第3回 杉並近現代史講座
◆ 天皇の「戦争の全責任は私にある」発言はフィクションだった
<昭和天皇の「全責任を負う」発言の謎を解く マッカーサー回想記のウソ!?>
「真実を語ったらクビ」で、九段中を分限免職された増田都子元教諭が、杉並区の市民を対象に近現代史講座を始めた。その3回目は上記のタイトルで行われたが、まさしく胸のすくようなスッキリした「真実」が語られた。
B4・3枚裏表印刷の教材プリントは、1964年出版『マッカーサー回想録』からの引用で始まる。
天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」と言った。私は大きい感動に揺すぶられた。…この勇気に満ちた態度は私の骨の髄までも揺り動かした。(1945月9月27日、第1回マッカーサー・昭和天皇会見)
しかし、授業の最後に示された結論から言うと、天皇のこの言葉は後付けのフィクションだったのだ。
2002年10月に、情報公開制度により外務省の『公式文書』が開示された。
(朝日新聞記者開示請求→外務省非開示決定→不服審査申立→審査会開示を求める答申、という経過に1年半要している)
10月17日『朝日新聞』夕刊に掲載された全文の中に、「戦争責任」発言は全く見当たらない。
「此ノ戦争ニ付テハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス」
この言い訳じみた言葉だけである。
(『公式文書』全文をネット上で見ることはできないようだ。全文は小森陽一『天皇の玉音放送』五月書房に引用されている。もちろん『朝日新聞縮刷版』でも見ることが出来る。)
その後も天皇戦争責任自認発言についての「論争」は、通訳が勝手に削除したのではないかとか一部で続いているようだが、『公式文書』に載っていないという事実は重い。この時点で決着がついている。
ではこの天皇戦争責任自認発言は、誰が何のために「捏造」をしたのか。
増田さんの授業プリントでは、1945/9/27の会見から、天皇が何を語ったのか、その後の報道など内外の様々な記録が引用され、検証が試みられている。
おおむね、1948/11/12東京裁判で東条ら7人に死刑判決が出る以前のものは、「国民への責任転嫁」か「東条への責任転嫁」の論調である。
■1945/10/2 ニューヨークタイムズ記事<戦争責任は後世の判断>
「天皇は、誰が責任を負うべきかについてマッカーサー元帥がなんら言及しなかったことに、とりわけ感動した。天皇は個人的見解として、最終的な判断は後世の歴史家にゆだねざるを得ないであろうとの考えを表明したが、マッカーサー元帥は何一つ意見を述べなかった。」
■1945/10/27 アチソンがマッカーサーから聞いた記録<東条が私を騙した>
「米政府が日本の宣戦布告をを受領する前に真珠湾を攻撃する意図はなかったが、東条が私を騙した」
■1946/1/29 マッカーサーが、極東諮問委員会代表団との会見で<圧力に抗し得なかった>
「私としては決して戦争を望んでいなかったが、自分であれ開戦時に政界や世論の圧力に対して有効な抵抗をすることは出来なかった」
■1946/3/4 『ライフ』記事<圧力に抗し得なかった>
「もし私が許さなかったら、新しい天皇が立てられていたであろう。戦争は国民の意思であった。」
■1951出版 ジョン・ガンサー『マッカーサーの謎』<圧力に抗し得なかった>
「もし私が戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民は私をきっと精神病院かなにかに入れて、戦争が終わるまでそこに押し込めておいたに違いない。」
ところが、55年以降になると一変して「全責任を負う」一色になっていく。
●1955/1月 『文藝春秋』の対談 矢次一夫と松平康昌<朕を裁け>
「私は陛下がご自身で、文部百官に罪なし、朕を裁け、と仮にですよ、言われたとすると、だいぶ情勢が違ったろうと、時に思うんですが。東洋流のいわゆる敗軍の将、面縛して勝者の前に立ち、勝者これを辱めず、というように。しかし無理な注文だと思いますが。」
●1955/9/14 『読売新聞』重光葵の手記<全責任を取ります>
「私は日本の戦争遂行に伴ういかなる事にもまた事件にも全責任を取ります。また私は、日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様なものであろうとも、それは自分に問題ではない。私は全責任を負います。」
●1961/出版 藤田尚徳『侍従長の回想』<責任は全て私にある>
●1965/8月号 『文藝春秋』田中隆吉証言<私だけ処罰してもらいたい>
そして、64年出版の『マッカーサー回想録』で、フィクションが確立することになる。
天皇の人柄が高潔であるという美談は、日本人的感性に訴えて、天皇を美化することに大いに貢献してきたことは間違いない。でも後付けの作り話はもうお終いだ。
天皇は自ら「戦争の全責任を負う」などと語ったことは一切なかった。
では仮に、天皇が「戦争の全責任を負う」と、本当に言ったとしたらどうなるか。
「天皇の戦争責任論争」にキッパリ終止符が打たれるだろう。
天皇には戦争責任がある。何より天皇自身が「戦争責任」を自らの言葉で認めたのだから。
右翼の論客諸氏も、天皇の戦争責任を前提として、その責任の取り方があれでよかったのかを論じなければならなくなるだろう。
そもそも、天皇の「自責発言」と、「天皇に戦争責任なし」は、相互に両立しえない立場である。
授業では、連合国はなぜ天皇の戦争責任を追及しなかったかについても、様々な資料に基づいて分析があった。
私の理解では、マッカーサーが最優先したのは「占領統治の成功」であって、天皇制など二の次だったのだろう。東西対立の中で、ソ連を押さえ込もうとするマッカーサーと、共産主義嫌いな昭和天皇とが意気投合したとも言える。要するに「政治的思惑」の中で、連合国側からの天皇の戦争責任は見逃されることになったのだ。
しかし、外国からは責任を追及されなかったとしても、対内的なの「戦争責任」はどうなったのだろう。連合国側に対しては「諸国の裁決にゆだねる」と恭順の意を表しつつ、国民に向けては謝罪の一つもないというのは、指導者の人格として誉められたものだろうか。天皇の「自責発言」があったとしても、戦勝国から免罪してもらうためのものであったとしたら、自己保身のための外向けのポーズでしかなかったことになる。
歴史教育は「客観的事実」に基づくことが根本である。『公式文書』に載っていない天皇の言葉をあたかも事実であるかのように「人物コラム」に載せている扶桑社の歴史教科書は検定をやり直すべきだろう。そうでなければ「歴史」の看板を外して「物語」とでも看板を掛け替えるべきだ。
大変有意義な授業であった。こんなすてきな授業を聞けなくなった区立の中学生達は本当に気の毒である。
◆ 天皇の「戦争の全責任は私にある」発言はフィクションだった
<昭和天皇の「全責任を負う」発言の謎を解く マッカーサー回想記のウソ!?>
「真実を語ったらクビ」で、九段中を分限免職された増田都子元教諭が、杉並区の市民を対象に近現代史講座を始めた。その3回目は上記のタイトルで行われたが、まさしく胸のすくようなスッキリした「真実」が語られた。
B4・3枚裏表印刷の教材プリントは、1964年出版『マッカーサー回想録』からの引用で始まる。
天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」と言った。私は大きい感動に揺すぶられた。…この勇気に満ちた態度は私の骨の髄までも揺り動かした。(1945月9月27日、第1回マッカーサー・昭和天皇会見)
しかし、授業の最後に示された結論から言うと、天皇のこの言葉は後付けのフィクションだったのだ。
2002年10月に、情報公開制度により外務省の『公式文書』が開示された。
(朝日新聞記者開示請求→外務省非開示決定→不服審査申立→審査会開示を求める答申、という経過に1年半要している)
10月17日『朝日新聞』夕刊に掲載された全文の中に、「戦争責任」発言は全く見当たらない。
「此ノ戦争ニ付テハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス」
この言い訳じみた言葉だけである。
(『公式文書』全文をネット上で見ることはできないようだ。全文は小森陽一『天皇の玉音放送』五月書房に引用されている。もちろん『朝日新聞縮刷版』でも見ることが出来る。)
その後も天皇戦争責任自認発言についての「論争」は、通訳が勝手に削除したのではないかとか一部で続いているようだが、『公式文書』に載っていないという事実は重い。この時点で決着がついている。
ではこの天皇戦争責任自認発言は、誰が何のために「捏造」をしたのか。
増田さんの授業プリントでは、1945/9/27の会見から、天皇が何を語ったのか、その後の報道など内外の様々な記録が引用され、検証が試みられている。
おおむね、1948/11/12東京裁判で東条ら7人に死刑判決が出る以前のものは、「国民への責任転嫁」か「東条への責任転嫁」の論調である。
■1945/10/2 ニューヨークタイムズ記事<戦争責任は後世の判断>
「天皇は、誰が責任を負うべきかについてマッカーサー元帥がなんら言及しなかったことに、とりわけ感動した。天皇は個人的見解として、最終的な判断は後世の歴史家にゆだねざるを得ないであろうとの考えを表明したが、マッカーサー元帥は何一つ意見を述べなかった。」
■1945/10/27 アチソンがマッカーサーから聞いた記録<東条が私を騙した>
「米政府が日本の宣戦布告をを受領する前に真珠湾を攻撃する意図はなかったが、東条が私を騙した」
■1946/1/29 マッカーサーが、極東諮問委員会代表団との会見で<圧力に抗し得なかった>
「私としては決して戦争を望んでいなかったが、自分であれ開戦時に政界や世論の圧力に対して有効な抵抗をすることは出来なかった」
■1946/3/4 『ライフ』記事<圧力に抗し得なかった>
「もし私が許さなかったら、新しい天皇が立てられていたであろう。戦争は国民の意思であった。」
■1951出版 ジョン・ガンサー『マッカーサーの謎』<圧力に抗し得なかった>
「もし私が戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民は私をきっと精神病院かなにかに入れて、戦争が終わるまでそこに押し込めておいたに違いない。」
ところが、55年以降になると一変して「全責任を負う」一色になっていく。
●1955/1月 『文藝春秋』の対談 矢次一夫と松平康昌<朕を裁け>
「私は陛下がご自身で、文部百官に罪なし、朕を裁け、と仮にですよ、言われたとすると、だいぶ情勢が違ったろうと、時に思うんですが。東洋流のいわゆる敗軍の将、面縛して勝者の前に立ち、勝者これを辱めず、というように。しかし無理な注文だと思いますが。」
●1955/9/14 『読売新聞』重光葵の手記<全責任を取ります>
「私は日本の戦争遂行に伴ういかなる事にもまた事件にも全責任を取ります。また私は、日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様なものであろうとも、それは自分に問題ではない。私は全責任を負います。」
●1961/出版 藤田尚徳『侍従長の回想』<責任は全て私にある>
●1965/8月号 『文藝春秋』田中隆吉証言<私だけ処罰してもらいたい>
そして、64年出版の『マッカーサー回想録』で、フィクションが確立することになる。
天皇の人柄が高潔であるという美談は、日本人的感性に訴えて、天皇を美化することに大いに貢献してきたことは間違いない。でも後付けの作り話はもうお終いだ。
天皇は自ら「戦争の全責任を負う」などと語ったことは一切なかった。
では仮に、天皇が「戦争の全責任を負う」と、本当に言ったとしたらどうなるか。
「天皇の戦争責任論争」にキッパリ終止符が打たれるだろう。
天皇には戦争責任がある。何より天皇自身が「戦争責任」を自らの言葉で認めたのだから。
右翼の論客諸氏も、天皇の戦争責任を前提として、その責任の取り方があれでよかったのかを論じなければならなくなるだろう。
そもそも、天皇の「自責発言」と、「天皇に戦争責任なし」は、相互に両立しえない立場である。
授業では、連合国はなぜ天皇の戦争責任を追及しなかったかについても、様々な資料に基づいて分析があった。
私の理解では、マッカーサーが最優先したのは「占領統治の成功」であって、天皇制など二の次だったのだろう。東西対立の中で、ソ連を押さえ込もうとするマッカーサーと、共産主義嫌いな昭和天皇とが意気投合したとも言える。要するに「政治的思惑」の中で、連合国側からの天皇の戦争責任は見逃されることになったのだ。
しかし、外国からは責任を追及されなかったとしても、対内的なの「戦争責任」はどうなったのだろう。連合国側に対しては「諸国の裁決にゆだねる」と恭順の意を表しつつ、国民に向けては謝罪の一つもないというのは、指導者の人格として誉められたものだろうか。天皇の「自責発言」があったとしても、戦勝国から免罪してもらうためのものであったとしたら、自己保身のための外向けのポーズでしかなかったことになる。
歴史教育は「客観的事実」に基づくことが根本である。『公式文書』に載っていない天皇の言葉をあたかも事実であるかのように「人物コラム」に載せている扶桑社の歴史教科書は検定をやり直すべきだろう。そうでなければ「歴史」の看板を外して「物語」とでも看板を掛け替えるべきだ。
大変有意義な授業であった。こんなすてきな授業を聞けなくなった区立の中学生達は本当に気の毒である。
扶桑社の歴史教科書では「人物コラム」に昭和天皇の「全責任発言」を載せているようですが、授業で生徒から「天皇には戦争責任があるのですか?」と聞かれたら、先生は何と答えるのでしょう。
マッカーサーに対しては「責任ある」けれど、国民に対しては「責任ない」とでも答えるのでしょうか。そんな天皇を生徒は敬愛するでしょうか。