《再雇用拒否撤回第2次訴訟第8回口頭弁論(2011/6/20)代理人陳述》<2>
◎ 子どもの学習権と教師の教育の自由
第2 準備書面(10)
1 準備書面(10)は,子どもの学習権を中核とした憲法上の制度的保障や,憲法上の教師の教育の自由について述べたうえで,それらが,10.23通達などの一連の仕組みによって侵害されたことを内容とする主張です。
2 まず,憲法上の制度的保障について話します。
生徒には,憲法によって学習権が保障されています。この学習権を十分に保障するためには,人権としての学習権を中核的な価値として,制度として「教育の独立」が保障されなければなりません。
なぜならば,戦前の教育を振り返れば,誰でもわかることなのですが,子どもの学習権は,権力によって侵害されやすく,子どもの学習権を十分に保障するためには,さらに,それを包み込む制度的な保障が不可欠だからです。生徒の学習権が憲法によって保障されていると考えれば,当然,この制度的保障も憲法上の保障と考えるべきです。
このような見解は,戦後,教育改革に携わり,後に,最高裁長官も務めた田中耕太郎氏も述べております。特に,裁判長に述べたい点は,「司法権の独立」との類似性を指摘していることです。裁判の内容について,裁判官が上から指揮命令を受ければ違憲でしょう。それとの類似性があるということです。
この論文の中で,教育委員会が教育の独立を侵害しうることを,予言していることも重要な点だと言えます。このような制度的保障が侵害されたか否かは,これまでの弁論で述べた不当な支配についての主張のとおりです。
3 教師の教育の自由という側面からみても,10.23通達等は,これを侵害しています。
教師には,学問の自由,教育実践の自由を含む教育の自由が憲法上保障されています。これを受けて,学校教育法も,教諭が教育をつかさどると定めています。
他方,学校教育法上,教育委員会の教育内容介入権を定めた規定はありません。地教行法も,教育委員会の権限は,教育に関する「事務」であると規定しています。これらの法律上の規定は,少なくとも,子どもと人格的に接触しえない教育行政機関が教育内容へ介入することは抑制的であるべきであり,教師に教育の自由が保障されるという憲法の趣旨を反映したものです。
ところで,教師の教育の自由は,教師の集団的な自由としての側面を,もちろん,あわせもっています。なぜならば,教師の集団的な教育活動が不可欠な場面があり,卒業式や入学式などの特別活動も,教師集団によって行われる教育活動の一環だからです。
特に,卒業式は,高校生活の締めくくりとして,教師たちと生徒たちで作り上げる教育実践の総仕上げといえる大切な学校行事であり,まさに教師集団による教育活動です。
高等学校学習指導要領解説「特別活動編」にも,卒業式等の「学校行事」が,学校すなわち教師集団の創意工夫が広く保障されるべき教育活動であると位置づけています。
4 このような教師あるいは教師集団の自由を制約してまでも,権力が教育内容に介入することが許される場合は,
①その目的が,真に,子どもの学習権を充足するためのものであり,
②子どもの学習権を充足するために,「必要かつ相当」な範囲内のものでなければなりません。
5 しかし,10.23通達等の一連の仕組みは,「日の丸」や「君が代」に敬意の念を表明しない教師を教壇から排除する目的で組み立てられたものとしか考えられません。
これは,①東京都の各種会議の議事録,②職務命令の出し方,③不起立等を把握するための入念な指示,④卒業式の監視状況,⑤その後の戒告処分の状況などから考えると,明らかです。
これら一連の仕組みが,式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図によるものではなく,一定の歴史観,世界観及び教育上の信念を有する教師を念頭に置いて,不利益処分をもって,その信念に反する行為を強制し,これに従わない教師を教壇から排除する目的で組み立てられたとしか考えられないのです。
決して,真に,子どもの学習権を充足させる目的で組み立てられた仕組みではありませんから,教師の教育の自由を侵害しており,違憲というほかありません。
6 また,「内心の自由の説明」が禁止され,生徒らの不起立を教師の指導力不足として問題視していることや,都教委は,生徒にすら,自由な議論の機会を与えずに有無を言わさず強制的に国旗に向かって起立し,国歌を斉唱せざるを得ない状況を作っています。
生徒たちが,自発的かっ自由に国旗・国歌の問題について学び,討論することすら押さえ込もうとしています。このように,10・23通達などの一連の仕組みは,教師に対し,国旗・国歌について,極めて一方的な観念を,生徒に植え付けるような内容の教育を施すことを強制しています。
これは子どもの学習権を充足するために,不必要であるばかりか,有害ですから,この点からも,違憲と言うほかありません。
7 そして,これまでの弁論においても主張してきたとおり,①フロア式・対面式の会場設営を禁止し,②国旗を掲揚する位置を一義的に決め,③教職員全員を起立斉唱させることによって,生徒が自己の信念に基づいて起立斉唱を拒否することを事実上不可能にしています。
10・23通達を中核とする一連の仕組みは,教師の裁量の余地を奪うものであって,子どもの学習権という観点から相当ではないことは明らかで,この点からも,違憲というほかありません。
8 以上より,10・23通達を核心とする国旗・国歌強制の一連の仕組みは,①その目的が真に子どもの学習権を充足するためのものであるとはいえず,さらに,②子どもの学習権を充足するために必要かつ相当と認められる範囲内を逸脱しているから,教師の教育の自由を侵害しており,違憲というほかないのです。
◎ 子どもの学習権と教師の教育の自由
代理人弁護士 村田良介
第2 準備書面(10)
1 準備書面(10)は,子どもの学習権を中核とした憲法上の制度的保障や,憲法上の教師の教育の自由について述べたうえで,それらが,10.23通達などの一連の仕組みによって侵害されたことを内容とする主張です。
2 まず,憲法上の制度的保障について話します。
生徒には,憲法によって学習権が保障されています。この学習権を十分に保障するためには,人権としての学習権を中核的な価値として,制度として「教育の独立」が保障されなければなりません。
なぜならば,戦前の教育を振り返れば,誰でもわかることなのですが,子どもの学習権は,権力によって侵害されやすく,子どもの学習権を十分に保障するためには,さらに,それを包み込む制度的な保障が不可欠だからです。生徒の学習権が憲法によって保障されていると考えれば,当然,この制度的保障も憲法上の保障と考えるべきです。
このような見解は,戦後,教育改革に携わり,後に,最高裁長官も務めた田中耕太郎氏も述べております。特に,裁判長に述べたい点は,「司法権の独立」との類似性を指摘していることです。裁判の内容について,裁判官が上から指揮命令を受ければ違憲でしょう。それとの類似性があるということです。
この論文の中で,教育委員会が教育の独立を侵害しうることを,予言していることも重要な点だと言えます。このような制度的保障が侵害されたか否かは,これまでの弁論で述べた不当な支配についての主張のとおりです。
3 教師の教育の自由という側面からみても,10.23通達等は,これを侵害しています。
教師には,学問の自由,教育実践の自由を含む教育の自由が憲法上保障されています。これを受けて,学校教育法も,教諭が教育をつかさどると定めています。
他方,学校教育法上,教育委員会の教育内容介入権を定めた規定はありません。地教行法も,教育委員会の権限は,教育に関する「事務」であると規定しています。これらの法律上の規定は,少なくとも,子どもと人格的に接触しえない教育行政機関が教育内容へ介入することは抑制的であるべきであり,教師に教育の自由が保障されるという憲法の趣旨を反映したものです。
ところで,教師の教育の自由は,教師の集団的な自由としての側面を,もちろん,あわせもっています。なぜならば,教師の集団的な教育活動が不可欠な場面があり,卒業式や入学式などの特別活動も,教師集団によって行われる教育活動の一環だからです。
特に,卒業式は,高校生活の締めくくりとして,教師たちと生徒たちで作り上げる教育実践の総仕上げといえる大切な学校行事であり,まさに教師集団による教育活動です。
高等学校学習指導要領解説「特別活動編」にも,卒業式等の「学校行事」が,学校すなわち教師集団の創意工夫が広く保障されるべき教育活動であると位置づけています。
4 このような教師あるいは教師集団の自由を制約してまでも,権力が教育内容に介入することが許される場合は,
①その目的が,真に,子どもの学習権を充足するためのものであり,
②子どもの学習権を充足するために,「必要かつ相当」な範囲内のものでなければなりません。
5 しかし,10.23通達等の一連の仕組みは,「日の丸」や「君が代」に敬意の念を表明しない教師を教壇から排除する目的で組み立てられたものとしか考えられません。
これは,①東京都の各種会議の議事録,②職務命令の出し方,③不起立等を把握するための入念な指示,④卒業式の監視状況,⑤その後の戒告処分の状況などから考えると,明らかです。
これら一連の仕組みが,式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図によるものではなく,一定の歴史観,世界観及び教育上の信念を有する教師を念頭に置いて,不利益処分をもって,その信念に反する行為を強制し,これに従わない教師を教壇から排除する目的で組み立てられたとしか考えられないのです。
決して,真に,子どもの学習権を充足させる目的で組み立てられた仕組みではありませんから,教師の教育の自由を侵害しており,違憲というほかありません。
6 また,「内心の自由の説明」が禁止され,生徒らの不起立を教師の指導力不足として問題視していることや,都教委は,生徒にすら,自由な議論の機会を与えずに有無を言わさず強制的に国旗に向かって起立し,国歌を斉唱せざるを得ない状況を作っています。
生徒たちが,自発的かっ自由に国旗・国歌の問題について学び,討論することすら押さえ込もうとしています。このように,10・23通達などの一連の仕組みは,教師に対し,国旗・国歌について,極めて一方的な観念を,生徒に植え付けるような内容の教育を施すことを強制しています。
これは子どもの学習権を充足するために,不必要であるばかりか,有害ですから,この点からも,違憲と言うほかありません。
7 そして,これまでの弁論においても主張してきたとおり,①フロア式・対面式の会場設営を禁止し,②国旗を掲揚する位置を一義的に決め,③教職員全員を起立斉唱させることによって,生徒が自己の信念に基づいて起立斉唱を拒否することを事実上不可能にしています。
10・23通達を中核とする一連の仕組みは,教師の裁量の余地を奪うものであって,子どもの学習権という観点から相当ではないことは明らかで,この点からも,違憲というほかありません。
8 以上より,10・23通達を核心とする国旗・国歌強制の一連の仕組みは,①その目的が真に子どもの学習権を充足するためのものであるとはいえず,さらに,②子どもの学習権を充足するために必要かつ相当と認められる範囲内を逸脱しているから,教師の教育の自由を侵害しており,違憲というほかないのです。
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