《東京「君が代」裁判第3次訴訟第4回口頭弁論(2011/3/18)要旨陳述》
◎ 憲法20条についての反論及び追加主張
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「報告集会」 《撮影:平田 泉》
第1 この項目では、信教の自由の保障内容について、及び、君が代の持つ宗教的意義についてまず論じ、そのあとで、被告の主張に対して反論をいたします。
第2 まず、信教の自由の保障内容について述べます。
1 欧米各国において、精神的自由権の確立は、まさにこの信教の自由獲得のための戦いによって導かれました。すなわち、信教の自由は、精神的自由権の中核に位置づけられる人権です。
その意味合いは、宗教的多数者に対する、少数者の信仰を保障するところにあります。
2 私たちの憲法では、20条1項において、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」としています。信教の自由には、一般に、「信仰の自由」、「宗教的行為の自由」、「宗教的結社の自由」があるといわれています。
このうち、「信仰の自由」には、心の中の信仰の自由はもちろん、自らの信仰に基づいて、これを外部に告白する「信仰告白の自由」が含まれます。
また、「宗教的行為の自由」は、心の中の信仰を外部的行為として表現する自由、及び、表現しない自由を意味します。
そして、信教の自由は、他の精神的自由と同じく、内心にとどまる限りは、絶対的に保障されます。
さらに、外部的行為を伴う場合でも、宗教的行為の自由の制約は、心の中の信仰を表現する行為なのですから、原則として無制約です。
そして、例外としての規制は、必要最小限度のもののみ許されるものとして理解されなければなりません。
また、信仰告白を強制されない自由は、絶対的に保障され、いわゆる「踏み絵」にあたる行為は、絶対的に禁止されます。
第3 次に、戦前において「君が代」が、宗教的意義を有していたことについて述べます。
歴史的な事実として、「君が代」は、大日本帝国憲法下において、現人神としての天皇が支配する国家・大日本帝国の象徴でした。そして、そのことは、現在の憲法がよって立つ基本的価値とは、対極にある国家と、その理念の象徴でした。
「君が代」は、戦中の軍国主義の時代においては、忠君愛国のシンボルとして、「天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年もつづいておさかえになりますように」という意味であると、国定教科書によって子どもたちに教えられ、歌われました。すなわち、「君が代」は、国家神道の神に対する賛美歌であり、深い宗教的意義を有していたのです。
第4 以上、述べてきたところに基づいて、被告の答弁書における主張に反論を加えます。
1 まず、被告は、10・23通達及び本件職務命令と、信教の自由との関係に関しても、ピアノ判決の法理が適用されるとしています。
しかし、信教の自由について、その侵害の有無を判断するためには、個別具体的に、個人の信仰の内容を検討することが不可欠です。すなわち、ピアノ判決のように、「一般的に」論じることなどはあり得ません。よって、本件を、ピアノ判決に当てはめて論じるべきではありません。
2 次に、10・23通達及び本件職務命令は、原告の有する信仰の否定、または、特定の信仰の強制にあたり、許されません。
(1) まず、被告の行為は、憲法が絶対的に禁止している「踏み絵」そのものです。
すなわち、自分の信仰から「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することができない」者に対して、国旗に向かって起立し、国家を斉唱することを強制することによって、その者がこれを拒否すれば、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することができない」という信仰を持っていることをあぶり出す結果になります。
本件原告の中には、キリスト者がいます。キリスト者は、その聖典である旧約聖書にある戒め、いわゆる「モーセの十戒」により、主なる神以外のなにものをも神としてはならず、また、いかなる偶像に対しても、それを崇拝するような行為を宗教上のタブーとされています。いわゆる、偶像崇拝の禁止です。
そして、偶像崇拝によって禁止される偶像とは、異教の神に限られるものではありません。自らが信仰する神を形取ったものであっても、それ以外のものであっても、すべからく、神以外の形あるものにひれ伏し、仕えることを禁止するものであり、国旗であっても例外ではありません。また、後で述べるとおり、国家神道の神に対する賛美歌である「君が代」を歌うことも、自らの神以外の神を賛美する行為なので、許されません。そうだとすれば、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」ことを強制することは、キリスト者の信仰に反する行為ですから、これを強制すれば、それに従えないキリスト者の「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することができない」との信仰をあぶり出すことになります。
そして、このような「踏み絵」は、キリスト者以外の誰に対しても行うことは許されません。なぜなら、「踏み絵」は、国や公権力に対して絶対的に禁止された行為だからです。
(2) また、被告らの行為は、原告らの信仰に反する行為の強制にあたります。前に述べたとおり、戦前において「君が代」が宗教的意義を有しており、国家神道の賛美歌的な歌であったことは歴史的事実です。そうだとすれば、「君が代」を斉唱することは、自らの信仰する神以外の神を崇拝する行為です。すなわち、先ほど述べた、「モーセの十戒」で「わたしのほかにはなにものをも神としてはならない」と定められた信仰の核心に反する行為なのです。
また、キリスト者以外であっても、国家神道の信仰を有しない者にとっては、「君が代」を歌うよう強制されることは、自らが信仰しない宗教である国家神道の宗教的行為を強制される行為です。
3 次に、被告は、「エホバの証人」剣道実技拒否最高裁判決を引用していますので、この点について反論します。
まず、被告は、この事件で本来問題となった、剣道の履修義務の拒否という問題を、剣道の授業を履修する権利の問題とすり替えている点で、不当です。
さらに、被告は、「公立学校の教師は、憲法上、全体の奉仕者としての地位を有するものであるから、憲法20条の信教の自由の保障についても、生徒と教師を同列に論ずることはできない」と主張しますが、公立学校の教師であるから、信仰の自由という重要な人権の保障が及ばないという主張は認められません。被告の主張は、これまでの最高裁判例からしても、不当であることは明らかです。
第5 以上述べてきたとおり、被告の主張は、信教の自由という、精神的自由権の核となるべき人権を無視するもので、認められるものではありません。
被告の行為は、キリスト者に対して、その信仰の中核に反する行為を強制するものです。また、対象が誰であるかを問わず、「踏み絵」にあたり、公権力には絶対的に禁止された行為なのです。
◎ 憲法20条についての反論及び追加主張
原告ら訴訟代理人 弁護士 松田和哲
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「報告集会」 《撮影:平田 泉》
第1 この項目では、信教の自由の保障内容について、及び、君が代の持つ宗教的意義についてまず論じ、そのあとで、被告の主張に対して反論をいたします。
第2 まず、信教の自由の保障内容について述べます。
1 欧米各国において、精神的自由権の確立は、まさにこの信教の自由獲得のための戦いによって導かれました。すなわち、信教の自由は、精神的自由権の中核に位置づけられる人権です。
その意味合いは、宗教的多数者に対する、少数者の信仰を保障するところにあります。
2 私たちの憲法では、20条1項において、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」としています。信教の自由には、一般に、「信仰の自由」、「宗教的行為の自由」、「宗教的結社の自由」があるといわれています。
このうち、「信仰の自由」には、心の中の信仰の自由はもちろん、自らの信仰に基づいて、これを外部に告白する「信仰告白の自由」が含まれます。
また、「宗教的行為の自由」は、心の中の信仰を外部的行為として表現する自由、及び、表現しない自由を意味します。
そして、信教の自由は、他の精神的自由と同じく、内心にとどまる限りは、絶対的に保障されます。
さらに、外部的行為を伴う場合でも、宗教的行為の自由の制約は、心の中の信仰を表現する行為なのですから、原則として無制約です。
そして、例外としての規制は、必要最小限度のもののみ許されるものとして理解されなければなりません。
また、信仰告白を強制されない自由は、絶対的に保障され、いわゆる「踏み絵」にあたる行為は、絶対的に禁止されます。
第3 次に、戦前において「君が代」が、宗教的意義を有していたことについて述べます。
歴史的な事実として、「君が代」は、大日本帝国憲法下において、現人神としての天皇が支配する国家・大日本帝国の象徴でした。そして、そのことは、現在の憲法がよって立つ基本的価値とは、対極にある国家と、その理念の象徴でした。
「君が代」は、戦中の軍国主義の時代においては、忠君愛国のシンボルとして、「天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年もつづいておさかえになりますように」という意味であると、国定教科書によって子どもたちに教えられ、歌われました。すなわち、「君が代」は、国家神道の神に対する賛美歌であり、深い宗教的意義を有していたのです。
第4 以上、述べてきたところに基づいて、被告の答弁書における主張に反論を加えます。
1 まず、被告は、10・23通達及び本件職務命令と、信教の自由との関係に関しても、ピアノ判決の法理が適用されるとしています。
しかし、信教の自由について、その侵害の有無を判断するためには、個別具体的に、個人の信仰の内容を検討することが不可欠です。すなわち、ピアノ判決のように、「一般的に」論じることなどはあり得ません。よって、本件を、ピアノ判決に当てはめて論じるべきではありません。
2 次に、10・23通達及び本件職務命令は、原告の有する信仰の否定、または、特定の信仰の強制にあたり、許されません。
(1) まず、被告の行為は、憲法が絶対的に禁止している「踏み絵」そのものです。
すなわち、自分の信仰から「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することができない」者に対して、国旗に向かって起立し、国家を斉唱することを強制することによって、その者がこれを拒否すれば、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することができない」という信仰を持っていることをあぶり出す結果になります。
本件原告の中には、キリスト者がいます。キリスト者は、その聖典である旧約聖書にある戒め、いわゆる「モーセの十戒」により、主なる神以外のなにものをも神としてはならず、また、いかなる偶像に対しても、それを崇拝するような行為を宗教上のタブーとされています。いわゆる、偶像崇拝の禁止です。
そして、偶像崇拝によって禁止される偶像とは、異教の神に限られるものではありません。自らが信仰する神を形取ったものであっても、それ以外のものであっても、すべからく、神以外の形あるものにひれ伏し、仕えることを禁止するものであり、国旗であっても例外ではありません。また、後で述べるとおり、国家神道の神に対する賛美歌である「君が代」を歌うことも、自らの神以外の神を賛美する行為なので、許されません。そうだとすれば、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」ことを強制することは、キリスト者の信仰に反する行為ですから、これを強制すれば、それに従えないキリスト者の「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することができない」との信仰をあぶり出すことになります。
そして、このような「踏み絵」は、キリスト者以外の誰に対しても行うことは許されません。なぜなら、「踏み絵」は、国や公権力に対して絶対的に禁止された行為だからです。
(2) また、被告らの行為は、原告らの信仰に反する行為の強制にあたります。前に述べたとおり、戦前において「君が代」が宗教的意義を有しており、国家神道の賛美歌的な歌であったことは歴史的事実です。そうだとすれば、「君が代」を斉唱することは、自らの信仰する神以外の神を崇拝する行為です。すなわち、先ほど述べた、「モーセの十戒」で「わたしのほかにはなにものをも神としてはならない」と定められた信仰の核心に反する行為なのです。
また、キリスト者以外であっても、国家神道の信仰を有しない者にとっては、「君が代」を歌うよう強制されることは、自らが信仰しない宗教である国家神道の宗教的行為を強制される行為です。
3 次に、被告は、「エホバの証人」剣道実技拒否最高裁判決を引用していますので、この点について反論します。
まず、被告は、この事件で本来問題となった、剣道の履修義務の拒否という問題を、剣道の授業を履修する権利の問題とすり替えている点で、不当です。
さらに、被告は、「公立学校の教師は、憲法上、全体の奉仕者としての地位を有するものであるから、憲法20条の信教の自由の保障についても、生徒と教師を同列に論ずることはできない」と主張しますが、公立学校の教師であるから、信仰の自由という重要な人権の保障が及ばないという主張は認められません。被告の主張は、これまでの最高裁判例からしても、不当であることは明らかです。
第5 以上述べてきたとおり、被告の主張は、信教の自由という、精神的自由権の核となるべき人権を無視するもので、認められるものではありません。
被告の行為は、キリスト者に対して、その信仰の中核に反する行為を強制するものです。また、対象が誰であるかを問わず、「踏み絵」にあたり、公権力には絶対的に禁止された行為なのです。
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