《教科書ネット21ニュースから》
◆ 一斉休校を通して考えた「学校」という場所の意昧
◆ 「コロナの話して」
朝の会に行くと「せんせー、コロナの話して!!」の声がいっぱい。2月のはじめのことでした。
朝の会で子どもたちがしゃべりたそうな顔をしているので聞いてみたら、そんな言葉が返ってきました。このころの子どもたちは報道を見て不安になったり気にしたりしていたのでしょう。
時期的に中国・武漢の位置やクルーズ船のこと、飛沫感染と手洗いのことを、スマホで必死に正しい情報を調べながらも「小話」したことを思い出します。3月まで担任していた4年生とのエピソードです。
北海道では2月26日の登校日を最後に道独自の「1週間の臨時休校」となり、その後政府の要請を受ける形で春休みまで臨時休校になりました。
「来週…とは言わないまでも3学期、また会えるよね」そんな気持ちで子どもたちを帰したのが、大きな節目となってしまいした。
その後、稚内市では分散登校を実施しました。
私の学校では3月17日の週と24日の週の2回、60分程度の分散登校を実施し春休みに入りました。
北海道は新学期の学校再開の方針を示し、約40日ぶりに子どもたちを学校に迎える見通しが立ちました。
今回の「一斉休校」を通して、「学校はどういう場所なのか」ということを改めて考えるきっかけになりました。
◆ 学校は子どもたちが分け隔てなく愛される場所だから
宗谷で教育実践をする中で、大先輩から「民主的学校づくり」ということを次のように教えていただきました。
学校は保護者・住民の教育への願いに応える教育活動を豊かに進めることが基本です。そのために一人ひとりの教職員の専門性・自主性が尊重されることが大事です。
子どもたちの人格の完成をめざして全教職員が力合わせをします。
昨今の言い方でいうと、「教師の専門性」という言葉に近いのかもしれません。
ひとりひとりの力としての「教師の専門性」を教職員集団としての力として高めていく、力合わせをしていくというのが、大先輩の時代から受け継がれてきた「教師の責務」というものなのだと、私は理解しています。
もっと簡単に言えば学校教育は、「子どもたちが学校という場所で共に過ごすことでしあわせを分かち合えるような営みを大人たちが創り出すこと」だと思っています。
「学校」という場所は、そして学校教育という営みは、それくらい子どもたちにとって大きなものであるのだと思います。
今の時代,子どもたちの生活環境はますます多様になっています。
それでも子どもたちは学校の授業や休み時間に仲間と関わり合ったり学び合う中で個性を豊かにしていきます。時には「あっ、やっちまった!」という友達とのトラブルもあります。そんなときには、先生と共に考え平和的な解決を求めあいます。
そんなふうにして、学校教育は成り立っています。
◆ 子どもたちにとって「給食」の意味
3学期、子どもたちとのエピソードで忘れられないものがもうひとつあります。
稚内市では3学期にスキー授業があります。お弁当をもって1日がかりで出かけます。
市が管理しているスキー場に市内の多くの学校がスキー授業に訪れます。おのずと少しでも空いていそうな日を選びます。
私たちが選んだ日取りは2月3日と2月14日でした。スキー授業の日程を伝えると子どもたちから苦情が…。
聞いてみると、「節分とバレンタインだ」と言うのです。
「どういうこと?」と聞くと、口をそろえて「給食!!」と。
さらに聞けば「お豆とかチョコのデザートとか、特別なメニューの日ばっかりじゃないか!!」というのです。
「ごめん、そこまで考えてなかった」とお詫びしたのは言うまでもありません。
子どもたちにとって、毎日の給食はそれほど大きな意味があるのだと気づかされました。
宗谷の大先輩が語る、子どもと食についての昔話に「家で朝ご飯を食べてこられない子のために、職員室の給湯室でこっそりとおにぎりを作って食べさせていた」という逸話がいくつもの学校にあります。
二百カイリ問題で、稚内の基幹産業であった遠洋漁業が大打撃を受け、経済が冷え込んだ時代のエピソードです。
一斉休校の期間中、行政の責任として軽食を提供したり、お弁当を配達する動きもあると聞きました。こうした動きは、稚内の昔話のような困り感に直接的に応える緊急策です。
しかし、それは学校の毎日の給食とは大きく意味が異なります。
学校では毎日の給食を通して、好き嫌いとかマナーとか身につけてほしい力を語りながら、子どもたちは楽しそうに給食を食べてくれます。
子どもたちが大好きな「ひめほっけ」の日は異様な盛り上がりだったり、嫌いだったメニューを少しでも食べてみて「完食できたよ」って笑顔を見せてくれる子どもの姿があります。
そんな光景から、「給食は、単にはらぺこのおなかをみたすためだけでない」という、給食の意味をものすごく考えさせられます。
◆ 「分散登校だけど、学校に行ける!」
分散登校1回目の日、子どもたちの中に自主学習を持ってきてくれた子がいました。その中に学校から分散登校の案内が届いた日のことを日記に書いてくれた子がいました。
この作文に書いてくれたような思いに応えることができたかどうかいうとそうではありませんでした。
だからこそ、学校が再開する際には私たちが本当に大事にしたい学校づくりを豊かにしていかなければならないと考えさせられました。
◆ 学校をできるだけ日常に戻していく
北海道による学校再開の方針を受けて、稚内市の学校でも新学期スタートを節目として日常を取り戻すことになりました。
そうはいっても、朝の検温、マスク着用をはじめとする感染予防と日常生活を両立させていくことになります。
私の学校では、学校生活をできるだけ日常に戻していくという方針が確かめられました。
大事にしたいのは、子どもたちが「学校、やっぱり楽しい」って思えることです。
とはいえ、いつもと違う新学期を迎えることは間違いありません。
体力が落ちまくっている子どもたちや、生活習慣がくずれている子もいるかもしれません。学校生活を送るにあたって「物理的に2メートル離れる」というような対応も考えられます。
しかし本当に大事なのは、学校生活を通していつも以上にお互いを配慮しあい思い合うということではないでしょうか。
感染予防をする中で自分自身を守りながら、大切な仲間や家族を守るために感染予防をすすめ、学校生活と両立させていくと考え合えるような学校づくりを進めたいものです。
◆ おわりに
新学期を迎えるにあたり、心配なことはたくさんあります。
例えば「午前授業からスタートできたらいいのに」というような理想を考えることもあります。こうした思いを考えるだけじゃなくて、学校づくりという私たちが大事にしている教育条理に照らして、求め合えるような新年度のスタートにしていきたいと考えています。
『子どもと教科書全国ネット21NEWS 131号』(2020年4月)
◆ 一斉休校を通して考えた「学校」という場所の意昧
(北海道宗谷・小学校教員〉
◆ 「コロナの話して」
朝の会に行くと「せんせー、コロナの話して!!」の声がいっぱい。2月のはじめのことでした。
朝の会で子どもたちがしゃべりたそうな顔をしているので聞いてみたら、そんな言葉が返ってきました。このころの子どもたちは報道を見て不安になったり気にしたりしていたのでしょう。
時期的に中国・武漢の位置やクルーズ船のこと、飛沫感染と手洗いのことを、スマホで必死に正しい情報を調べながらも「小話」したことを思い出します。3月まで担任していた4年生とのエピソードです。
北海道では2月26日の登校日を最後に道独自の「1週間の臨時休校」となり、その後政府の要請を受ける形で春休みまで臨時休校になりました。
「来週…とは言わないまでも3学期、また会えるよね」そんな気持ちで子どもたちを帰したのが、大きな節目となってしまいした。
その後、稚内市では分散登校を実施しました。
私の学校では3月17日の週と24日の週の2回、60分程度の分散登校を実施し春休みに入りました。
北海道は新学期の学校再開の方針を示し、約40日ぶりに子どもたちを学校に迎える見通しが立ちました。
今回の「一斉休校」を通して、「学校はどういう場所なのか」ということを改めて考えるきっかけになりました。
◆ 学校は子どもたちが分け隔てなく愛される場所だから
宗谷で教育実践をする中で、大先輩から「民主的学校づくり」ということを次のように教えていただきました。
学校は保護者・住民の教育への願いに応える教育活動を豊かに進めることが基本です。そのために一人ひとりの教職員の専門性・自主性が尊重されることが大事です。
子どもたちの人格の完成をめざして全教職員が力合わせをします。
昨今の言い方でいうと、「教師の専門性」という言葉に近いのかもしれません。
ひとりひとりの力としての「教師の専門性」を教職員集団としての力として高めていく、力合わせをしていくというのが、大先輩の時代から受け継がれてきた「教師の責務」というものなのだと、私は理解しています。
もっと簡単に言えば学校教育は、「子どもたちが学校という場所で共に過ごすことでしあわせを分かち合えるような営みを大人たちが創り出すこと」だと思っています。
「学校」という場所は、そして学校教育という営みは、それくらい子どもたちにとって大きなものであるのだと思います。
今の時代,子どもたちの生活環境はますます多様になっています。
それでも子どもたちは学校の授業や休み時間に仲間と関わり合ったり学び合う中で個性を豊かにしていきます。時には「あっ、やっちまった!」という友達とのトラブルもあります。そんなときには、先生と共に考え平和的な解決を求めあいます。
そんなふうにして、学校教育は成り立っています。
◆ 子どもたちにとって「給食」の意味
3学期、子どもたちとのエピソードで忘れられないものがもうひとつあります。
稚内市では3学期にスキー授業があります。お弁当をもって1日がかりで出かけます。
市が管理しているスキー場に市内の多くの学校がスキー授業に訪れます。おのずと少しでも空いていそうな日を選びます。
私たちが選んだ日取りは2月3日と2月14日でした。スキー授業の日程を伝えると子どもたちから苦情が…。
聞いてみると、「節分とバレンタインだ」と言うのです。
「どういうこと?」と聞くと、口をそろえて「給食!!」と。
さらに聞けば「お豆とかチョコのデザートとか、特別なメニューの日ばっかりじゃないか!!」というのです。
「ごめん、そこまで考えてなかった」とお詫びしたのは言うまでもありません。
子どもたちにとって、毎日の給食はそれほど大きな意味があるのだと気づかされました。
宗谷の大先輩が語る、子どもと食についての昔話に「家で朝ご飯を食べてこられない子のために、職員室の給湯室でこっそりとおにぎりを作って食べさせていた」という逸話がいくつもの学校にあります。
二百カイリ問題で、稚内の基幹産業であった遠洋漁業が大打撃を受け、経済が冷え込んだ時代のエピソードです。
一斉休校の期間中、行政の責任として軽食を提供したり、お弁当を配達する動きもあると聞きました。こうした動きは、稚内の昔話のような困り感に直接的に応える緊急策です。
しかし、それは学校の毎日の給食とは大きく意味が異なります。
学校では毎日の給食を通して、好き嫌いとかマナーとか身につけてほしい力を語りながら、子どもたちは楽しそうに給食を食べてくれます。
子どもたちが大好きな「ひめほっけ」の日は異様な盛り上がりだったり、嫌いだったメニューを少しでも食べてみて「完食できたよ」って笑顔を見せてくれる子どもの姿があります。
そんな光景から、「給食は、単にはらぺこのおなかをみたすためだけでない」という、給食の意味をものすごく考えさせられます。
◆ 「分散登校だけど、学校に行ける!」
分散登校1回目の日、子どもたちの中に自主学習を持ってきてくれた子がいました。その中に学校から分散登校の案内が届いた日のことを日記に書いてくれた子がいました。
私はとてもうれしいことがありました。それはもう一度学校に行けることです。「ぶんさん登校」ですが、それでもうれしかったです。はやく学校に行きたいなと思いました。実際のところは、分散登校は感染予防の指導や健康観察など三十分程度で済ませる内容でした。また、物理的な距離(子どもどうしの間隔)をとらねばならなかったりして、いつもの学校の姿とは全く異なるものでした。
この作文に書いてくれたような思いに応えることができたかどうかいうとそうではありませんでした。
だからこそ、学校が再開する際には私たちが本当に大事にしたい学校づくりを豊かにしていかなければならないと考えさせられました。
◆ 学校をできるだけ日常に戻していく
北海道による学校再開の方針を受けて、稚内市の学校でも新学期スタートを節目として日常を取り戻すことになりました。
そうはいっても、朝の検温、マスク着用をはじめとする感染予防と日常生活を両立させていくことになります。
私の学校では、学校生活をできるだけ日常に戻していくという方針が確かめられました。
大事にしたいのは、子どもたちが「学校、やっぱり楽しい」って思えることです。
とはいえ、いつもと違う新学期を迎えることは間違いありません。
体力が落ちまくっている子どもたちや、生活習慣がくずれている子もいるかもしれません。学校生活を送るにあたって「物理的に2メートル離れる」というような対応も考えられます。
しかし本当に大事なのは、学校生活を通していつも以上にお互いを配慮しあい思い合うということではないでしょうか。
感染予防をする中で自分自身を守りながら、大切な仲間や家族を守るために感染予防をすすめ、学校生活と両立させていくと考え合えるような学校づくりを進めたいものです。
◆ おわりに
新学期を迎えるにあたり、心配なことはたくさんあります。
例えば「午前授業からスタートできたらいいのに」というような理想を考えることもあります。こうした思いを考えるだけじゃなくて、学校づくりという私たちが大事にしている教育条理に照らして、求め合えるような新年度のスタートにしていきたいと考えています。
『子どもと教科書全国ネット21NEWS 131号』(2020年4月)
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