パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

教育の本質

2004年12月30日 | 藤田掲示板のログ
クリスマスプレゼント!! 投稿者:板校保護者  投稿日:12月24日(金)12時36分49秒

クリスマスイブだと言うのに誰もプレゼントをくれそうにないので、自分で探して拾ってきた。澤藤統一郎事務局長日記の中に

『教育とは本質的に全人格的な接触において、子ども・生徒の可能性を引き出す営みであって、それを担うものは教師である』

と言うことばがあった。短く簡潔だが、教育の本質を見事に具現化した重いことばと感じた。若い頃このことばの意味を深く理解したならば教師になっていたかもしれない。学校教育に限らず広い意味での『教育』と捉え、「教師」を「親」や「社会」と置き換えても理解できる。世間の事象すべてが「教師」になり得る。

Merry! Christmas!

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続き!! 投稿者:板校保護者  投稿日:12月27日(月)21時47分22秒

『教育とは本質的に全人格的な接触において、子ども・生徒の可能性を引き出す営みであって、それを担うものは教師である』

「教育基本法」や「教育理念」を凝縮したようなこの文面を正しく理解するならば「日の丸・君が代強制」などは一目瞭然に不条理、不可解と気づくはずである。

職務命令自体に法的根拠が無いことは誰しもがわかるが、それはさて置いたとしてもまず強制によって、心情的に「歌いたくない」あるいは「歌えない」教師、生徒などに疎外感、罪悪感、屈辱感を与え、歌う歌わないにかかわらず人格が否定されることになる。その結果、全人格的な接触などには到底及ばなくなる。焦燥感や屈辱感を携えたまま生徒と接触をすることになり生徒もそれを感じ取ってしまうからだ。

しかもそれを受け入れた生徒にも迷いや葛藤が生じ、生徒自身の思考や行動にも自我による抑圧、抑制が働いてしまう。これにより自由発想や可能性などが著しく制約され、文面にあるような生徒の可能性を引き出す営みとは程遠くなってしまう。

さらにそれを担うものは教師であるはずなのに、職務命令を校長に出させることによりその部分に取って代わり介入している。しかも「教育行政は・・・・・整備確立を目標として行われなければならない」と言う条文を逸脱しており、当然のことながらこのことは教育基本法第十条に抵触している。

このように不条理で非合法な東京都教委による「日の丸・君が代強制」は法的根拠を示さずとも、冒頭の文面ひとつのみでも十分対抗しうるほど粗雑かつ軽薄であり、「人間の尊厳」を軽んじた、教育理念をもいとも簡単に踏みにじるに足りる行為といわざるを得ない。


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