<板橋高校卒業式> 杜撰きわまりない高裁判決!
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「マガモ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
『藤田の日記』(大野昭之 「共産党第7回大会とは何だったか」)
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2008/11/28(金) 20 4, 共産党第7回大会とは何だったか コミンフォルムに盲従
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都委員となった私にとって不思議であったことの第一は、党内に言論の自由や民主主義が全く存在しないこと、それを党員があまりに不思議に思わないことにあった。
幸いにも私は、50年分裂で、当時国際派の中でも宮本派に属していた東大細胞が解散(集団除名)され、翌年の51年3月に卒業した。
卒業後は実践活動を志し、日農岡山県連に就職が内定していた。
当時岡山には、興除村や藤田農場のような大農場もあり、うってつけの所と喜んでいたが、卒業間際に日共主流派から妨害が入って取り消しになってしまった。
そのとき以来、大衆闘争もやらないくせに、派閥的な妨害には極めて熱心な日共の体質を知って、驚いた。
卒業によって東大のG・P組織とも切れたまま、教員になってしまった。
そのため主流派と国際派の争い、いずれもスターリンの掌の上での闘いに、振り回されずに済んだことであった。
50年分裂のきっかけは、徳田書記長の家父長的指導と党の派閥的運営にあるとはいえ、その真の原因は、コミンフォルム機関紙や中国の人民日報等、国際的権威への盲従を余儀なくされた日本の党の低水準にあった。
主流派も国際派も、それらの批判に一喜一憂し、振り回されたのであった。
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2008/11/29(土) 21
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フルシチョフの回想録によれば、朝鮮戦争は、金日成の「一週間で韓国に勝利し、朝鮮半島を支配下に置くことができるので、ぜひ開戦を」との執拗な要請に、スターリンが負けて戦争になったとある。
アメリカの援助でやっと第二次戦争に勝利したスターリンは、当時ヤルタ体制を守ることに汲々としており、全く現状維持であったが、金日成の口車に乗って、ついに朝鮮で現状変更を認めて失敗を犯した。
朝鮮での解放戦争にとって、野坂の平和革命論は全く有害で、少なくとも後方撹乱のため、それを粉砕し後方ゲリラをやらせるためには、日本の党ぐらいはどうなっても構わないとの思惑であったのだろう。
東欧諸国に対するスターリンの対応を見れば、当然であった。
日本の党は、50年1月のコミンフォルム機関紙のオブザーバー筆名(これは当然スターリンの意見)による「日本の情勢について」という、理論的には正しいが、形式的には全く不適切な打撃的な批判を加えたことで、これに全党が正しく対処できず、主体性を失って「論評」を金科玉条に大分裂におちいった。
その中で、日本の党の組織は殆ど壊滅し、国民の信頼を失った。
また、一年半後に、コミンフォルムは、内容的にも形式的にも全く違った判決を下した。
これに対し、主流派も国際派も、即ち全党が自主的に対応できず、無条件信奉の態度に出たこと、その結果、分裂責任側の方が一方的に正当化され、極左冒険主義、左翼セクト主義、党内民主主義の圧殺、官僚主義的硬直、指導部の特権化と腐敗に全党が一直線に落ち込んでいった。
これらの諸点にこそ、分裂の責任の所在といった、主流派、国際派のどちらに分裂の責任があったかという問題をのりこえた、50年問題の本質があった。
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2008/11/30(日) 22 仲良しクラブから丹頂鶴へ ー大組織・日教組の体質ー
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当時の私は、まだそのような認識を持てず、国際派の一員として活動したことは正しかったと考えていた。
主流派の連中は、なぜあんな馬鹿げた軍事方針、武装闘争で党を壊滅させてしまったのか、これからは国際派の主導の下に党の再建をせねば、との決意であった。
両派の争いと離れ、自分の頭で考え、行動を選択する中で、教員組合運動に入り込んでしまっていた。
戦後の大衆的労働運動、それは占領軍の強い支援とそれを受けた労政事務所の職員が軒並みに企業を訪問し、組合を結成すれば「労務加配米」がもらえると利益誘導をしながら、正に雨後の筍のように族生した。
私が教員になったときは、誰からも組合に入れと言われなかったが、驚くべきことに最初もらった給料袋に入っていた明細表を見ると、ちゃんと組合費が天引きされていた。
職場を観察すると、校長を含めた全員が組合員であり、執行委員と支部委員の双方が輪番に出されており、職場会など滅多になく、支部委員から、朝の職員朝会の時に、「ボーナス闘争で何日から半数定時退庁です。支部から執行委員が見回りに来ますので定時に帰ってください。 帰れない人は職員室にいないで、教室に待機していてください」という驚くべき発言。 誰も異論を述べるものもいない。
組合の集会に動員された者には、後で日当が出るという、私が東大で経験してきた学生運動とは全く異質なものであった。
執行委員は、若手から輪番に出される慣例で、私も2年目に執行委員になるのである。
当時、日教組は組織人員50万人と称せられ、日本最大の単産であった。
しかしながら、下部の組合員の意識といったら、まさに、一種の仲良しクラブで、職場の親睦会と全く変わらなかった。
朝鮮戦争を経過して、政府の反動化、実は帝国主義的復活が進み、いわゆる「逆コース」が強まるにつれ、頭の方から戦闘化してきた。
その頃になると、日教組は「丹頂鶴」と呼ばれ、頭だけ赤いが、身体は真っ白とアダ名されたが、正にその通りであった。
とはいえ、一応民主的に運営されており、毎年一回の大会と学期一回の中央委員会は、いずれも組合員数に応じた代議員と中央委員が選挙によって選出され、議案はいずれも事前に執行部から議案書として提出され、全組合員の批判にさらされることになった。
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2008/12/01(月) 23 党内に民主主義なし
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それに対し、党の運営は全く非民主的なものであった。
私が入党したのは、2・1ストの後47年に2年ぶりで開かれた第6回大会の後であったので、第7回大会の開かれた60年まで、約13年間は開かれたことがなかった。
中央機関として中央委員会総会があったが、事前にその議案書が下部党員に提出されることは全くなく、中央委員会の総会の事後にその決定が『アカハタ』に載り、どのようにして決定に至ったかは、全く窺い知る事はできなかった。
中央委員会総会は、いつも満場一致と聞かされ、下部党員が意見などを言うことは全くタブーとされていた。
私が都委員になった時、都委員くらいには事前に議案が知らされるのかと期待したが、まったくそのような事はなく、相変わらずの密室論議であった。
6全協が、下部における大衆討議を一切抜きにして、伊藤律派を除いた旧主流派と神山、中西、亀山、西川を除いた旧国際派(宮本派と春日庄次郎派)の野合体制の中で、中央委員は主流派優位の10対5で、中央常任幹部会(旧政治局)が4対3の幹部構成であった。
これらの構成の中で、これまでの極左冒険主義を否定したが、その前提となった51年綱領(いわゆる新綱領)については、その全規定が完全に正しいことを実際に証明していると強調され、根本的戦略変換は手つかずにすまされた。
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2008/12/02(火) 24 7回大会と宮本体制
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このような状況の下で開かれた第7回大会は、日共始まって以来の開かれた討論で、下部党員の意見を載せた『前衛』別冊の「団結と前進」が何回か発行され、綱領論争の活発な展開、党はじまって以来の理論的エネルギーの高まりをもたらした。
だが、50年問題の根本的な追及をぬきにした派閥の温存は、宮本派の優位確立に終わり、真の問題解決にはならなかった。
中央委員の選出では、166名が審査にかけられ、旧国際派の強烈な批判で、紺野与次郎ら旧主流派の若干分子は、候補者リストから外された。
投票の結果、蔵原以下31名が選ばれたが、18位以下の14名は、票数が代議員の過半数の支持も得られぬまま、中央委員となった。
大会後の第1回中央委員会総会で、中央委員会議長野坂、書記長宮本、統制委員会議長春日(庄)の中央機構が定まり、革新派を切り捨てた宮本が、野坂と組んで党の主導権を確保した。
旧国際派の勝利の大会であることが判明した。
これ以後、党内の対立は、徳田直系放逐の後に残った野坂、春日(正)らと結んで中央の実権を握った宮本、袴田が中央主流派を形成し、同じ国際派でも、春日(庄)、山田、亀山、西川らは、党章草案反対派として、少数派の立場に立つことになった。
しかし彼らの背後には、旧国際派の中堅分子やインテリの多くが支えとなっていた。
彼らは、六全協で徳田主流派と安易に妥協した宮本らが、かっての革命戦略の方式を何らの自己批判もなしに修正し、新中央として党章草案を全党に押しつけようとするその態度に、怒りや不満を感じていた。
私もその一人であった。
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『藤田の日記』(大野昭之 「共産党第7回大会とは何だったか」)
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2008/11/28(金) 20 4, 共産党第7回大会とは何だったか コミンフォルムに盲従
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都委員となった私にとって不思議であったことの第一は、党内に言論の自由や民主主義が全く存在しないこと、それを党員があまりに不思議に思わないことにあった。
幸いにも私は、50年分裂で、当時国際派の中でも宮本派に属していた東大細胞が解散(集団除名)され、翌年の51年3月に卒業した。
卒業後は実践活動を志し、日農岡山県連に就職が内定していた。
当時岡山には、興除村や藤田農場のような大農場もあり、うってつけの所と喜んでいたが、卒業間際に日共主流派から妨害が入って取り消しになってしまった。
そのとき以来、大衆闘争もやらないくせに、派閥的な妨害には極めて熱心な日共の体質を知って、驚いた。
卒業によって東大のG・P組織とも切れたまま、教員になってしまった。
そのため主流派と国際派の争い、いずれもスターリンの掌の上での闘いに、振り回されずに済んだことであった。
50年分裂のきっかけは、徳田書記長の家父長的指導と党の派閥的運営にあるとはいえ、その真の原因は、コミンフォルム機関紙や中国の人民日報等、国際的権威への盲従を余儀なくされた日本の党の低水準にあった。
主流派も国際派も、それらの批判に一喜一憂し、振り回されたのであった。
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2008/11/29(土) 21
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フルシチョフの回想録によれば、朝鮮戦争は、金日成の「一週間で韓国に勝利し、朝鮮半島を支配下に置くことができるので、ぜひ開戦を」との執拗な要請に、スターリンが負けて戦争になったとある。
アメリカの援助でやっと第二次戦争に勝利したスターリンは、当時ヤルタ体制を守ることに汲々としており、全く現状維持であったが、金日成の口車に乗って、ついに朝鮮で現状変更を認めて失敗を犯した。
朝鮮での解放戦争にとって、野坂の平和革命論は全く有害で、少なくとも後方撹乱のため、それを粉砕し後方ゲリラをやらせるためには、日本の党ぐらいはどうなっても構わないとの思惑であったのだろう。
東欧諸国に対するスターリンの対応を見れば、当然であった。
日本の党は、50年1月のコミンフォルム機関紙のオブザーバー筆名(これは当然スターリンの意見)による「日本の情勢について」という、理論的には正しいが、形式的には全く不適切な打撃的な批判を加えたことで、これに全党が正しく対処できず、主体性を失って「論評」を金科玉条に大分裂におちいった。
その中で、日本の党の組織は殆ど壊滅し、国民の信頼を失った。
また、一年半後に、コミンフォルムは、内容的にも形式的にも全く違った判決を下した。
これに対し、主流派も国際派も、即ち全党が自主的に対応できず、無条件信奉の態度に出たこと、その結果、分裂責任側の方が一方的に正当化され、極左冒険主義、左翼セクト主義、党内民主主義の圧殺、官僚主義的硬直、指導部の特権化と腐敗に全党が一直線に落ち込んでいった。
これらの諸点にこそ、分裂の責任の所在といった、主流派、国際派のどちらに分裂の責任があったかという問題をのりこえた、50年問題の本質があった。
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2008/11/30(日) 22 仲良しクラブから丹頂鶴へ ー大組織・日教組の体質ー
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当時の私は、まだそのような認識を持てず、国際派の一員として活動したことは正しかったと考えていた。
主流派の連中は、なぜあんな馬鹿げた軍事方針、武装闘争で党を壊滅させてしまったのか、これからは国際派の主導の下に党の再建をせねば、との決意であった。
両派の争いと離れ、自分の頭で考え、行動を選択する中で、教員組合運動に入り込んでしまっていた。
戦後の大衆的労働運動、それは占領軍の強い支援とそれを受けた労政事務所の職員が軒並みに企業を訪問し、組合を結成すれば「労務加配米」がもらえると利益誘導をしながら、正に雨後の筍のように族生した。
私が教員になったときは、誰からも組合に入れと言われなかったが、驚くべきことに最初もらった給料袋に入っていた明細表を見ると、ちゃんと組合費が天引きされていた。
職場を観察すると、校長を含めた全員が組合員であり、執行委員と支部委員の双方が輪番に出されており、職場会など滅多になく、支部委員から、朝の職員朝会の時に、「ボーナス闘争で何日から半数定時退庁です。支部から執行委員が見回りに来ますので定時に帰ってください。 帰れない人は職員室にいないで、教室に待機していてください」という驚くべき発言。 誰も異論を述べるものもいない。
組合の集会に動員された者には、後で日当が出るという、私が東大で経験してきた学生運動とは全く異質なものであった。
執行委員は、若手から輪番に出される慣例で、私も2年目に執行委員になるのである。
当時、日教組は組織人員50万人と称せられ、日本最大の単産であった。
しかしながら、下部の組合員の意識といったら、まさに、一種の仲良しクラブで、職場の親睦会と全く変わらなかった。
朝鮮戦争を経過して、政府の反動化、実は帝国主義的復活が進み、いわゆる「逆コース」が強まるにつれ、頭の方から戦闘化してきた。
その頃になると、日教組は「丹頂鶴」と呼ばれ、頭だけ赤いが、身体は真っ白とアダ名されたが、正にその通りであった。
とはいえ、一応民主的に運営されており、毎年一回の大会と学期一回の中央委員会は、いずれも組合員数に応じた代議員と中央委員が選挙によって選出され、議案はいずれも事前に執行部から議案書として提出され、全組合員の批判にさらされることになった。
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2008/12/01(月) 23 党内に民主主義なし
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それに対し、党の運営は全く非民主的なものであった。
私が入党したのは、2・1ストの後47年に2年ぶりで開かれた第6回大会の後であったので、第7回大会の開かれた60年まで、約13年間は開かれたことがなかった。
中央機関として中央委員会総会があったが、事前にその議案書が下部党員に提出されることは全くなく、中央委員会の総会の事後にその決定が『アカハタ』に載り、どのようにして決定に至ったかは、全く窺い知る事はできなかった。
中央委員会総会は、いつも満場一致と聞かされ、下部党員が意見などを言うことは全くタブーとされていた。
私が都委員になった時、都委員くらいには事前に議案が知らされるのかと期待したが、まったくそのような事はなく、相変わらずの密室論議であった。
6全協が、下部における大衆討議を一切抜きにして、伊藤律派を除いた旧主流派と神山、中西、亀山、西川を除いた旧国際派(宮本派と春日庄次郎派)の野合体制の中で、中央委員は主流派優位の10対5で、中央常任幹部会(旧政治局)が4対3の幹部構成であった。
これらの構成の中で、これまでの極左冒険主義を否定したが、その前提となった51年綱領(いわゆる新綱領)については、その全規定が完全に正しいことを実際に証明していると強調され、根本的戦略変換は手つかずにすまされた。
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2008/12/02(火) 24 7回大会と宮本体制
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このような状況の下で開かれた第7回大会は、日共始まって以来の開かれた討論で、下部党員の意見を載せた『前衛』別冊の「団結と前進」が何回か発行され、綱領論争の活発な展開、党はじまって以来の理論的エネルギーの高まりをもたらした。
だが、50年問題の根本的な追及をぬきにした派閥の温存は、宮本派の優位確立に終わり、真の問題解決にはならなかった。
中央委員の選出では、166名が審査にかけられ、旧国際派の強烈な批判で、紺野与次郎ら旧主流派の若干分子は、候補者リストから外された。
投票の結果、蔵原以下31名が選ばれたが、18位以下の14名は、票数が代議員の過半数の支持も得られぬまま、中央委員となった。
大会後の第1回中央委員会総会で、中央委員会議長野坂、書記長宮本、統制委員会議長春日(庄)の中央機構が定まり、革新派を切り捨てた宮本が、野坂と組んで党の主導権を確保した。
旧国際派の勝利の大会であることが判明した。
これ以後、党内の対立は、徳田直系放逐の後に残った野坂、春日(正)らと結んで中央の実権を握った宮本、袴田が中央主流派を形成し、同じ国際派でも、春日(庄)、山田、亀山、西川らは、党章草案反対派として、少数派の立場に立つことになった。
しかし彼らの背後には、旧国際派の中堅分子やインテリの多くが支えとなっていた。
彼らは、六全協で徳田主流派と安易に妥協した宮本らが、かっての革命戦略の方式を何らの自己批判もなしに修正し、新中央として党章草案を全党に押しつけようとするその態度に、怒りや不満を感じていた。
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