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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰するべきである

2015年04月19日 | 平和憲法
 ◆ ヘイト・スピーチと闘うために
   ~二者択一思考を止めて、総合的対策を

前田 朗(東京造形大学教授)

 ◆ ヘイト・スピーチ論議のいま
 2009年12月の京都朝鮮学校襲撃事件や、2012~13年に悪化した新大久保ヘイト・デモのため、ヘイト・スピーチという言葉が2013年に流行語となった。
 しかし、日本では法律に定めがなく、言葉の意味が誤解されがちである。「ヘイト・スピーチは汚い言葉だが、表現の自由だ」。「ヘイト・スピーチには被害がない」。「日本人がヘイト・スピーチの被害者だ」---こうした誤解が横行している。
 マスコミや憲法学者は京都朝鮮学校襲撃事件をヘイト・スピーチと呼び、「スピーチだから表現の自由であり、刑事規制は難しい」という議論につなげる。
 しかし、京都朝鮮学校襲撃事件は威力業務妨害罪と器物損壊罪の有罪が確定した事件であり、暴力的犯罪である。
 ヘイト・スピーチ人種、民族、言語などを動機として、差別、暴力、差別の煽動を行うことであり、暴行・脅迫、そして極端な場合には「人道に対する罪としての迫害」「ジェノサイドの煽動」になることもある事態である。
 京都朝鮮学校襲撃事件の被害を受けた子どもたちは事件から5年後にも精神的被害を体感していると言う。ヘイト・スピーチは単なる言葉・表現ではなく、重大・深刻な被害を生む暴力的事案である。
 国際社会ヒにおいてはヘイト・スピーチ処罰が常識である。1965年の人種差別撤廃条約も1966年の国際自由権規約もヘイト・スピーチの禁止を要請している。
 憲法学者は「表現の自由を重要視する民主主義国家ではヘイト・スピーチを処罰することはできない」などと唱えてきた。
 しかし、私たちの調査により120力国以上にヘイト・スピーチ法が存在し、現に適用されていること、EU諸国はすべて処罰法を持っていることが明らかになり、無責任発言はかなり影をひそめた。
 また、ヘイト・スピーチ対策には包括的な人種差別禁止法が必要であることも明らかになった。刑罰だけでなく、民事訴訟も行政指導も必要であるし、教育や啓発・社会教育も重要であるし、世論喚起(社会的な対抗言論)も不可欠である(図参照)。総合的対策が必要であることは人種差別撤廃条約第2条から第7条に明記されているし、西欧諸国では長年の取り組みがなされてきた。人種差別禁止の法と政策には長い歴史と膨大な実践例がある。
 ところが、ヘイトスピーチ規制消極派は奇妙な二者択一を唱える。代表的なものが「処罰ではなく表現の自由だ」、「処罰か教育か」、「処罰か対抗言論か」というものである。
 ◆ 「処罰か表現の自由か」説
 ヘイトスピーチ規制消極派が真っ先に提示したのが「表現の自由が大切だからヘイト・スピーチを処罰することはできない」という二者択一である。憲法21条における表現の自由の優越的性格を強調し、処罰による委縮効果を指摘し、具体的危険性の明らかな場合以外は規制できないとする見解である。これは憲法学の定説とされているが、極めて疑問が大きい。
 ①日本で生じているヘイト・スピーチでは危険性レベルではなく現実の被害が生じているのに、それを無視している。
 ②ヘイト・スピーチが憲法13条の人格権、憲法14条の法の下の平等、憲法25条の生存権を侵害することに言及しない。
 ③表現の自由が委縮しかねないと唱えるが、マイノリティの表現の自由が現実に委縮させられていることを見ようとしない。マジョリティの「差別表現の自由」を擁護する立論をするのはなぜだろうか。
 ④かつての治安維持法と特高警察の歴史的教訓として表現の自由を唱えるのは一面的である。表現の自由を濫用して侵略戦争と民族差別を煽った歴史を反省することこそ日本国憲法の基本精神である。
 ⑤憲法12条は権利行使には責任が伴うとしている。表現の自由と責任のバランスを取る必要がある。
 「処罰か表現の自由か」という二者択一は誤りである。表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰するべきである
 ◆ 「処罰か教育か」説
 次に登場したのが「処罰してもヘイト・スピーチはなくならない。教育こそが重要である」という主張である。
 2015年1月15日に放映されたNHK・クローズアップ現代のヘイト・スピーチ特集は国内外でていねいに取材をした良い番組であるが、結論は「教育が大切だ」であった。憲法学者の多くも教育論を唱える。しかし、この主張には疑問がある。
 ①処罰積極派は「処罰でヘイトがなくなる」と主張していない。総合的対策を唱えてきた。教育が重要なのは当たり前である。
 ②「教育論者」はいかなる教育をするのか具体的な提案をしない。どのような教育によって、いつまでにヘイト・スピーチをなくすことができるのか、責任ある提案をするべきである。
 ③日本の教育が残念ながらヘイト・スピーチを予防・抑止できなかった事実をどう考えるのか、憲法学者の奥平康弘(東京大学名誉教授)は「処罰ではなく文化力の形成を」と唱える(奥平康弘「法規制はできるだけ慎重に むしろ市民の文化i力』で対抗すべきだろう」『ジャーナリズム』282号2013年)。
 なるほど、ヘイト・スピーチを許さない文化力を形成することは必要不可欠だ。問題はどのような方法で、いつまでに文化力の形成が可能なのかであるが、奥平は言及しない。具体的方法論抜きに文化力の形成を待つということは、現に生じているヘイト・スピーチとその被害を放置することしか意味しない
 「処罰か教育か」説は不適切である。処罰も教育も必要不可欠なのだ。本当に教育について考えるのならば処罰を否定するためにご都合主義的に教育論を持ち出すのではなく、教育の理念と具体的内容を明晰に語るべきである。人種差別撤廃条約第7条は教育の重要性を指摘し、これに基づいて各国で実践の追求が続いている。
 ◆ 「処罰か対抗言論か」説
 多くの憲法学者が対抗言論を唱えてきた。ヘイト・デモに対して体を張って対抗してきた弁護士の神原元『ヘイト・スピーチに対抗する人々』(新日本出版社)はカウンター行動の意義を的確に説いた好著であるが、神原も処罰でなく対抗言論をと主張する。一搬論として対抗言論が重要なのは言うまでもないが、この主張には疑問がある。
 ①処罰積極派は対抗言論も重視し、実践してきた。特に世論(社会的対抗言論)は不可欠である。しかし、それでは現に起きている被害を止めることはできないし、ヘイト・スピーチがなくなる保障はない。
 ②被害者に対抗言論を強要するのは誤りである。集団で押し掛けて「死ね」「殺す」と叫ぶ異常なデモに対して、どのような対抗言論が可能なのか、具体的な提案を見たことがない。ヘイト・スピーチは単なる発言ではなく、排除であり、生存権の否定であり、言論で対抗できる問題ではない。
 ③事前に予告されたヘイト・デモにはカウンター行動を組織できるが、常に対抗言論を組織できるとは限らない。
 「処罰か対抗論か」説は不適切である。処罰も対抗言論も必要不可欠なのだ。
(まえだあきら)

『子どもと教科書全国ネット21ニュース 100号』(2015.2)

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