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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

レッドパージで教職を追われて

2010年07月27日 | 平和憲法
 都高教退職者会『私にとっての戦後』(2010/5/15)より
 ▼ レッドパージで教職を追われて
横山 靖子

 (一)戦後喜々として教育復興に専念

 1915年8月15日、焦土と化した東京の街。焼け出され、疲れ果てた人々に、ようやく訪れた終戦。
 それでも、「戦争が終わった!」の安堵感と、生き残った喜びがじわじわと湧いてきたこと、「あヽ今晩からは布団を敷いて寝られる。あかりがつけられる」と思ったことが忘れられません。三鷹の自宅は焼けずじまい。爆風で多少歪んだりはしたものの、住み続けられる幸せもかみしめていました。
 けれど、勤務先の都立第三高女は二度の被災で跡形もなく、麻布の街も焼け野原に、暫くは、さえぎるものも無い炎天下を、汗をふきふき通ったのでした。焼け残った頑丈な土台石を壁にして、壕舎教室を作ることになり、居残っていた生徒が少ないのを幸いに(多くの生徒は縁故先を頼って疎開)、それから二ヶ月ばかり、くる日もくる日も粘土質の土を掘る作業が続きました。受け持ちだった二年生の子ども達には重労働過ぎましたが、それでもどうにか坐れるように掘り進み、明日から授業ができると喜んで帰った夜、豪雨で壕は水浸し、結局一日も使わずに終わりました。
 その後は、真夏の太陽の下、さえぎるものとて一つもない炎天下、居残った子ども達と学習を試みたもの耐えられず、焼け残った小学校の教室などを借りて、分散教育に苦労するなど、忘れられない体験でした。
 この時、私は働きざかりの二五歳でしだ、

 (二)「校舎よこせ」のスローガンかかげて、食糧メーデー参加
 1946年5月19日、戦後の食糧難に空腹に耐えてきた都民が、五月一日のメーデーのあと、重ねて「食糧よこせ」を訴えて食糧メーデーをやると聞いて、このチャンスに「校舎よこせ」を訴えて参加しようと職員会議で、自分のロ下手も忘れて、「子ども達のためにあらゆる努力をするのが教師のつとめではないか」と、涙を流しながら訴えました。他の先生達も、授業のおくれや落ち着かない毎日の学校生活を一日も早く解消したいと、積極的に賛成されたのでした。その後一父兄の抗議があり、再度職員会議を開き、教員は全員、生徒は希望者のみと訂正。
 当日、終始首うなだれて先頭に立たれた校長先生に続いて全教師、すすんで参加した生徒百名近くが続きました。私の受け持ちのクラスは「上級生にあれこれ言われてこわかった」と言いつつも全員参加。後にハージされた先生方のクラスは八割、五割の参加という状態でした。翌日の全朝刊は「名門校、都立第三高女、校舎よこせで食糧メーデー参加」と、二段抜きの記事を一斉にのせました。
 その後、父兄から意見がいろいろ寄せられたのでしょう。校長先生は一人転勤を迫られ、他校へ移られました。私はと言えば、メーデー参加の首謀者として、他の一~二名の先生と共に、他の教師たちからも声をかけられなくなり、怖い者のように避けられるようになりました。こんな状態のもとでは校長先生を守ることも出来ずじまい。その状態をとり戻すのに二学期中かかりました。
 こうした状態が続く一方で事態はすすみ、新校長の赴任と共に、駒場の元兵舎を急遽改装して新校舎とすることがきまり、三学期から正式に授業が開始されることになり、「都立駒場高校」と正式に名称も決まったのでした。
 兵舎のあとは殺風景でしたが、やがて教室らしく改築され、疎開先から生徒も戻り始め、喜々として授業が進められろようになったのでした。
 (三)少々勇み足の出発
 兵舎だったためか、教室に大小があったのを幸い、戦後アメリカ式の新しい教育を模索していた仲間が中心になり、新しい学級づくりで、学年毎の担当教師はきめるものの、クラス担任は生徒自身にきめさせようというものです。
 生徒は大喜び。好きな先生のクラスを選んで学級編成は出来ました。実は一番希望者が少なかったのが私のクラス。「先生のクラスにいきたかったけど、アカと思われると入試にひびくから止めたの」と、寂しそうに言ってくる子や、わざわざ親が訪ねてきて変更を申し入れるなどもありました。
 そんなわけで、三十人足らずの私のクラスは、「何でも話しあえる、助けあって学習し、いいと思うことは何でもやる、すばらしいクラスにしましょうね」と、子ども達とも心一つに結びあったクラスになりました。
 けれど、都立高校では大学進学希望者もおり、少々ゆき過ぎかもと、私も反省して、この方法は一年で中止したのでした。
 (四)全国を襲ったレッド・ハージの波は駒場高校にも
 1949年に入ると、「行政機関職員定員法」による「行政整理」や民間企業の「首切り・合理化」による企業整備が進められたのでした。
 その背景の下、七月五日に下山事件(下山国鉄総裁が突如行方不明。翌日礫死体で発見される)、七月一五日に三鷹事件(中央線三鷹駅で無人電車暴走)、八月一七日に松川事件(東北線金谷川ー松川間で列車転覆、七名犠牲)など、犯人不明の怪事件が連続発生。原因究明の調査活動もないまま、「共産党がやった!、共産党の仕業だ!」との大宣伝が、どこでも繰り広げられ、労組幹部や共産党員など、国鉄、全逓などを皮切りに、約四万人近い労働者が全国的にパージされたのです。
 当時私は三鷹に住んでいて、たまたまこの日帰宅のため、四谷駅から中央線に乗り三鷹駅の一つ手前の吉祥寺駅に着いた時、「三鷹駅で事故があったようなので停車します」と、一駅だから歩いて見にいってみようと三鷹駅にいってみると、タ暮を迎え街は人影もなくひっそり。駅前で二~三人の男性がマイクで、「共産党の仕業だ」「共産党が電車を暴走させた!」と声をからしていました。車両が一台、線路を外れ、駅前の交番を押した形で横倒れになっていました。見に来る人もなく、「これは作られた事故だ」と直感したのでした。
 1949年から50年にかけて、米軍総司令部民間情報局顧問イールズが、「赤色教員追放」を演説しつつ全国をまわり、パージの波は、教育の場にも広がり、小・中の教員中心に、二千人が解雇されたのでした。
 1950年、この波は高校としては珍しく、都立第三高女にも及び、二月一三日、私を含む五名の女教師が馘首されたのでした(一名は長期病欠でしたが)。高校で、しかも一校で五名も首切られたのは特別でしたが、結局四年前の食糧メーデー参加をそそのかした責任をとらせる形だったのです。
 私の受持ちクラスの生徒たちが「先生を首にすうなんて許せない!」と、校長先生のところに抗議にいった時、校長先生は「私は言われたままにしたまでだ。マッカーサーの指令なのでさからえない」と。「校長先生は無責任、先生を守ってほしい」と子ども達は怒り、「どうすればいいの?」と次々に校長室に押しかけてくれたもののどうしようもなく、改めて、日本の現実はアメリカ政府の言うがままなのだと知ったのでした。
 こうして私は、子どもの時からの夢でもあり、決意でもあった「教育に生涯をかける」道を絶たれたのでした。
 パージされた私たちのために、学校側はお別れ式を朝礼を兼ねて開いてくれました。今の日本の情勢とパージの意味、そしてパージ後のそれぞれの生活を、同じような繰り返しにならないように分担してと、発言の内容を確認して各自挨拶しました。
 最後をつとめた私は、「パージは不当なものだけれど、今、世界の情勢は大きくかわりつつある。現にこの二月新生中国、社会主義中国が誕生、各国の国民のカで、それぞれの国を発展させていく可能性と責任のある時代を迎えている。パージはロ惜しく不当だけれど、私たちは未来に向かって不屈に頑張るつもりなので、心配しないで!」と、誇り高く結んだのでした。
 あとで子ども達から「先生は、私たちと別れることを悲しいと言ってくれなかった」と、恨まれたりしましたが、当時の私の心境を言えば、"首切りに負けてたまるか"の思いと、新しい社会づくりに思いのたけ頑張りたいの気持ちが強かったのです。
 その一方で、五年間受持ち、戦中・戦後を共に体験してきた生徒たちが、学校制度の変更で、新制高校三年生として進級し、もう一年在学する春、自分だけ首切られて去らねばならないことに、言い尽くせない心残りとロ借しさを感じていたのも事実です。
 五名のうち長期病欠だった一人は間もなく亡くなり、他の一名は「自分は首謀者にそそのかされ、行動を共にしたこともあったけれど、共産党員でもなければ支持者というほどでもない。一生教職を続けたいと頑張ってきた」と申し開きをし、一~二年後再就職され、最後は校長まで勤められた由数年後聞き、それはそれで良し、各自が自覚してそれぞれの人生を生きることだと、余り怒りも感じませんでした。
 1949年から続いた全産業での赤狩りのあと、日本の国民を襲ったのは朝鮮戦争でした。レッド・パージはまさに、国民を戦争にまきこむための反戦勢力の職場からの一掃、国民の口封じだったのです
 それにしても、私一人今も生き続けているものの、他はみな他界され、駒場高校パージの思い出を話し合ったこともなく、昔の歴史の一コマとなってしまいました。
 (五)パージ後、反戦・平和願って運動
 パージ後「かわってほしい」と言われ、教職に戻れるならと喜んで就職した、神奈川朝鮮中高学園での三年ばかりの教員生活を除いては、私は一貫して、反戦・平和・母親運動などにはまりこんできました。
 日本では、全国的な共産党員追放は進められたものの、この時期世界の情勢は大きく変わっていきました。
 1953年秋、第三回世界大会開催の報が伝わってきました。代表派遣は無理でも、このチャンスに女性を組織してと、当時神奈川県に移り、県平和委員会の仕事を手伝いはじめていた私の任務がきめられ、私は夢中で県内をまわりました。
 1954年1月、第一回県婦人大会を成功させ、神奈川での私の活動は根付いていったのでした。
 54年3月1日の、マーシャル諸島ビキニ島での、アメリカの水爆実験によるマグロ漁船第五福竜丸の被爆をきっかけに、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニと三度被曝した日本の人々の、「核実験反対!平和を!」の願いはもりあがりました。こうして、私も必然的に反核・平和の運動に全力投球することになったのでした。
 今年(2008年)、88歳を迎え、紆余曲折はあったものの半世紀余り、反戦・平和と女性の解放をめざして、運動の一端を担ってきたと、感概深く思い起こしているところです。
 『私にとっての戦後ーそして都高教運動』(都高教退職者会 2010/5/15発行)より

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