《時代を読む 東京新聞》
◆ 道徳教育、大切なこと、は?
小学校で来年度から「特別の教科道徳」がスタートする。
道徳の教科化は大津いじめ自殺事件などを受け、政府が二〇一二年に提言したものだ。だが、教科化が議論されていたときの疑問は解決されないままだ。
そもそもいじめの原因は道徳の劣化なのか。
価値の押し付けにより個々の内面の自由が侵されるのではないか。
現場教師の負担が増えるだけではないか。
「決まったことだから」と思考停止せず、本源的に考え続ける必要がある。
実行の段階では目の前の作業に追われ、視界が狭くなりがちだ。たとえば、教科書検定で、あまりにも表面的な修正が要求。実施されたことは記憶に新しい。
「高齢者への尊敬と感謝」が不足しているとの検定意見で「おじさん」から「おじいさん」に表記を変えた教科書。
「伝統文化の尊重」の観点から「パン屋」を「和菓子屋」に変更した教科書。
「価値の押し付け」以前に、思考停止にも見える。
この「あまりにも表面的」という印象は、教科書を開くといっそう強まる。
全体的に「規則を守れ」「感謝せよ」「挨拶はきちんと」というメッセージであふれているのだ。
確かにこれらは、政治的・世代的・階層的な立場をこえて否定されにくいだろう。しかし、大切なのは「無難さ」ではあるまい。
では、大切なものとは何か。
アメリカやオーストラリアなどの教育現場で小学校低学年向けの哲学系の授業などによく使われる絵本に「たいせつなこと」(内田也哉子訳、原題The Important Book)がある。
この本では、子どもにとって身近なものから、その本質とは何かを考えていく。
たとえば、スプーンならば「てでにぎれて/たいらじゃなくくぼんでいて/いろいろなものをすくいとる/でもスプーンにとって/たいせつなのは/それをつかうと/じょうずにたべられる/ということ」という具合だ。
靴やりんご、空などが登場し、ラストは「あなた」について考える。
「たいせつなのは/あなたが/あなたで/あること」
他方、日本の道徳教科書すべてに採用された「かぼちゃのつる」は、以下のような話だ。
ぐんぐんつるをのばすかぼちゃはハチや犬に「みんなのとおるみちだよ」などと止められるが「こっちへのびたい」と聞かず道路にはみ出す。揚げ句、トラックにひかれて泣いてしまう。
テーマは「わがままをしない」である。
あまりの落差に愕然とする。
「たいせつなこと」が存在の本質を見通し子どもの自己を根底から肯定しようとするのに対し、「かぼちゃ」は表層的な寓話を通じて自我を世間にとって都合よく曲げようとするのみだ。
後者は子どもをなめていないか。
それぞれの教育を受けた人が後に出会ったら、その差は明らかだろう。
自由で民主的な国の価値教育は一般に「個人のよりよい生」と「社会における共生」を目的とする。
だが、共生社会を創るにはまず「自己が自己である」ことを認められていなければならない。そうして初めて「他者が他者である」ことを尊重できるからだ。
この重要性に比べれば、感謝や挨拶などは表面にすぎないだろう。
道徳教育について、子どもの学び・育ちについて、「大切なこと」とは何か。
大人の側が問い直し、軌道修正する必要を感じる。
『東京新聞』(2017・7・30)
◆ 道徳教育、大切なこと、は?
貴戸理恵(関西学院大学准教授)
小学校で来年度から「特別の教科道徳」がスタートする。
道徳の教科化は大津いじめ自殺事件などを受け、政府が二〇一二年に提言したものだ。だが、教科化が議論されていたときの疑問は解決されないままだ。
そもそもいじめの原因は道徳の劣化なのか。
価値の押し付けにより個々の内面の自由が侵されるのではないか。
現場教師の負担が増えるだけではないか。
「決まったことだから」と思考停止せず、本源的に考え続ける必要がある。
実行の段階では目の前の作業に追われ、視界が狭くなりがちだ。たとえば、教科書検定で、あまりにも表面的な修正が要求。実施されたことは記憶に新しい。
「高齢者への尊敬と感謝」が不足しているとの検定意見で「おじさん」から「おじいさん」に表記を変えた教科書。
「伝統文化の尊重」の観点から「パン屋」を「和菓子屋」に変更した教科書。
「価値の押し付け」以前に、思考停止にも見える。
この「あまりにも表面的」という印象は、教科書を開くといっそう強まる。
全体的に「規則を守れ」「感謝せよ」「挨拶はきちんと」というメッセージであふれているのだ。
確かにこれらは、政治的・世代的・階層的な立場をこえて否定されにくいだろう。しかし、大切なのは「無難さ」ではあるまい。
では、大切なものとは何か。
アメリカやオーストラリアなどの教育現場で小学校低学年向けの哲学系の授業などによく使われる絵本に「たいせつなこと」(内田也哉子訳、原題The Important Book)がある。
この本では、子どもにとって身近なものから、その本質とは何かを考えていく。
たとえば、スプーンならば「てでにぎれて/たいらじゃなくくぼんでいて/いろいろなものをすくいとる/でもスプーンにとって/たいせつなのは/それをつかうと/じょうずにたべられる/ということ」という具合だ。
靴やりんご、空などが登場し、ラストは「あなた」について考える。
「たいせつなのは/あなたが/あなたで/あること」
他方、日本の道徳教科書すべてに採用された「かぼちゃのつる」は、以下のような話だ。
ぐんぐんつるをのばすかぼちゃはハチや犬に「みんなのとおるみちだよ」などと止められるが「こっちへのびたい」と聞かず道路にはみ出す。揚げ句、トラックにひかれて泣いてしまう。
テーマは「わがままをしない」である。
あまりの落差に愕然とする。
「たいせつなこと」が存在の本質を見通し子どもの自己を根底から肯定しようとするのに対し、「かぼちゃ」は表層的な寓話を通じて自我を世間にとって都合よく曲げようとするのみだ。
後者は子どもをなめていないか。
それぞれの教育を受けた人が後に出会ったら、その差は明らかだろう。
自由で民主的な国の価値教育は一般に「個人のよりよい生」と「社会における共生」を目的とする。
だが、共生社会を創るにはまず「自己が自己である」ことを認められていなければならない。そうして初めて「他者が他者である」ことを尊重できるからだ。
この重要性に比べれば、感謝や挨拶などは表面にすぎないだろう。
道徳教育について、子どもの学び・育ちについて、「大切なこと」とは何か。
大人の側が問い直し、軌道修正する必要を感じる。
『東京新聞』(2017・7・30)
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