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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

☆ 明治新政府は、御真影の下賜を、沖縄から始めた

2023年06月30日 | 「日の丸・君が代」強制反対

 ☆ 沖縄と「日の丸・君が代」

2023/06/29 岡山輝明(元都立高校教員)

 沖縄戦について、NHKアーカイブスで沖縄の各地ごとにまとめた特集・番組・証言等が視聴できます(登録無料)。私は沖縄での「御真影」のゆくえについて検索していてこのサイトを見つけました。とても全部を視聴てきませんが、貴重な記録だと思いました。
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0060023

 その天皇皇后の公式肖像写真である「御真影」について、日本の近現代教育史研究を深められた故佐藤秀夫氏は、明治当初は官立機関の証明のように府県庁・師団本部・軍艦、さらに官立諸学校に下賜されていたものが、森有礼文相によって、1887年9月沖縄県尋常師範学校を皮切りに府県立学校に下賜されるようになったとして、以下のように指摘しています(佐藤秀夫「天皇制公教育の形成史 序説」『教育の文化史1 教育の構造』阿吽社、2004年。148~149頁)

「君とは天皇陛下である。臣とは太政大臣首〈はじ〉め政府の役人である」といった君臣関係意識を払拭し、民衆と天皇との間に一君万民的君臣関係があると信じこませること、すなわち「民」が同時に「臣」であるような「臣民」感覚を造出する一つの手段として、「御真影」の下賜とそれへの拝礼儀式の施行が計画された。89年2月の紀元節(大日本帝国憲法発布当日)を機に官立府県立学校で、ほぼ均しなみに「御真影」拝礼儀式が開始された。

 その後、「御真影」は全国の市町村立高等小学校、さらに尋常小学校へと広がっていきますが、沖縄県立学校に最初に下賜されたことについてはこうも述べています(同)。

わが国の最南端に位置し、その帰属が明治まで必ずしも明確ではなかった沖縄の、しかも「普通教育ノ本山」(森有礼)とされた師範学校に対して最初に「下賜」されたことは、「御真影」の果たすべき役割を明瞭に示すものであったといえる。

 明治維新後、「琉球処分」を経て沖縄県として日本の領土に組み込まれ、深い交流のあった中国などに今度は対抗する地域として、大日本帝国の「臣民化」が真っ先に求められたことが分かります。
 「御真影」拝礼に加えて「教育勅語」奉読や「君が代」斉唱など、紀元節等の祝日学校儀式が整えられ、この崇拝儀礼などを中心にして「神聖天皇崇敬(島薗進)」が県民に浸透していきます。
 教育勅語にいう「一旦緩急あらば、義勇公に奉じ、もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし」を人々が体現するように、米軍上陸に備えて県民総動員で命を差し出す体制をとり得たのだと考えます。NHKアーカイブスはそれがどんな惨禍を招いたかを記録したものです。

 敗戦後、「御真影」も「教育勅語」も姿を消し、祝日学校儀式も法的な位置付けを失い、やがて行われなくなっていきます。
 しかし、式典の形は残りました。今日、卒業式等で「日の丸」をステージ正面に掲げ、これを仰ぎ見るようにして「君が代」を斉唱する形は、学校現場からの動きとして1940年代前半には広まっていました(籠谷次郎、森川輝紀)
 それまでは主に校門や玄関に斜めに掲げられていた「日の丸」が、1930年代後半、日中戦争が本格化し国民精神総動員運動等が展開される中、式典などで会場の舞台正面に大きく掲げられるようになります。
 この時期、祝日学校儀式以外の式典では、天皇それ自身として神聖視された「御真影」に代わるように、「日の丸」に正対して式典の参列者が天皇賛歌の「君が代」を歌う形式が成立していたのです。「日の丸」は天照大神の化身と見なされ、国体精神の象徴になっていました。

 この式典の形は、文部行政等による指示命令に基づくものではなかったからこそ、敗戦後も卒業式などで一定程度存続したと推測されます。その後1958年改訂学習指導要領で、

「国民の祝日などにおいて儀式などを行う場合には、児童(生徒)に対してこれらの祝日などの意義を理解させるとともに、国旗を掲揚し、君が代をせい唱させることが望ましい

 と根拠づけられます。

 文言こそ「国民の祝日などにおいて儀式などを行う場合」とされていますが、同要領を受けて文部省自身が発行した学校行事の指導書や事例集では、すでに「祝日学校儀式」が新年祝賀式ぐらいになり、卒業式や入学式でこそ「国旗掲揚国歌斉唱」が何らかの形で行われていることが幾つも報告されています。
 その実施をめぐり、全国各地の公立小中高校などで管理職と反対する教職員等とのせめぎ合いが相次ぐようになるのは、1967年2月11日、「建国記念の日」が施行された頃からです。
 学校現場での緊迫した空気は、歴史教育者協議会編『新版 日の丸・君が代・紀元節・教育勅語』(地歴社、1981年)などに詳しく述べられています。また田中伸尚『日の丸・君が代の戦後史』には、70年頃からの退職や自殺などに追い込まれた事例が取り上げられています。

 1985年に至って、文部省は全国の公立小中高校全てを対象にした特別活動の調査の中で、この春の卒業式・入学式での「国旗掲揚国歌斉唱」の実施状況の回答を求めます。
 8月には、都道府県政令指定都市別に集計された結果を%表示で発表し、各教育長宛に「行わない学校があるので、その適切な取扱いについて徹底すること」と通知を出します(「徹底通知」)。
 この年は昭和天皇在位60年の記念式典が行われた年でもありました。自民党は、前年には都道府県支部に卒業式・入学式での実施状況の調査を指示するなど、学習指導要領の文言を引用して「国旗掲揚国歌斉唱」の実施を働きかけています。文部省の調査は、これに連動して行われたのかも知れません。
 全国平均と最も低かった沖縄を比較すると以下のようになります(『内外教育』3672号、1985年9月6日。6~8頁)。

全国平均:「国旗」小92.5、中91.2、高81.6 /「国歌」小72.8、中68.0、高53.3
沖  縄:「国旗」小 6.9、中  6.6、高  0.0 / 「国歌」 小 0.0、中  0.0、高 0.0

 他にも低い自治体はありますが、沖縄は「国旗」「国歌」ともに小中高校で極端に低かったのです。沖縄がほとんど実施していないことを浮き彫りにするために調査が行われたとも言えます。
 というのも沖縄は1987年夏に国民体育大会(海邦国体)が予定され、その開会式に出席するために昭和天皇の訪沖が検討されていました(実際には病気のため皇太子が代行)。これに向けて一気に実施率をあげることがねらいと考えられます。

 沖縄戦で、米軍は1945年4月の上陸直後から「君が代」も「日の丸」も布告を出して禁止します。これは公式な禁止布告のない占領下の本土とは違います。
 だからこそだと思いますが、日本への復帰運動時、沖縄県教組が主導するなど「日の丸」は盛んに掲げられていました
 にもかかわらず、1972年の復帰から12,3年にして学校ではほとんど掲揚も斉唱もされなくなっていたのです。
 米軍基地がほぼそのまま居座った復帰が沖縄の人々にどう受け止められたか、見えてくるようです(『沖縄―日の丸・君が代』新沖縄文学/臨時増刊号、1986年1月)

 「徹底通知」の出た翌1986年3月の卒業式、沖縄では32名が停職、減給、戒告、文書訓告、厳重注意などを受けています。処分はその後も沖縄ばかりでなく各地でつづきます(岡村達雄『処分論』インパクト出版会、1995年。16~21頁)
 また87年秋、沖縄国体ソフトボール会場で、「日の丸」を降ろし焼却する抗議行動などがありました。国民体育大会が卒業式等での「日の丸・君が代」の実施率を一気に引上げる契機になったことは、翌88年の京都国体でも報告されています(京都府教育委員会「「京都府の教育」正常化への軌跡」『教育委員会月報』2000年、7月号。98~100頁))

 89年には学習指導要領が改訂され、「国旗国歌条項」

「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする

 と改められます。入学式や卒業式を明示し、強制力をもつ文言に代えたのです。
 それでも教職員の反対は全国あちこちで続き、1999年夏には「国旗国歌法」が制定されました。
 なお抵抗をつづける東京では都教育委員会の通達、大阪では府や市の条例によって懲戒処分を科すことを明示するなど、従わない教職員を排除するように強制が徹底されました。実際に数々の処分等が下され、この取消などを求める裁判が今も続いています(参照:永尾俊彦『ルポ「日の丸・君が代」強制』緑風出版、2020年)

 岡村達雄『処分論』の中で、

「戦前期の天皇主権下での皇国臣民の形成、天皇を神聖化して崇拝を目的にしたかつての天皇制教育の復活、あるいは特定の国家思想・イデオロギーの教育という側面よりも、「日の丸・君が代」強制は国家、権力、秩序への忠誠と服従を諸個人に内面化させようとするもの……ようするにこれは「起立、敬礼、斉唱」を強制する思想、国家権力の思想に服すべきだということなのだ」

 と述べています(同書、26頁)
 「国家、権力、秩序への忠誠と服従」を迫るものであることは、そのとおりだと考えます。しかし、他ならぬ「日の丸・君が代」が戦後も国旗国歌としての扱いを受け、ついには法制化に至ったこと、さらに卒業式等の式典におけるその掲揚・斉唱が、紀元節などかつての祝日学校儀式を受け継いだ日本でしか見られない形をとっていることに留意する必要があります。
 この継続性は、「神聖天皇崇敬」を媒介にしてこそ、いいかえると日本においては「万世一系の天皇、その天皇につながる家族」という「国民の物語」に包み込むことで、国家への「忠誠と服従」を人々に内面化させるという拘りを反映するものです。
 近代国民国家を成り立たせるために不可欠な、国家に命を差し出すことをも厭わない愛国心を、「神聖天皇崇敬」によって人々の身体に染み込ませるという仕組みが、戦後も生き延びてきたことに目を向ける必要があります。「教育勅語」教材化の動きが繰り返されてきたこともここに連動しています。

 さらに、卒業式等での「日の丸・君が代」の徹底した強制が、1980年代半ば、沖縄から始まったことも重要です。
 日本が世界経済のグローバル化に飲み込まれていく時に、「国旗掲揚国歌斉唱」の実施率をバロメーターにして、ナショナリズムが最も弱いと見なされた地域の締め直しがまず企てられたと見ることができます。
 これは、日本の領土に囲い込まれて間もない明治の初め、公立学校としては一番に沖縄の学校に「御真影」が下賜されたことと通底しています。
 そこから始まった「皇民化」が、アジア・太平洋戦争の末期、本土決戦準備のための「捨石」扱いにつながっていきました。同じことが、いま「台湾危機」が煽り立てられ、軍事基地化が進む沖縄の島々に強いられているように思えます。

 


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