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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

学校は刑務所と同じく、権利を制限する場所なのか?

2018年03月20日 | こども危機
 ◆ 指導死の背景にあるもの (教科書ネット21ニュース)
池田賢市 中央六学教授

 ◆ はじめに
 学校における教員からの「指導」によって精神的・肉体的に追い詰められ、死を選んでしまう子どもたちがいる。
 子どもを死に追いやる「指導」とはなんなのか。「不適切な指導」あるいは「行き過ぎた指導」という言い方がある。あるいは「子どもは精神的に未熟であり、大人が思っている以上に傷ついてしまう」という説明がなされることもある。
 しかし、これらの言説は問題の核心を隠蔽してしまう。
 つまり、「指導」することは大前提であり、そのうえで、それが子どもたちにどのように受け止められるか、それまでの教員と子どもとの関係性のあり方やその時々の状況などが考慮されるべきだ、といった議論になってしまう。
 しかし、ここでは、学校という時空間において「指導」が成り立ってしまうのはなぜなのか、という点に着目したい。
 学校は子どもたちの「生活」のあり方に対して修正・変更を加える指導権限をもっていることが前提とされているが、なぜ、そのような「指導」が正当化されうるのか。
 ◆ 学校という「文法」の存在
 もともと茶系色の髪をしている生徒に黒く染めるように「指導」した高校が損害賠償を求められていることが報じられ、多くの高校で「地毛登録制度」が導入されていることも明らかになった。
 この「制度」は、地毛の生徒に誤って「指導」するのを防ぐためだと言われているが、教育への権利を保障する学校が、なぜ、その権利を行使している生徒の髪の色を統一させることができるのか。学習保障の場でなぜ髪の色や形が問題になるのか、意味不明である。そもそも人権侵害である。
 しかし、頭髪検査を実施している学校は多い。「生活の乱れを防止するため」といった理由を中核としつつ、「進学や就職に影響するから」という現実的な対応、「保護者や地域住民からの要請があるから」といった地域対応として「指導」がなされている。
 ところが、多くの教員、そして世論は、このことに疑問をもたない、あるいは、もてない状況に追い込まれていると言えるかもしれない。
 一方で、生徒には個性が求められ、「みんなちがって、みんないい」などと言われる。
 統一性、同一性が善とされる価値の中での個性とは何であろうか。それは、「みんなちがって、みんないい」というフレーズに見事に表現されている。
 ここでは「ちがい」に対して「いい」という価値判断がなされている。誰がそれを判断できるのか、ちがいは「いい-わるい」の問題ではない、誰かから承認されなければならないようなことでもないはずである。
 つまり、学校ではそれぞれの子どもの「ちがい」さえ、評価対象なのである。
 「みんなちがってる」という認識の徹底が課題であるはずが、学校教育を語る際の「文法」に従うと、しかも良かれと思って、つい、「いい」と言ってしまう構造を変革できないだろうか。
 ちなみに、個を尊重したつもりで「いるだけでいい」と言われる場合もある。
 子どもに対して失礼だなあという個人感情は別にしても、ここにも「いい」という価値判断が伴っている。
 「いる」ということの大切さが、やはり「学校文法」によって評価対象にされてしまう。
 ◆ 学校という場所の特徴
 ここで少し視点を変えて、学校という場所の特徴を次のように挙げていくとすれば、そこにどんな特徴が見えてくるだろうか。
子どもたちには番号が付されている(出席番号等)
服装が統一されている(履物が統一される場合もある)
学校内に持ち込める物には制限がある(持ち物検査が実施される場合がある)
男女の別が強調される環境になっている
毎日決まった時間に登校(下校)しなければならない(早寝早起きも求められる)
昼食(給食)の時間・食事内容が決められている
授業(作業)中は静かにし、発言は挙手して許可されたときに可能となる
授業(作業)内容は子どもたちの希望とは関係なく決められている
一日の時間割が厳格に決まっている(やりたい勉強をやりたい時間にはできない)
トイレに行くときに許可が必要な場合がある
無断で外に出ることはできない
外部とは壁や門ではっきりと仕切られ、自由な出入りはできない
一定の年数を経なければこの環境からは出られない
教職員(管理・監督者)の指示には従わなければならない
規則に反すると罰則がある
 ◆ 「病院」「軍隊」「刑務所」
 おそらくこの調子で挙げていけば、もっと多くの特徴を加えることができるだろう。さて、これらの特徴をもっている場所が他にもある。
 すでにお気づきのように「刑務所」である。多少の言い換えをすれば、「病院」「軍隊」も同様のものだと確認できるだろう。
 学校が刑務所と同様の特徴をもつ機関なのだとすれば、「指導」も当然ということになる。「矯正」対象として子どもたちに対することになるのだから。
 「子どもの権利条約」の趣旨がなかなか学校現場に浸透していかない理由も、「刑務所」だと思えば、よく理解できる。
 そこは、むしろ権利を制限する場所なのだから。
 したがって、「行き過ぎた指導」や「未熟な子どもへの配慮が必要」といった認識は、学校のこのような「刑務所性」を隠してしまい、指導死の背後にある恐るべき権利侵害の組織化を結果として支えてしまうことになる。
 ◆ 「雑」という概念のこわさ
 つまり、「指導」が正当化される環境自体を変えていかなくてはならないのであって、「指導」の程度の問題なのではない
 そこで、さらに話を派生させてみたい。

 「西洋(近代)音楽」の特徴とは何か、ということを考えたい。
 結論を言えば、楽譜(正確に書かれた音)がある、リズム(拍子と時間分割)がある、そして、雑音(逆に言えば和音)という概念がある、ということである(岡田暁生『西洋音楽史』中公新書を参照)。
 つまり、客観的な基準に従って、等間隔に時間を刻み、全員が調和を乱さないようにする、ということ。オーケストラはこのようにして成り立っている。
 この特徴はやはり学校に似ている
 学習指導要領による学習内容は、時間割によって配列され、その実施を乱してはならない。この整然とした状況が維持できないと「崩壊」と言われ、教員の評価は低くなる。教員評価は賃金に反映される。
 常に見える形での成果が求められ、思考に関しても、道徳の教科化によってより一層、一定の方向性・統一性が求められる。
 ◆ おわりに
 求められている「調和」を乱す音はその場にあってはならないものとして「雑音」とされる。
 「雑草」もあってはならないとされる草である。
 いずれも一方的に「雑」だと宣言され、排除される。
 同じことが今日の学級の中で起こっている。いてはならないとされる子ども…。
 おそろしい発想である。しかし、これが「指導」を正当化しているのである。

 「指導死」を考えるということは、このような西洋近代社会の産物としての学校という組織自体を、人々への管理・支配・排除の機構として告発していくことになる。(いけだけんいち)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 117号』(2017.12)

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