◎ 小さな職場の「日の丸・君が代」闘争
卒業生が毎年1、2名という特殊な状況の学校での出来事なので、果たして読者にどんな意味があるかどうか。私の「日記」のメモをそのまま引用し、わずかに解説をつけるのみとする。
◆ 2002年3月 卒業式 卒業生(1名M君40歳代)K校長
2月27日 職員会議
校長は「日の丸・君が代を前提とした卒業式」以外認めないと言明。
もし、卒業生が出席を拒否するなら、卒業式そのものができない。出席できるように説得してくれ、明日までにはっきりさせてくれ、など。
論理的にも崩壊しつつ、追い込まれている。生徒の姿など無関心そのもの。
3月4日 校長来校 M君と会談(本人出席拒否)。校長卒業式実施せずを表明。卒業式中止!!
追い込まれた校長は本人に意志を確認したいと来校。しかし、本人が出席を拒否。
校長なす術なく、卒業式を中止すると表明。証書授与も拒否したので、職員から猛反発。
3月5日 卒業式
卒業式もなく、校長・教頭も不在のまま、実に和やかな送別式が行なわれた。
新校長は、教育庁からやってきた昨年度の全都の日の丸・君が代の総括責任者だと聞いたが、現場の長としては、強圧的な官僚主義者で、無能だった。
卒業式前日、分教場へやってきた校長はM君と職員室のソファに対座して会談。
M君(失業対策事業の道路清掃に従事)自身は、日頃から「俺は日の丸も君が代も、天皇も大嫌いだ」と言って憚らない人物だったが、その場でも同じような発言をしていた。
校長は説得できず、沈黙。
説得に失敗した校長は何と卒業式そのものの中止を言明、卒業証書の授与まで拒否する珍事が発生、当日は学校にも来なかった。いわば職場放棄。
送別会は生徒会主催で、在校生や教職員が一人一人お祝いの言葉を述べ、感動的なものだった。卒業証書授与はここで担任が代読して、行った。
◆ 2003年3月 卒業生2名(H君50歳代、S君10代) 校長 加藤明
2月13日 職員会議
議題 卒業式
3月6日 卒業式生徒の強力な意志によって、何と2年連続の卒業式お流れ。
送別会は感動的であった。
この年は、我が分教場の廃校が決定した年であった。
7月に「分教場廃校」という都の方針が出され、秋にかけて、職員・生徒・PTA・同窓会等の反対運動が展開された。4000名の反対署名、町議会の反対決議採択や島嶼選出の都議員とともに学務部長要請を行ったり、学務課長の現地説明会をさせたりもした。都高教を頼れる状況ではなかった。
結果は「1年後に廃校」(その後の在校生は元町校へ移れ)という敗北決着だった(通学できないから分教場が設けられているのに)。
この間、校長は、せめて在校生は分教場で卒業できるように配慮されたいという文書を都に提出すると言明、その文案を生徒にも紹介した。しかし、都側の圧力で文章を撤回、学内の報告の場でその節操のなさを生徒になじられ、20分近くも言葉を失う始末であった。抗議をして学校を去った生徒もいた。
「日の丸・君が代」以前に校長は生徒の信頼を失っていた。
校長は昨年同様2名の卒業生と会談したが説得に失敗した。
H君(清掃職員)は昨年のM君同様「天皇なんか大嫌い。」組だったが、寡黙な十代のS君(酒屋勤務)が面と向かって「校長は信用できない。」発言したのには驚きを禁じえなかった。
◆ 2004年3月 卒業生(O君1名) 校長 加藤明
2月16日 職員会議
卒業式の件で議論。
「生徒は出ないと言っている。」に、校長は窮している。
3月2日 卒業式
O君は宣言通り、卒業式を欠席、式は成立しなかった。
校長は、都の役人(実際は支庁から副所長が来た。)に待ちぼうけをさせながら式場内で20分留まり、お開き。馬鹿げた恥さらしをしてしまった。
お陰で服務違反をする必要もなく、式場内に居ることもなく終わった。
式は出来なかったと正確に報告するのだろうか?
とうとう3年間卒業式が出来ず終いだ。
……送別会は小じんまりと和気あいあいであった。
この年は「10・23通達」に伴う弾圧の嵐到来の年であった。
校長は、「卒業生のいない卒業式」を終えるとさっさと、教頭共々、元町校へ帰ってしまった。
O君(清掃業務)に対する校長の説得については記憶がない。O君については「通信第39号2ページ」のF氏発言を参照されたい。
~おわり~
『藤田先生を応援する会通信』(第40号 2010/4/8)
会坂 収(元・都立大島高校定時制南分教場)
卒業生が毎年1、2名という特殊な状況の学校での出来事なので、果たして読者にどんな意味があるかどうか。私の「日記」のメモをそのまま引用し、わずかに解説をつけるのみとする。
◆ 2002年3月 卒業式 卒業生(1名M君40歳代)K校長
2月27日 職員会議
校長は「日の丸・君が代を前提とした卒業式」以外認めないと言明。
もし、卒業生が出席を拒否するなら、卒業式そのものができない。出席できるように説得してくれ、明日までにはっきりさせてくれ、など。
論理的にも崩壊しつつ、追い込まれている。生徒の姿など無関心そのもの。
3月4日 校長来校 M君と会談(本人出席拒否)。校長卒業式実施せずを表明。卒業式中止!!
追い込まれた校長は本人に意志を確認したいと来校。しかし、本人が出席を拒否。
校長なす術なく、卒業式を中止すると表明。証書授与も拒否したので、職員から猛反発。
3月5日 卒業式
卒業式もなく、校長・教頭も不在のまま、実に和やかな送別式が行なわれた。
新校長は、教育庁からやってきた昨年度の全都の日の丸・君が代の総括責任者だと聞いたが、現場の長としては、強圧的な官僚主義者で、無能だった。
卒業式前日、分教場へやってきた校長はM君と職員室のソファに対座して会談。
M君(失業対策事業の道路清掃に従事)自身は、日頃から「俺は日の丸も君が代も、天皇も大嫌いだ」と言って憚らない人物だったが、その場でも同じような発言をしていた。
校長は説得できず、沈黙。
説得に失敗した校長は何と卒業式そのものの中止を言明、卒業証書の授与まで拒否する珍事が発生、当日は学校にも来なかった。いわば職場放棄。
送別会は生徒会主催で、在校生や教職員が一人一人お祝いの言葉を述べ、感動的なものだった。卒業証書授与はここで担任が代読して、行った。
◆ 2003年3月 卒業生2名(H君50歳代、S君10代) 校長 加藤明
2月13日 職員会議
議題 卒業式
3月6日 卒業式生徒の強力な意志によって、何と2年連続の卒業式お流れ。
送別会は感動的であった。
この年は、我が分教場の廃校が決定した年であった。
7月に「分教場廃校」という都の方針が出され、秋にかけて、職員・生徒・PTA・同窓会等の反対運動が展開された。4000名の反対署名、町議会の反対決議採択や島嶼選出の都議員とともに学務部長要請を行ったり、学務課長の現地説明会をさせたりもした。都高教を頼れる状況ではなかった。
結果は「1年後に廃校」(その後の在校生は元町校へ移れ)という敗北決着だった(通学できないから分教場が設けられているのに)。
この間、校長は、せめて在校生は分教場で卒業できるように配慮されたいという文書を都に提出すると言明、その文案を生徒にも紹介した。しかし、都側の圧力で文章を撤回、学内の報告の場でその節操のなさを生徒になじられ、20分近くも言葉を失う始末であった。抗議をして学校を去った生徒もいた。
「日の丸・君が代」以前に校長は生徒の信頼を失っていた。
校長は昨年同様2名の卒業生と会談したが説得に失敗した。
H君(清掃職員)は昨年のM君同様「天皇なんか大嫌い。」組だったが、寡黙な十代のS君(酒屋勤務)が面と向かって「校長は信用できない。」発言したのには驚きを禁じえなかった。
◆ 2004年3月 卒業生(O君1名) 校長 加藤明
2月16日 職員会議
卒業式の件で議論。
「生徒は出ないと言っている。」に、校長は窮している。
3月2日 卒業式
O君は宣言通り、卒業式を欠席、式は成立しなかった。
校長は、都の役人(実際は支庁から副所長が来た。)に待ちぼうけをさせながら式場内で20分留まり、お開き。馬鹿げた恥さらしをしてしまった。
お陰で服務違反をする必要もなく、式場内に居ることもなく終わった。
式は出来なかったと正確に報告するのだろうか?
とうとう3年間卒業式が出来ず終いだ。
……送別会は小じんまりと和気あいあいであった。
この年は「10・23通達」に伴う弾圧の嵐到来の年であった。
校長は、「卒業生のいない卒業式」を終えるとさっさと、教頭共々、元町校へ帰ってしまった。
O君(清掃業務)に対する校長の説得については記憶がない。O君については「通信第39号2ページ」のF氏発言を参照されたい。
~おわり~
『藤田先生を応援する会通信』(第40号 2010/4/8)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます