《つたえ・つむぐプロジェク トNo.51 『ザ・淀川』》
◆ 陸上自衛隊第三師団申し入れ行動
梶原義行さん(74歳)が伊丹市千僧にある陸上自衛隊第三師団に、「戦争する国にしてはならない。隊員を、殺し殺されるような場へ行かせたくない」との思いで申し入れ活動を初めたのは2005年5月、第三師団のイラク派兵がキッカケだった。
宛名には総理大臣、防衛大臣、総監、師団長など隊員に命令を下す人たちが並ぶ。2003年から始まったイラク派兵以降、命令一下、「戦闘地域ではないか」と疑われる地域への隊員派遣が常態となってきた。
元自衛隊員らが加わることもある申し入れは、5月28日で146回を数えた。
梶原さんの活動に賛同する人たちが、毎回数名から10名前後門前で申し入れを見守り、歌に乗せて門の中の隊員たちに思いを伝える。
始めた当初は苦い顔をしていた師団側の担当者とも顔馴染みになり、書面を受け渡した後はお互いに笑顔も出るようになった。
元小学校教諭の梶原さんは在職中も、「教え子を再び戦場へ送るな」と、様々な平和運動に取り組んだ。
92年、カンボジアへPKO活動に派遣されるのに反対し、愛知県小牧の航空自衛隊ゲート前に座り込んだ際は、たまたま”旗を持っていた”という理由で逮捕、勾留された。黙秘で通し、幸いにも13日目に釈放された。
「教壇に戻った僕を見て、一人の児童の顔がパッと明るくなったんです。長期休んでしまった私を心配してくれていたんでしょう」。子どもらの気持ちが胸に沁みた。
「戦時中の記憶は、母におぶわれて神戸大空襲から逃げたというおぼろげなものです。しかし、朝鮮戦争で国力を建て直し、沖縄の基地からベトナムへ空爆機が飛び立つ中で高度経済成長を果たした日本は、その後も戦争と無縁ではなかった。反戦は私の闘いの中心です。第三師団への申し入れは、這ってでも続けたい」と、力を込める。
梶原さんと共に申し入れをしている石川豊子さん(66歳)は、南スーダンへ向かう可能性があった隊員らに「何の正義もなく命を落とすことはないです。命令は憲法違反です。無謀な命令は拒否できます。戦争への道を防ぎましょう」と書いた手紙を折り紙に添え、隊員の手に渡るように“面会時の差し入れ”という形で届けた。
「私の伯父は20歳で学徒動員され、1945年8月16日、ソ連で戦死しました。
徴兵された父は中国の南京、重慶で戦闘に従軍し、南昌で体中に銃弾を浴びて帰国。南京での記憶は聞いても語りませんでしたが、84歳で死ぬ間際に『中国の人には申し訳ないことをした』と涙を流しました。ずっと苦しんでいたのです。広島の病院にも入院したことがあり、原爆の惨状も生涯気にかけていました。私は子や孫に、そんな悲しい、苦しい思いをさせたくありません」と話す。
隊員たちは手紙を楽しみに待ってくれているとの手応えもある。「申し入れへの参加は数名でも、その後ろで多くの国民が自衛隊を軍隊として派遣することに反対の声を上げている、と知らせたい。今後も折り紙と手紙を届けます」。
淀川区の今と昔と未来を結ぶコミュニティ新聞『ザ・淀川』(2017年7月号)
http://the-yodogawa.jp/backno/201707/
◆ 陸上自衛隊第三師団申し入れ行動
梶原義行さん(74歳)が伊丹市千僧にある陸上自衛隊第三師団に、「戦争する国にしてはならない。隊員を、殺し殺されるような場へ行かせたくない」との思いで申し入れ活動を初めたのは2005年5月、第三師団のイラク派兵がキッカケだった。
宛名には総理大臣、防衛大臣、総監、師団長など隊員に命令を下す人たちが並ぶ。2003年から始まったイラク派兵以降、命令一下、「戦闘地域ではないか」と疑われる地域への隊員派遣が常態となってきた。
元自衛隊員らが加わることもある申し入れは、5月28日で146回を数えた。
梶原さんの活動に賛同する人たちが、毎回数名から10名前後門前で申し入れを見守り、歌に乗せて門の中の隊員たちに思いを伝える。
始めた当初は苦い顔をしていた師団側の担当者とも顔馴染みになり、書面を受け渡した後はお互いに笑顔も出るようになった。
元小学校教諭の梶原さんは在職中も、「教え子を再び戦場へ送るな」と、様々な平和運動に取り組んだ。
92年、カンボジアへPKO活動に派遣されるのに反対し、愛知県小牧の航空自衛隊ゲート前に座り込んだ際は、たまたま”旗を持っていた”という理由で逮捕、勾留された。黙秘で通し、幸いにも13日目に釈放された。
「教壇に戻った僕を見て、一人の児童の顔がパッと明るくなったんです。長期休んでしまった私を心配してくれていたんでしょう」。子どもらの気持ちが胸に沁みた。
「戦時中の記憶は、母におぶわれて神戸大空襲から逃げたというおぼろげなものです。しかし、朝鮮戦争で国力を建て直し、沖縄の基地からベトナムへ空爆機が飛び立つ中で高度経済成長を果たした日本は、その後も戦争と無縁ではなかった。反戦は私の闘いの中心です。第三師団への申し入れは、這ってでも続けたい」と、力を込める。
梶原さんと共に申し入れをしている石川豊子さん(66歳)は、南スーダンへ向かう可能性があった隊員らに「何の正義もなく命を落とすことはないです。命令は憲法違反です。無謀な命令は拒否できます。戦争への道を防ぎましょう」と書いた手紙を折り紙に添え、隊員の手に渡るように“面会時の差し入れ”という形で届けた。
「私の伯父は20歳で学徒動員され、1945年8月16日、ソ連で戦死しました。
徴兵された父は中国の南京、重慶で戦闘に従軍し、南昌で体中に銃弾を浴びて帰国。南京での記憶は聞いても語りませんでしたが、84歳で死ぬ間際に『中国の人には申し訳ないことをした』と涙を流しました。ずっと苦しんでいたのです。広島の病院にも入院したことがあり、原爆の惨状も生涯気にかけていました。私は子や孫に、そんな悲しい、苦しい思いをさせたくありません」と話す。
隊員たちは手紙を楽しみに待ってくれているとの手応えもある。「申し入れへの参加は数名でも、その後ろで多くの国民が自衛隊を軍隊として派遣することに反対の声を上げている、と知らせたい。今後も折り紙と手紙を届けます」。
淀川区の今と昔と未来を結ぶコミュニティ新聞『ザ・淀川』(2017年7月号)
http://the-yodogawa.jp/backno/201707/
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます