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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

東京「君が代」4次訴訟第6回口頭弁論 原告意見陳述

2015年07月14日 | 日の丸・君が代関連ニュース
2015年7月10日
東京地方裁判所民事部第11部乙B係御中
◎ 一教員として、いま行動しないと手遅れになる
原告 N

 原告のNと申します。都立高校の教諭として35年間勤務し、2012年3月定年退職致しました。教科は数学です。本件に関連しては、いわゆる予防訴訟、および、処分取り消し訴訟の第1次・第2次の訴訟の原告でした。
 私が教諭として働き始めたころ、卒業式での日の丸・君が代の扱いについて、職員会議ではさまざまな角度から話し合われていました。
 私が初めて担任したクラスでも、韓国をルーツに持つ二人の生徒が卒業式直前になって私に「本名」を打ち明けました。卒業証書は本名で受け取りたいからです。偏見や差別を恐れ、本名を隠して、いわゆる「通称名」で3年間をすごしてきたのです。
 彼らにとっての日の丸・君が代は、かつて、祖父母たちが受けたであろう暴力と凌辱を思い起こさせることでしょう。卒業式の記憶は、どのような想いで、かれらの心の中に残るのでしょうか。教師になりたての私は、職員会議の判断の重さに大きな責任を感じたことを覚えています。
 のちに、都立国際高校の開設に携わったとき、ともすると「日本の学校なのだから」という言葉で、生徒たちに日本の文化を押し付けることになりがちでした。
 海外帰国生徒や外国人生徒の多く在籍する国際高校では、数学ですら、計算の手順が国によって異なります。文化の違いということは「わかりきっていること」という言葉が通用しないことなのです。
 そもそも入学式・卒業式を行うことが世界では少数派でした。入学式の壇上では生徒が滞在したすべての国の国旗を並べました。多くの文化が理解し合うことを期待したからです。それでも、その順序には細かい配慮が必要でした。
 それに対して国歌は君が代のみが演奏されたことには大きな違和感がありました。国際理解を教育目標とする東京都の学校がこれではいけない、それぞれの文化を尊重するところから始めなければならないと思いました。
 しかし、10.23通達が発出されたとき情勢は大きく変わりました。
 職務命令が優先されました。そして、会場の全教員の席を指定し、座席表を事前に提出させ、その背後には教育委員会の職員が座り、誰が起立したか、しなかったかをチェックする、それが管理職からの報告と一致するかをチェックする。校長の報告さえも監視するというものでした。
 この話を聞いて私は、戦前に教育現場を監視していた「視学」という、今では死語に近い言葉を思い起こしました。このときわたくしは「どうしても通達に従うわけにはいかない」という決心が固まりました。いま行動しないと手遅れになる。教師としての生涯に禍根を残すことになると感じました。
 最初の不起立の後、ものものしい事情聴取があり、戒告処分を受けました。
 質問を受け付けず、録音も禁止した中で「再発防止研修」が行なわれました。処分は段階を追って厳しくなり、免職にまで追い込まれると聞きました。
 翌年3月には起立しなかった嘱託希望者が全員不合格となりました。退職後の生活設計を大きく左右する重い「処分」です。
 このような脅迫に近い「職務命令」が常態化すれば、それこそ戦前の教育に戻ってしまいます。くい止める機会は今を除いて無いとの確信を得ました。
 「不当な支配」について述べます。
 私は「不当な支配」であるかどうかは「権力を背景とした強制・脅迫の有無」で判断されると理解しています。支配の内容が正しいか・誤っているか、とは別の問題だと考えます。
 物事にはさまざまな意見・考え方があります。ふたつの意見が両方とも正しいことも、または両方とも誤っていることもあります。それらは話し合いによって解決されるべきことです。話し合いを拒み、強制し、処分し、排除しようとすること自体が誤りなのです。私が最初に処分を受けた10年前、人事委員会で述べた陳述書のタイトルは「話し合おうとしないひとたちへ」でした。
 長い年月が経過し、最高裁判決は、「現場と教育委員会の話し合いで解決されることが望ましい」と述べました。それを受けて私たちは何度も教育委員会に話し合いを申し入れました。しかし、回答はいつも「話し合うつもりはない」であり、これまで10年間、一切の話し合いを拒否し続けています。
 10.23通達に先立つ例として、七生養護学校事件の例を取り上げます。
 都議会議員が同校を視察した折に取った行動が「不当な支配」であると判断されました。教育委員会は教員の擁護義務を果たさなかったことが指摘されました。
 本件では、教育現場を守るべき教育委員会が、こともあろうに学校行事である卒業式に対して「不当な支配」を行なったことになります。
 卒業式のこまごまとしたところにまで教育委員会が直接介入したことは全都立高校で見事なまでに一律の卒業式が執り行われたことから明らかです。
 また、校長に、ほとんど裁量権なかったことは、特別支援学校において、君が代演奏中、重い障害を持っている生徒の、命に関わるようなケアを中断させたという事実からも明らかではないでしょうか。
 すべての妥協を許さないという姿勢ですべてが通達通りに押し切られました。

 この裁判の訴状の冒頭で、マルティン・ニーメラーの詩を引用しました。
 おかしいと思った時、おかしいということを表明でき、話し合うことが出来る社会が正しい社会だと思います。しかし疑問を投げかけることが憚られ、表明する行為が処分の対象となる社会になりつつあります。
 ニーメラーが言うように、いまこそ、目を閉ざしてはいけない時です。
 この10年間に、職員会議での採決は禁止され、教員は物言わぬ集団になりつつあります。教育現場での創意工夫も、いきいきとした教育活動も、死に絶えようとしています。強制と脅迫が教育を支配しようとしています。
 この重大な過ちを一刻も早く止めるため、10.23通達の違法性をご判断願います。教育が再び「話し合い」の場となることを願ってわたくしの陳述を終わります。
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