大逆事件100年・圧殺された思想とわたしたちの課題
◆ 「大逆事件は生きている」
11月12日武蔵野公会堂にて、「日韓併合と大逆事件100年」フォーラム色川特別講演会が開催され、大逆事件の真実を明らかにする会山泉進事務局長(明治大学副学長・法学部教授)が、「大逆事件100年・圧殺された思想とわたしたちの課題」について講演しました。
◆ 「大逆事件」とは何か
大逆事件は、刑法に規定された大逆罪に違反する事件一般をさしている。
刑法上に大逆罪が規定されたのは、1882(明治15)年に、ボアソナードの下で制定された刑法が最初で、1907(明治40)年10月に全面改正されて施行された新刑法に「皇室に対する罪」として引き継がれた。
その第73条は、「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」と規定していた。
明治の維新政府は、1868年10月〔旧暦9月〕に慶応から明治へと元号を改元するとともに一世一元の制を定め、天皇の在位中は父や祖父が存在しないことから、天皇の祖母、母、妻、長男、長孫らを対象とする罪が規定された。
もちろん、後には大日本帝国憲法(1889年制定)により、天皇は立法、行政、司法、軍事などの統治権を総攬し、さらには「神聖ニシテ侵スへラス」の存在として神格化されたところに根拠があった。
大逆事件に対する裁判については、当時の裁判所構成法や刑事訴訟法において大審院(現在の最高裁判所)の特別権限に属する裁判とされ、特別法廷においてただ1回の裁判により判決が下された。
もちろん、「危害」を加えたもののみならず加えようとした者も有罪と認定されれば、死刑とされた。
大逆罪は、戦後1947年10月に刑法から削除されたが、それまでの間、
明治末期の幸徳秋水ら26名が被告とされた事件、
関東大震災直後の朴烈・金子ふみ子事件、
難波大助の虎ノ門事件、
1932(昭和7)年の李奉昌の桜田門事件
の4つを数える。
このうち、難波大助事件と李奉昌事件については、明らかに「危害」を加えようとした行為が確認されるが、残りの二つの事件については、事実関係は曖昧である。
一般には、大逆事件といえば、最初の幸徳秋水を首謀者として明治天皇あるいは皇太子に対する暗殺の陰謀がなされた事件をさすことが多い。
ここでは、この事件を特定して、括弧を付して「大逆事件」として表現している。
「大逆事件」は、石川啄木が弁護士・平出修から聞いた結論を「A LETTER FROM PRISON」の中で記録しているように、
菅野須賀子、宮下太吉、新村忠雄、古川力作の四名による天皇暗殺計画、
内山愚童による皇太子暗殺計画、
幸徳秋水を中心にして、新宮の大石誠之助、熊本の松尾卯一太、岡山の森近運平たちが賛同したとされる官庁街の占拠と皇居への攻撃計画、
以上の三つの異なる事件から構成されている。
判決文によれば、それを一つの事件としてリンクさせていたのが首謀者・幸徳秋水ということになり、その動機は被告たちの「無政府共産主義」という「信念」にあったとされる。
そのストーリーを描いたのは、平沼騏一郎らのエリート検事であったというのが私の主張であるが、
≪「無政府共産主義」は天皇の存在を否定し、彼らが主張する「直接行動」論は「暴力革命」と「暗殺」を肯定し、それらの思想が「社会主義」から生まれてきた以上、究極においては「国体」を否定する「社会主義」そのものを根絶しなければならない≫
というのが、平沼ら天皇制国家官僚たちの使命感であった。
「大逆事件」の弁護にあたり、後の難波大助の大逆事件でも弁護を担当した今村力三郎は、先の『 言』のなかで、幸徳秋水らの「大逆事件」について次のように論及している。
「幸徳事件にありては幸徳伝次郎、菅野スガ、宮下太吉、新村忠雄の四名は事実上争いなきも、他の20名に至りては、果たして大逆罪の犯意ありしや否やは大なる疑問にして、大多数の被告は不敬罪にすぎざるものと認むるを当れりとせん。予は今日に至るも該判決に心服するものに非ず。殊に裁判所が審理を急ぐこと奔馬の如く、一の証人すら之を許さざりしは予の最も遺憾としたる所なり。」
(句読点は引用者)と裁判を批判した。 ( 続く )
≪大逆事件ニュース 第50号 記念号 2011年1月24日発行 より≫
◎巻頭言◎ 「大逆事件100年」の意味 山泉 進
1911年1月18日、大審院に設置された特別法廷(鶴丈一郎裁判長、陪席六名)において、幸徳秋水ら二四名に対する死刑判決(別に二名に対する有期刑)、そして1月24日の幸徳ら11名の死刑執行、翌日の菅野須賀子の処刑、その年から100年が経過したことになる。
2011年1月、私たちは、100年後の「大逆事件」に向き合うことになった。
このことの意味を問われても、うまくこたえられる自信は私にはない。
確かに、昨今における、検察の「暴走」による裁判の歪み、マスコミの情報「操作」、官僚による政府の「私物化」、あるいは政治家の「見識」不足、「自由競争」という名の下での格差、これらのどれをとっても、「大逆事件」との関連において論じることができるし、あるいは、そこに「原型」を見出すことも可能である。
問題は、それを将来において、どのように克服すればよいかということである。おそらく、そこにこそ「100年」の意味はある。
この間における、各地また各団体での名誉回復や復権、あるいは顕彰運動は、そのことの意味を少しづつ解き明かしてきているように私には思える。
事務局としては、その運動を進めるための情報の共有化や資料の提供をはかりたいと考えて、会の運営を行っている。
昨年は、『ニュース』(第1号~第48号)の復刻版と、本会が監修を引き受けたことにより数多くの引用資料の訂正等を施して、古典的名著であった神崎清著『革命伝説・大逆事件』(全4巻)の新版とを刊行することができた。
ことしは、各地での追悼集会へ参加し、協力することはもちろんであるが、出版ということでいえば、50年前になされた坂本清馬と森近栄子による「大逆事件再審請求」についての関係資料集を刊行したいと考えている。
それでも、「訴訟記録」や「獄中書簡集」の刊行という事業がまだ残っている。
昨年は、「100年」というニュースバリューもあってか、新聞あるいはテレビ等による取材を受けることも多かった。
そのうちに感じるようになったのは、「大逆事件」が100年目のトピックス、あるいは「商品」として消費させられてしまうのではないかという恐怖心のようなものであった。
「大逆事件は生きている」
――――――――――――――
51年前、「あきらかにする会」設立の「趣意書」は、冒頭にこの言葉を掲げた。
そして、「真実の発見」「人権の擁護」「誤判の訂正」を最高の目的とすると記した。
そのことをこころにとめて、「100年」の年にできることには全力を尽くし、そして「101年」を迎えたい。
『今 言論・表現の自由があぶない!』(2011/11/14)
http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/21928532.html
◆ 「大逆事件は生きている」
11月12日武蔵野公会堂にて、「日韓併合と大逆事件100年」フォーラム色川特別講演会が開催され、大逆事件の真実を明らかにする会山泉進事務局長(明治大学副学長・法学部教授)が、「大逆事件100年・圧殺された思想とわたしたちの課題」について講演しました。
◆ 「大逆事件」とは何か
大逆事件は、刑法に規定された大逆罪に違反する事件一般をさしている。
刑法上に大逆罪が規定されたのは、1882(明治15)年に、ボアソナードの下で制定された刑法が最初で、1907(明治40)年10月に全面改正されて施行された新刑法に「皇室に対する罪」として引き継がれた。
その第73条は、「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」と規定していた。
明治の維新政府は、1868年10月〔旧暦9月〕に慶応から明治へと元号を改元するとともに一世一元の制を定め、天皇の在位中は父や祖父が存在しないことから、天皇の祖母、母、妻、長男、長孫らを対象とする罪が規定された。
もちろん、後には大日本帝国憲法(1889年制定)により、天皇は立法、行政、司法、軍事などの統治権を総攬し、さらには「神聖ニシテ侵スへラス」の存在として神格化されたところに根拠があった。
大逆事件に対する裁判については、当時の裁判所構成法や刑事訴訟法において大審院(現在の最高裁判所)の特別権限に属する裁判とされ、特別法廷においてただ1回の裁判により判決が下された。
もちろん、「危害」を加えたもののみならず加えようとした者も有罪と認定されれば、死刑とされた。
大逆罪は、戦後1947年10月に刑法から削除されたが、それまでの間、
明治末期の幸徳秋水ら26名が被告とされた事件、
関東大震災直後の朴烈・金子ふみ子事件、
難波大助の虎ノ門事件、
1932(昭和7)年の李奉昌の桜田門事件
の4つを数える。
このうち、難波大助事件と李奉昌事件については、明らかに「危害」を加えようとした行為が確認されるが、残りの二つの事件については、事実関係は曖昧である。
一般には、大逆事件といえば、最初の幸徳秋水を首謀者として明治天皇あるいは皇太子に対する暗殺の陰謀がなされた事件をさすことが多い。
ここでは、この事件を特定して、括弧を付して「大逆事件」として表現している。
「大逆事件」は、石川啄木が弁護士・平出修から聞いた結論を「A LETTER FROM PRISON」の中で記録しているように、
菅野須賀子、宮下太吉、新村忠雄、古川力作の四名による天皇暗殺計画、
内山愚童による皇太子暗殺計画、
幸徳秋水を中心にして、新宮の大石誠之助、熊本の松尾卯一太、岡山の森近運平たちが賛同したとされる官庁街の占拠と皇居への攻撃計画、
以上の三つの異なる事件から構成されている。
判決文によれば、それを一つの事件としてリンクさせていたのが首謀者・幸徳秋水ということになり、その動機は被告たちの「無政府共産主義」という「信念」にあったとされる。
そのストーリーを描いたのは、平沼騏一郎らのエリート検事であったというのが私の主張であるが、
≪「無政府共産主義」は天皇の存在を否定し、彼らが主張する「直接行動」論は「暴力革命」と「暗殺」を肯定し、それらの思想が「社会主義」から生まれてきた以上、究極においては「国体」を否定する「社会主義」そのものを根絶しなければならない≫
というのが、平沼ら天皇制国家官僚たちの使命感であった。
「大逆事件」の弁護にあたり、後の難波大助の大逆事件でも弁護を担当した今村力三郎は、先の『 言』のなかで、幸徳秋水らの「大逆事件」について次のように論及している。
「幸徳事件にありては幸徳伝次郎、菅野スガ、宮下太吉、新村忠雄の四名は事実上争いなきも、他の20名に至りては、果たして大逆罪の犯意ありしや否やは大なる疑問にして、大多数の被告は不敬罪にすぎざるものと認むるを当れりとせん。予は今日に至るも該判決に心服するものに非ず。殊に裁判所が審理を急ぐこと奔馬の如く、一の証人すら之を許さざりしは予の最も遺憾としたる所なり。」
(句読点は引用者)と裁判を批判した。 ( 続く )
≪大逆事件ニュース 第50号 記念号 2011年1月24日発行 より≫
◎巻頭言◎ 「大逆事件100年」の意味 山泉 進
1911年1月18日、大審院に設置された特別法廷(鶴丈一郎裁判長、陪席六名)において、幸徳秋水ら二四名に対する死刑判決(別に二名に対する有期刑)、そして1月24日の幸徳ら11名の死刑執行、翌日の菅野須賀子の処刑、その年から100年が経過したことになる。
2011年1月、私たちは、100年後の「大逆事件」に向き合うことになった。
このことの意味を問われても、うまくこたえられる自信は私にはない。
確かに、昨今における、検察の「暴走」による裁判の歪み、マスコミの情報「操作」、官僚による政府の「私物化」、あるいは政治家の「見識」不足、「自由競争」という名の下での格差、これらのどれをとっても、「大逆事件」との関連において論じることができるし、あるいは、そこに「原型」を見出すことも可能である。
問題は、それを将来において、どのように克服すればよいかということである。おそらく、そこにこそ「100年」の意味はある。
この間における、各地また各団体での名誉回復や復権、あるいは顕彰運動は、そのことの意味を少しづつ解き明かしてきているように私には思える。
事務局としては、その運動を進めるための情報の共有化や資料の提供をはかりたいと考えて、会の運営を行っている。
昨年は、『ニュース』(第1号~第48号)の復刻版と、本会が監修を引き受けたことにより数多くの引用資料の訂正等を施して、古典的名著であった神崎清著『革命伝説・大逆事件』(全4巻)の新版とを刊行することができた。
ことしは、各地での追悼集会へ参加し、協力することはもちろんであるが、出版ということでいえば、50年前になされた坂本清馬と森近栄子による「大逆事件再審請求」についての関係資料集を刊行したいと考えている。
それでも、「訴訟記録」や「獄中書簡集」の刊行という事業がまだ残っている。
昨年は、「100年」というニュースバリューもあってか、新聞あるいはテレビ等による取材を受けることも多かった。
そのうちに感じるようになったのは、「大逆事件」が100年目のトピックス、あるいは「商品」として消費させられてしまうのではないかという恐怖心のようなものであった。
「大逆事件は生きている」
――――――――――――――
51年前、「あきらかにする会」設立の「趣意書」は、冒頭にこの言葉を掲げた。
そして、「真実の発見」「人権の擁護」「誤判の訂正」を最高の目的とすると記した。
そのことをこころにとめて、「100年」の年にできることには全力を尽くし、そして「101年」を迎えたい。
『今 言論・表現の自由があぶない!』(2011/11/14)
http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/21928532.html
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