下服の態勢に教員を組み込もうと準備を整えています。これは10月に出された報告書(裏面に一部を掲載してあります)などでも明らかです。
またさらに主幹へと駆り立てるために、校長に校内研修の機会を設けさせることなども計画しています。主任教諭応募に際して求められる「職務レポート」の課題は、いかに校長に寄り添うかが問われる踏絵です。このレポートを元に校長の面接があり、校長自身は一人ひとりにA4の用紙1枚の推薦書を書くとも聞いています。選考に当たって筋違いにも「業績評価」を利用することといい、これでは何事にせよ校長に異をとなえることは難しくなります。そればかりか、教諭を校長の意向に沿わせるのが主任教諭の仕事となるのです。
都教委としては、制度導入によって、それでも不本意ながらやむなく応募せざるを得ない状況に教員を追い込んだということでしょう。これは都教委に従わせるという点で、「日の丸・君が代」の強制と本質的に共通するものがあります。日々の仕事ぶりが管理の対象になるという点で、それ以上に厳しい事態かもしれません。
しかしこの「不本意ながらやむをえず」とか、「悔しいけれども仕方なく」という気持ちこそ何よりも大切な気がします。主任教諭を受ける受けない、なるならないということではなく、教諭であれ、主任教諭であれ、主幹であれ、どういう立場であろうと、権力に押し流されない気持ち、踏みとどまる気持ちをどこで守っていくかが問われているからです。
反対に、毒を食らわば皿までもとばかりに居直ってしまうこと、先のことは考えたくないとばかり思考停止状態に陥ることこそ最も危険なことです。都教委の意向に逆らえない管理職に、何の疑問さえ感じず唯々諾々と従うようになってしまってはおしまいです。それでは、成果を出すことを迫られて、厚生年金記録を改ざんした社会保険庁職員と同じ立場に立たされてしまうのではないでしょうか。同時に、やがては仕事に就く生徒たちが、長時間労働や派遣・請負など不安定な雇用の中で使い捨てにされても、ただ沈黙するしかないよと、身をもって示してしまうのではないでしょうか。 <OT>
『YOU SEE』(2008年12月09日 No.237)
元気・勇気・連帯 新しい都高教をめざす会
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