=7.17都立病院をなくすな講演集会(於:亀戸文化センター3階ホール)=
◆ 山田真さん講演録 (一部抜粋)
◆ 医局制度と都立病院
私が卒業した1967年頃は都立病院というのはあまり都民が行きたがらない病院になっていて、典型が歌舞伎町の裏にある大久保病院でした。
ここへ私の親しい外科医が就職したんですが物凄い大変だという。指を切り落としたヤクザがこれをくっつけてくださいともって来るんですよと言う。
大体あまりひとが近寄らないようなところにあって病院は老朽化していて医者は集まらないという状態でした。
だけど大久保病院だけでなく多くの都立病院がそういう状況にあった。医者が集まらないというのはある意味日本の病院と大学をつなぐ医局制というものの弊害なんです。
大体都内でも大きな病院は今名前が変わっていますけれども元々は東京第一病院と第二病院がありました。第一病院は東大から東大から医者が派遣されて、第二病院は慶應から派遣される。
大学と大病院がつながっていて、病院の側は大学から医者を派遣してもらう。だから大学には頭が上がらない状態になっている。
それで古くからある国立の大学なんかは沢山そういう病院を抱えてまして都内のかなり有名な病院というかはほとんど東大が持っていて、医科歯科なんかだと都内で就職できる病院は少なくて例えば千葉とか多摩とかそういう地域へ就職するという。大学なんかと病院の結びつきは非常に強かったんです。
だからそういう関連病院と言いますけれども大学の関連病院がつながった形であったんですが、都立病院はどこの大学ともっながっていなかったんですね。だから派遣してもらえる状況にはなかった。
それで一般に公募して医者を集めるという状態だったのでそういう言い方をすると失礼ですが、あちこちの病院を転々としているようなお医者さんが就職してくるような状態だったようです。
私たちがストライキをやって翌年東大闘争になったので私たちは関連病院ボイコットというのをやりました。どうやらこの医局制というのが良くないと。
こういう関連病院を全部抑えてそういうところへの人事権を教授が一手に握っているのは絶対に良くないということで関連病院へは行かないと。
大学を出て就職することになったんですけれども、普通は東大へ研修生で残るかあるいは関連病院といわれる大病院へ行くことになるんですけれども、大学へももちろんいかないし、関連病院へも行かないということにしました。
その時は医者が居なくて困っている病院から沢山来てくださいというお願いが来ました。
私はバイトを斡旋する係になっていたんですが、静岡の焼津、藤枝、清水などは軒並み市立病院を持っているんですが当時は医科大学が無い県でそれで東大から少し行ったりするんだけれども、名古屋からきてもらったり、あるいは京都から来てもらったりとかの混合群でそれで医者の数が足りなくて困っていたんですね。
困っているところの事務長さんが私らのところへ来て是非医者を寄こしてくださいと土下座されたりして私たちもびっくりしたんですが、そういう状態の中で私たちの世代、それから私たちより1年上の世代の活動家といわれるような人が都立病院へ行きました。
◆ 美濃部都知事による都立病院の建て直し
それに応じるような形で美濃部さんが都立病院の建て直しをしたんです。一つひとつの病院の個性を持たせるやり方をした。
当時は脳外科医はほとんどの病院にはいなかった。一方でテレビでベンケーシーという脳外科医がメインになるアメリカのドラマが流行っていて医者になろうとするものはかなりケーシーにあこがれたもんです。ケーシー高峰(コメディアン)というのはそのベンケーシーからとった名前だったんです。「アメリカには脳外科というのがあるんだ」と思うような時代だったんです。
美濃部さんは都内の3つの都立病院に脳外科を置きました。それが墨東と豊島と府中だった。ここにまだ少ない脳外科医を配置しました。
精神科の救急みたいなのをやる病院がほとんどない。日本は医療でいろいろねじれたところがあってものすごく進んでいるようですが、かなり無駄が多かったり、矛盾が多かったりします。
日本では精神科は単独の病院になっていることが多くて、総合病院の中に精神科が組み込まれていない。精神病院の方には精神科のお医者さんしかいない。
内科医と脳外科医がいないというねじれた状態になっていて、精神科の患者さんが透析をしなくてはいけないとか、あるいは結核にかかった時に見てくれる病院が無かったんですよ。
そういう意味ではいろんな科のお医者さんが揃っているのは松沢しかないという状況でした。墨東病院は精神科の救急を置いてくれました。
だから精神科の患者さんなんかで夜中に具合が悪くなった時は少し遠いけど墨東に行けば何とかなると墨東が使われていた。
それから海外から感染症が入ってくるというと、広尾とか駒込とかそういう病院が感染症の対策をとっていて、いざという時にはそういうところが中心になって対応するというようなことになりました。
それで都立病院は急に評価があがって、医者も沢山集まり患者さんも沢山来るようになった。
そんな中で4つの小児病院も生まれたんですけれども、小児病院というのも日本では長い間、小児の專門病院がありませんで、国立小児病院というのが世田谷にできたのが最初でした。その後東京の中に4つの病院ができたわけです。
府中と清瀬と八王子と梅ヶ丘ですけれども、梅が丘というのは小児精神科の病院であってこれは全国に一つしかありません。
今、思春期で精神疾患にかかった人は本当に行くところがないですね。結局民間の精神病院しか行くところがない。都立病院なんかで精神科を置いているところもありますが少し重い人を受け入れるようなことにはなっていなくてほとんど軽い人だけをみているという状況になっているもんですから、重い精神科の患者さんは結局民間の病院へ行くことになりますけれども、この民間の病院がかなり改革されたとはいえ、あまり質が良くないというか長期の入院になるとか他の科のお医者さんがいないとかの状態にある。
特に小さい子供の場合は精神科ではなく、小児神経という部門があって小児科で観るということをするんですが、小児科というのは15歳で終わりですから15歳になってそれまで続いていた病気については本当に行くところが無いんです。
そういう状態の中で梅が丘というのはかなり貴重な病院でした。
そういう病院が統廃合という形で一緒にされてしまうということになると、私は八王子で仕事をしているんですけれども、八王子小児病院というのはほとんど近所ですが、とても助かっていました。
八王子の病院が抱えていたのは青梅くらいから山梨の東京よりのところまでのかなり広域を引き受けていて、先ほど未熟児で生まれた赤ちゃんの話をされましたけれども新生児用の救命病棟というようなところはほとんどまず少ない大学病院にしかないという状態で、そういう中で八王子は当時は公立の病院もなく、大学病院もない状態で都立の小児病院が小児の救急救命医療をやってくれました。
それから障害をもった子供というのは実際に見てもらえるところが少ないんです。
結局大学の小児神経というようなところで観てもらうことになっているので普段風邪を引いたとか耳が痛いとかと言った時に「障害を持った子は分からないから」と断られることが多い。
特に知的な障害をもった子は本当に見てもらえる病院が少ないということがあって八王子小児病院なんかは障害をもった子が、沢山行ってました。
ほとんど他の病院へ行くことができなく八王子小児病院に来ていた。そういう風に八王子小児病院でなければ引き受けられない子供たちがいて、それは清瀬もそうでしたし、梅が丘ももちろんそうでした。他に行き先が無いんですね。
例えば最近コロナで広尾病院に専用のベッドを置くことにしたら、お産間際のお母さんが出ろと言われて、今産婦人科も凄く少なくなっていますから、結局千葉の病院へ行くことになったんだけれど、広尾から千葉って遠いですよね。
そういう風に受け入れ先が無いのに潰してしまうという。名目上は小児病院をつぶすという時も、そこをつぶしてハイレベルの医療ができるようにするというんですけれども、いくらハイレベルになっても遠くではいけない。
特に子供の病気の場合は緊急性が重要でいくらいい医療をやっているといっても行けないような遠いところでは全く意味がないわけで、特に障害をもった子供たちと保護者は無くなるのは困るという思いを強くしました。
それぞれの病院に守る会のようなものができたんですけれども、八王子なんかは障害をもった子供の保護者が作って、それが共産党系の新婦人の会が応援するなどになりましたから、小児病院の反対運動は共産党の人たちでやられました。
八王子にも共産党系の診療所があって最初はそこの診療所のドクターが応援していたんですが、共産党らしいと言えば共産党らしいんですが、医師会全体が無くすことに反対しないというなら共産党の診療所も特に反対しないという立場になってしまい、それで応援してくれるどこかがいなくなったということで、私が頼まれて参加することになりました。
それなりに運動をしたんですが地域への運動が足りませんでした。無くなったらどういうことになるのかということを説得力ある形で示すことができなかった。
もう少し小児病院の問題だけで無くてもっと広く国全体の問題であり、都の問題であり、子供だけでなく大人の問題であることをちゃんと言っていかなければと思いました。
とりあえず果たされないまま終わってしまいました。
当時、民主党も反対していましたが、これもなるようになるんでいつの間にか賛成する側に回って、最後は都議会レベルで反対したのは生活クラブと共産党だけです。
私は個人的には非常に不便になりました。
その時反対した親の人たちは独法化に反対する運動は続けてはいますが、しかし非常に力が弱いものになっているというのが現状です。
結局、独法化が進められていくわけですが、それは医療だけの問題ではなくて合理化の問題であり、新自由主義化の問題であるということです。これ資料の中に入っていますね。
◆ 山田真さん講演録 (一部抜粋)
◆ 医局制度と都立病院
私が卒業した1967年頃は都立病院というのはあまり都民が行きたがらない病院になっていて、典型が歌舞伎町の裏にある大久保病院でした。
ここへ私の親しい外科医が就職したんですが物凄い大変だという。指を切り落としたヤクザがこれをくっつけてくださいともって来るんですよと言う。
大体あまりひとが近寄らないようなところにあって病院は老朽化していて医者は集まらないという状態でした。
だけど大久保病院だけでなく多くの都立病院がそういう状況にあった。医者が集まらないというのはある意味日本の病院と大学をつなぐ医局制というものの弊害なんです。
大体都内でも大きな病院は今名前が変わっていますけれども元々は東京第一病院と第二病院がありました。第一病院は東大から東大から医者が派遣されて、第二病院は慶應から派遣される。
大学と大病院がつながっていて、病院の側は大学から医者を派遣してもらう。だから大学には頭が上がらない状態になっている。
それで古くからある国立の大学なんかは沢山そういう病院を抱えてまして都内のかなり有名な病院というかはほとんど東大が持っていて、医科歯科なんかだと都内で就職できる病院は少なくて例えば千葉とか多摩とかそういう地域へ就職するという。大学なんかと病院の結びつきは非常に強かったんです。
だからそういう関連病院と言いますけれども大学の関連病院がつながった形であったんですが、都立病院はどこの大学ともっながっていなかったんですね。だから派遣してもらえる状況にはなかった。
それで一般に公募して医者を集めるという状態だったのでそういう言い方をすると失礼ですが、あちこちの病院を転々としているようなお医者さんが就職してくるような状態だったようです。
私たちがストライキをやって翌年東大闘争になったので私たちは関連病院ボイコットというのをやりました。どうやらこの医局制というのが良くないと。
こういう関連病院を全部抑えてそういうところへの人事権を教授が一手に握っているのは絶対に良くないということで関連病院へは行かないと。
大学を出て就職することになったんですけれども、普通は東大へ研修生で残るかあるいは関連病院といわれる大病院へ行くことになるんですけれども、大学へももちろんいかないし、関連病院へも行かないということにしました。
その時は医者が居なくて困っている病院から沢山来てくださいというお願いが来ました。
私はバイトを斡旋する係になっていたんですが、静岡の焼津、藤枝、清水などは軒並み市立病院を持っているんですが当時は医科大学が無い県でそれで東大から少し行ったりするんだけれども、名古屋からきてもらったり、あるいは京都から来てもらったりとかの混合群でそれで医者の数が足りなくて困っていたんですね。
困っているところの事務長さんが私らのところへ来て是非医者を寄こしてくださいと土下座されたりして私たちもびっくりしたんですが、そういう状態の中で私たちの世代、それから私たちより1年上の世代の活動家といわれるような人が都立病院へ行きました。
◆ 美濃部都知事による都立病院の建て直し
それに応じるような形で美濃部さんが都立病院の建て直しをしたんです。一つひとつの病院の個性を持たせるやり方をした。
当時は脳外科医はほとんどの病院にはいなかった。一方でテレビでベンケーシーという脳外科医がメインになるアメリカのドラマが流行っていて医者になろうとするものはかなりケーシーにあこがれたもんです。ケーシー高峰(コメディアン)というのはそのベンケーシーからとった名前だったんです。「アメリカには脳外科というのがあるんだ」と思うような時代だったんです。
美濃部さんは都内の3つの都立病院に脳外科を置きました。それが墨東と豊島と府中だった。ここにまだ少ない脳外科医を配置しました。
精神科の救急みたいなのをやる病院がほとんどない。日本は医療でいろいろねじれたところがあってものすごく進んでいるようですが、かなり無駄が多かったり、矛盾が多かったりします。
日本では精神科は単独の病院になっていることが多くて、総合病院の中に精神科が組み込まれていない。精神病院の方には精神科のお医者さんしかいない。
内科医と脳外科医がいないというねじれた状態になっていて、精神科の患者さんが透析をしなくてはいけないとか、あるいは結核にかかった時に見てくれる病院が無かったんですよ。
そういう意味ではいろんな科のお医者さんが揃っているのは松沢しかないという状況でした。墨東病院は精神科の救急を置いてくれました。
だから精神科の患者さんなんかで夜中に具合が悪くなった時は少し遠いけど墨東に行けば何とかなると墨東が使われていた。
それから海外から感染症が入ってくるというと、広尾とか駒込とかそういう病院が感染症の対策をとっていて、いざという時にはそういうところが中心になって対応するというようなことになりました。
それで都立病院は急に評価があがって、医者も沢山集まり患者さんも沢山来るようになった。
そんな中で4つの小児病院も生まれたんですけれども、小児病院というのも日本では長い間、小児の專門病院がありませんで、国立小児病院というのが世田谷にできたのが最初でした。その後東京の中に4つの病院ができたわけです。
府中と清瀬と八王子と梅ヶ丘ですけれども、梅が丘というのは小児精神科の病院であってこれは全国に一つしかありません。
今、思春期で精神疾患にかかった人は本当に行くところがないですね。結局民間の精神病院しか行くところがない。都立病院なんかで精神科を置いているところもありますが少し重い人を受け入れるようなことにはなっていなくてほとんど軽い人だけをみているという状況になっているもんですから、重い精神科の患者さんは結局民間の病院へ行くことになりますけれども、この民間の病院がかなり改革されたとはいえ、あまり質が良くないというか長期の入院になるとか他の科のお医者さんがいないとかの状態にある。
特に小さい子供の場合は精神科ではなく、小児神経という部門があって小児科で観るということをするんですが、小児科というのは15歳で終わりですから15歳になってそれまで続いていた病気については本当に行くところが無いんです。
そういう状態の中で梅が丘というのはかなり貴重な病院でした。
そういう病院が統廃合という形で一緒にされてしまうということになると、私は八王子で仕事をしているんですけれども、八王子小児病院というのはほとんど近所ですが、とても助かっていました。
八王子の病院が抱えていたのは青梅くらいから山梨の東京よりのところまでのかなり広域を引き受けていて、先ほど未熟児で生まれた赤ちゃんの話をされましたけれども新生児用の救命病棟というようなところはほとんどまず少ない大学病院にしかないという状態で、そういう中で八王子は当時は公立の病院もなく、大学病院もない状態で都立の小児病院が小児の救急救命医療をやってくれました。
それから障害をもった子供というのは実際に見てもらえるところが少ないんです。
結局大学の小児神経というようなところで観てもらうことになっているので普段風邪を引いたとか耳が痛いとかと言った時に「障害を持った子は分からないから」と断られることが多い。
特に知的な障害をもった子は本当に見てもらえる病院が少ないということがあって八王子小児病院なんかは障害をもった子が、沢山行ってました。
ほとんど他の病院へ行くことができなく八王子小児病院に来ていた。そういう風に八王子小児病院でなければ引き受けられない子供たちがいて、それは清瀬もそうでしたし、梅が丘ももちろんそうでした。他に行き先が無いんですね。
例えば最近コロナで広尾病院に専用のベッドを置くことにしたら、お産間際のお母さんが出ろと言われて、今産婦人科も凄く少なくなっていますから、結局千葉の病院へ行くことになったんだけれど、広尾から千葉って遠いですよね。
そういう風に受け入れ先が無いのに潰してしまうという。名目上は小児病院をつぶすという時も、そこをつぶしてハイレベルの医療ができるようにするというんですけれども、いくらハイレベルになっても遠くではいけない。
特に子供の病気の場合は緊急性が重要でいくらいい医療をやっているといっても行けないような遠いところでは全く意味がないわけで、特に障害をもった子供たちと保護者は無くなるのは困るという思いを強くしました。
それぞれの病院に守る会のようなものができたんですけれども、八王子なんかは障害をもった子供の保護者が作って、それが共産党系の新婦人の会が応援するなどになりましたから、小児病院の反対運動は共産党の人たちでやられました。
八王子にも共産党系の診療所があって最初はそこの診療所のドクターが応援していたんですが、共産党らしいと言えば共産党らしいんですが、医師会全体が無くすことに反対しないというなら共産党の診療所も特に反対しないという立場になってしまい、それで応援してくれるどこかがいなくなったということで、私が頼まれて参加することになりました。
それなりに運動をしたんですが地域への運動が足りませんでした。無くなったらどういうことになるのかということを説得力ある形で示すことができなかった。
もう少し小児病院の問題だけで無くてもっと広く国全体の問題であり、都の問題であり、子供だけでなく大人の問題であることをちゃんと言っていかなければと思いました。
とりあえず果たされないまま終わってしまいました。
当時、民主党も反対していましたが、これもなるようになるんでいつの間にか賛成する側に回って、最後は都議会レベルで反対したのは生活クラブと共産党だけです。
私は個人的には非常に不便になりました。
その時反対した親の人たちは独法化に反対する運動は続けてはいますが、しかし非常に力が弱いものになっているというのが現状です。
結局、独法化が進められていくわけですが、それは医療だけの問題ではなくて合理化の問題であり、新自由主義化の問題であるということです。これ資料の中に入っていますね。
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