◆ 日本を変えた「日立闘争」…朴鐘碩さん定年へ
70年代初頭、民族的偏見による就職差別に敢然と立ち向かい、日立ソフトウエア戸塚工場に入社した朴鐘碩さんが今年11月に60歳の定年退職を迎える。
ソフトウエアのシステム開発という未知の分野で悪戦苦闘しつつ、一方で在日韓国人の期待を一身に背負って入社したという重圧を胸に、職場で人権問題を訴えてきた朴さん。入社後も37年間途絶えることなく続けてきた「日立闘争」にひとまず終止符を打つ。
◆ 職場でも37年間、人権問い続ける
朴さんが入社試験に受かったのは18歳。「世間知らずの青年」だっただけに、「韓国人」の一言で採用拒否されたときは、がけから落とされた気持ちだった。「なんでこんなことが許されるのか」。単純な怒りが裁判を起こすきっかけとなった。
裁判闘争を通じて自らの民族性に目覚め、韓国人として生きていこうと決意を固めた朴さん。職場では肩肘を張ったぶん、幾多の挫折も味わってきた。
まず、配属先が希望した経理ではなく、ソフトウエアシステム開発部に決まったこと。1日も早く仕事に慣れるのがやっとで、職場で民族差別や人権問題を話し合うどころではなかった。朴さんは悩んだ。「ただ仕事だけしていればいいのか。なんのために裁判までして日立に入ったのか」と自問自答する毎日が続いた。心労のためか、入社5年目で胃潰瘍を患い、入院した。
朴さんは当時を振り返って、「きつかった」とただ一言。金敬得弁護士(故人)からは、「どんなに辛くてもやめるな」とアドバイスされた。日立闘争を支えた当時の支援団体「朴君を囲む会」の中心メンバーも朴さんの後ろ盾となった。やがて朴さんはいい意味で開き直ることにした。外国人としてよりも、住民の一人として、人間らしく生きられる社会をつくっていこうと、川崎での地域運動にのめりこむようになった。
職場では、「責任感を持って入ったのに、権利意識を抑えられ、矛盾や疑問があっても働いている人にものを言わせないという職場の中の目に見えない同化と抑圧の雰囲気」に、「人間性が否定されている」と異議を唱え、「風通しを良くしよう」「おかしいことはおかしいと言っていこう」と、組合の中で問題提起しながら孤軍奮闘してきた。
朴さんは日立での37年間を、「短い気がする」と振り返った。定年を迎えても、契約社員として65歳まで会社で仕事を続ける道は残されているが、一方で大学に行きたいという希望も持ち続けている。研究テーマは人権問題や社会問題。「日立闘争」は朴さんにとっての永遠のテーマなのだ。
◆ 「日立闘争」とは
70年に日立ソフトウエア戸塚工場採用試験を受けて合格しながら「一般外国人は雇いません」と採用を取り消された朴鐘碩さんが、「不当解雇」と横浜地裁に訴え、74年6月19日に勝訴した3年半にまたがる闘争。
在日韓国人と日本人有識者、学生らが「朴君を囲む会」をつくり、支援。地裁は判決文のなかで朴さんが履歴書などで「新井鐘司」という通称名を使用せざるを得なかった事情に理解を示し、国籍による差別と認定した。判決は在日韓国人の権利意識を高め、その後の全国的な民族差別撤廃運動につながっていった。
(2011.5.11 民団新聞)
http://www.mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?corner=2&page=1&subpage=4206
70年代初頭、民族的偏見による就職差別に敢然と立ち向かい、日立ソフトウエア戸塚工場に入社した朴鐘碩さんが今年11月に60歳の定年退職を迎える。
ソフトウエアのシステム開発という未知の分野で悪戦苦闘しつつ、一方で在日韓国人の期待を一身に背負って入社したという重圧を胸に、職場で人権問題を訴えてきた朴さん。入社後も37年間途絶えることなく続けてきた「日立闘争」にひとまず終止符を打つ。
◆ 職場でも37年間、人権問い続ける
朴さんが入社試験に受かったのは18歳。「世間知らずの青年」だっただけに、「韓国人」の一言で採用拒否されたときは、がけから落とされた気持ちだった。「なんでこんなことが許されるのか」。単純な怒りが裁判を起こすきっかけとなった。
裁判闘争を通じて自らの民族性に目覚め、韓国人として生きていこうと決意を固めた朴さん。職場では肩肘を張ったぶん、幾多の挫折も味わってきた。
まず、配属先が希望した経理ではなく、ソフトウエアシステム開発部に決まったこと。1日も早く仕事に慣れるのがやっとで、職場で民族差別や人権問題を話し合うどころではなかった。朴さんは悩んだ。「ただ仕事だけしていればいいのか。なんのために裁判までして日立に入ったのか」と自問自答する毎日が続いた。心労のためか、入社5年目で胃潰瘍を患い、入院した。
朴さんは当時を振り返って、「きつかった」とただ一言。金敬得弁護士(故人)からは、「どんなに辛くてもやめるな」とアドバイスされた。日立闘争を支えた当時の支援団体「朴君を囲む会」の中心メンバーも朴さんの後ろ盾となった。やがて朴さんはいい意味で開き直ることにした。外国人としてよりも、住民の一人として、人間らしく生きられる社会をつくっていこうと、川崎での地域運動にのめりこむようになった。
職場では、「責任感を持って入ったのに、権利意識を抑えられ、矛盾や疑問があっても働いている人にものを言わせないという職場の中の目に見えない同化と抑圧の雰囲気」に、「人間性が否定されている」と異議を唱え、「風通しを良くしよう」「おかしいことはおかしいと言っていこう」と、組合の中で問題提起しながら孤軍奮闘してきた。
朴さんは日立での37年間を、「短い気がする」と振り返った。定年を迎えても、契約社員として65歳まで会社で仕事を続ける道は残されているが、一方で大学に行きたいという希望も持ち続けている。研究テーマは人権問題や社会問題。「日立闘争」は朴さんにとっての永遠のテーマなのだ。
◆ 「日立闘争」とは
70年に日立ソフトウエア戸塚工場採用試験を受けて合格しながら「一般外国人は雇いません」と採用を取り消された朴鐘碩さんが、「不当解雇」と横浜地裁に訴え、74年6月19日に勝訴した3年半にまたがる闘争。
在日韓国人と日本人有識者、学生らが「朴君を囲む会」をつくり、支援。地裁は判決文のなかで朴さんが履歴書などで「新井鐘司」という通称名を使用せざるを得なかった事情に理解を示し、国籍による差別と認定した。判決は在日韓国人の権利意識を高め、その後の全国的な民族差別撤廃運動につながっていった。
(2011.5.11 民団新聞)
http://www.mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?corner=2&page=1&subpage=4206
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