■ 思想良心の自由・職務の公共性とは何か
原告ら代理人の新村です。私からは、この事件と憲法19条思想良心の自由との問題について、述べさせていただきます。
本件と憲法19条の関係について考えるとき、大きな問題は2つあります。
ひとつは、日の丸に向かっての起立、君が代の斉唱、ピアノ伴奏の強制が、そもそも原告らの思想良心の自由を制約するものかどうかという問題です。
(略)
2つ目の問題として、原告らの思想良心の自由が制約されているとしても、原告らは、「学校の先生」だからという理由で、その制約が許されてしまうのかという問題があります。
生徒に起立斉唱を強制するのはよくないけれど、先年はしょうがないんじゃない。という意見を聞くことがあります。けれど、子どもも先生も、思想良心の自由の保障に違いはありません。思想良心の自由を侵害されたときの、苦しみも同じです。
学校の先生だから、という理由を、法律的に構成すると「職務の公共性」という理論になります。しかし、職務の公共性とか、公共の福祉、などと呼ばれる理論は、人権制約が許されるかどうか、という人権制約の正当化理論です。つまり、まず、憲法上保障された権利があって、それが制約されていることを前提にして、その侵害が「許されるか」という理論です。
憲法上の権利が制約されているのですから、その制約が許されるのは、どうしても制約が必要でほかに方法がない、という極めて限定的な場合に限らなければいけません。職務の公共性、と言えば、どんな制約でもOKというわけにはいきません。
しかも、本件で侵害されているのは、憲法上の権利の中でも特に優越する自由と言われる思想良心の自由です。ですから、その制約を正当化できるかどうかについては、極めて厳格な違憲審査基準によって、どうしても制約が必要なのか、ほかに方法がないのかを厳しく審査されなければなりません。
では、学校の先生全員に、どうしても起立・斉唱・ピアノ伴奏させなければならない必要性なんてあるのでしょうか。
学習指導要領には国旗国歌条項がありますが、そこにも、自らが必ず起立斉唱して、生徒にも必ず起立斉唱するように指導しろなんて、一言も書いてありません。
被告は、先生方が不起立不斉唱だと、来賓などが不快だったり不信感を持ったりすると言いますが、不快感や不信感というような相対的な感情は、他人の思想良心の自由を奪えるものではありません。
どうしても、学校の先生全員に起立斉唱ピアノ伴奏させなければならない必要性なんて、ないのです。
また、方法も問題です。全員に職務命令を出して、式場内にできるだけ入場させて、全員に起立斉唱させる。テープによる伴奏でも何も問題ないのに、ピアノ伴奏でなければならないといい、しかも音楽教員でなければならないという。ほかに方法があるのに、それ以上の強制を行うことは許されません。
職務の公共性、といいますが、仮に、教師が公共性を持つとすれば、それは、子どもの学習権に応える教育を行うことです。
思想良心の自由に関して、子どもの学習権に応える教育とは何かといえば、子どもたちのいろいろな思想・良心を尊重して、お互いの思想良心の多様性を認め合いながら人格の完成を導いていくことが求められている教育です。日の丸君が代も思想良心の問題なのですから、子どもたちには、日の丸君が代に対する考え方や態度の多様性を教えることこそ、子どもたちの学習権に応える教育であると思います。
自らの思想良心の自由を奪われた教員が、責任をもって、子供達にその思想良心の自由の多様性を教えることができるでしょうか。
教師がもつ公共性というものが、教師の思想良心の自由の制約を許すものでないことは明らかです。
本件に関連する予防訴訟の東京地裁36部の判決は、「憲法は相反する世界観、主義、主張等を持つものに対しても相互の理解を求めている」と判示しました。ここでいう「相互の理解」、憲法上の人権とはそういうものであると思います。
社会に生きていれば、自分と思想が違う人に出会って、その人の言動に不快な思いをすることは多々ありますが、それが、社会にとって具体的な害悪にならない限りは、できる限り保障すべきとするのが、憲法の精神です。
それは、学校の中でも同じですし、いろいろな子どもたちが、お互いを尊重して学んで、人格を形成していく学校という現場だからこそ、思想良心の自由が奪われるということがあってはならないのです。それは、そこで教える教師も同じです。
裁判所には、憲法の精神に沿って、本件についてお考え頂きたいと思います。
『被処分者の会通信』第38号「東京『君が代』裁判第一次提訴第3回口頭弁論報告」より
※「『全体の奉仕者』の正しい解釈」
http://wind.ap.teacup.com/people/868.html
弁護士新村響子
原告ら代理人の新村です。私からは、この事件と憲法19条思想良心の自由との問題について、述べさせていただきます。
本件と憲法19条の関係について考えるとき、大きな問題は2つあります。
ひとつは、日の丸に向かっての起立、君が代の斉唱、ピアノ伴奏の強制が、そもそも原告らの思想良心の自由を制約するものかどうかという問題です。
(略)
2つ目の問題として、原告らの思想良心の自由が制約されているとしても、原告らは、「学校の先生」だからという理由で、その制約が許されてしまうのかという問題があります。
生徒に起立斉唱を強制するのはよくないけれど、先年はしょうがないんじゃない。という意見を聞くことがあります。けれど、子どもも先生も、思想良心の自由の保障に違いはありません。思想良心の自由を侵害されたときの、苦しみも同じです。
学校の先生だから、という理由を、法律的に構成すると「職務の公共性」という理論になります。しかし、職務の公共性とか、公共の福祉、などと呼ばれる理論は、人権制約が許されるかどうか、という人権制約の正当化理論です。つまり、まず、憲法上保障された権利があって、それが制約されていることを前提にして、その侵害が「許されるか」という理論です。
憲法上の権利が制約されているのですから、その制約が許されるのは、どうしても制約が必要でほかに方法がない、という極めて限定的な場合に限らなければいけません。職務の公共性、と言えば、どんな制約でもOKというわけにはいきません。
しかも、本件で侵害されているのは、憲法上の権利の中でも特に優越する自由と言われる思想良心の自由です。ですから、その制約を正当化できるかどうかについては、極めて厳格な違憲審査基準によって、どうしても制約が必要なのか、ほかに方法がないのかを厳しく審査されなければなりません。
では、学校の先生全員に、どうしても起立・斉唱・ピアノ伴奏させなければならない必要性なんてあるのでしょうか。
学習指導要領には国旗国歌条項がありますが、そこにも、自らが必ず起立斉唱して、生徒にも必ず起立斉唱するように指導しろなんて、一言も書いてありません。
被告は、先生方が不起立不斉唱だと、来賓などが不快だったり不信感を持ったりすると言いますが、不快感や不信感というような相対的な感情は、他人の思想良心の自由を奪えるものではありません。
どうしても、学校の先生全員に起立斉唱ピアノ伴奏させなければならない必要性なんて、ないのです。
また、方法も問題です。全員に職務命令を出して、式場内にできるだけ入場させて、全員に起立斉唱させる。テープによる伴奏でも何も問題ないのに、ピアノ伴奏でなければならないといい、しかも音楽教員でなければならないという。ほかに方法があるのに、それ以上の強制を行うことは許されません。
職務の公共性、といいますが、仮に、教師が公共性を持つとすれば、それは、子どもの学習権に応える教育を行うことです。
思想良心の自由に関して、子どもの学習権に応える教育とは何かといえば、子どもたちのいろいろな思想・良心を尊重して、お互いの思想良心の多様性を認め合いながら人格の完成を導いていくことが求められている教育です。日の丸君が代も思想良心の問題なのですから、子どもたちには、日の丸君が代に対する考え方や態度の多様性を教えることこそ、子どもたちの学習権に応える教育であると思います。
自らの思想良心の自由を奪われた教員が、責任をもって、子供達にその思想良心の自由の多様性を教えることができるでしょうか。
教師がもつ公共性というものが、教師の思想良心の自由の制約を許すものでないことは明らかです。
本件に関連する予防訴訟の東京地裁36部の判決は、「憲法は相反する世界観、主義、主張等を持つものに対しても相互の理解を求めている」と判示しました。ここでいう「相互の理解」、憲法上の人権とはそういうものであると思います。
社会に生きていれば、自分と思想が違う人に出会って、その人の言動に不快な思いをすることは多々ありますが、それが、社会にとって具体的な害悪にならない限りは、できる限り保障すべきとするのが、憲法の精神です。
それは、学校の中でも同じですし、いろいろな子どもたちが、お互いを尊重して学んで、人格を形成していく学校という現場だからこそ、思想良心の自由が奪われるということがあってはならないのです。それは、そこで教える教師も同じです。
裁判所には、憲法の精神に沿って、本件についてお考え頂きたいと思います。
『被処分者の会通信』第38号「東京『君が代』裁判第一次提訴第3回口頭弁論報告」より
※「『全体の奉仕者』の正しい解釈」
http://wind.ap.teacup.com/people/868.html
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