《教育の現場から》
◎ 私が主任教諭合格を取り消されて思うこと
私は、今の「業績評価」や「主任・主幹教諭」制度に100%否定的だ。現都教委の元で実施されるこれらの制度が「学校現場を徹底的に破壊」していると考える。
一般に、「評価があり」、「試験を受けて」昇任し、賃金が上昇していくことは、民間では常識かも知れない。しかしそこには、はっきりとした目標と評価基準、そして社員を励まし、労働の成果が賃金となって帰って来る、そんな仕組みが必要だ。恣意的な評価と、理不尽な待遇では、民間会社でも社員のやる気を萎えさせ、会社は衰退する。
学校の教員が「評価」される場合、その評価基準は極めて難しい。「生徒の為」にどれだけ貢献したか…、人間の評価なんていうものは誰にも出来ないことだ。
「数値目標」などというものに囚われると、ひとりひとりの生徒が見えなくなってくる。名物教師もいれば、反面教師もいる。あらゆるタイプの教員が対応するから、あらゆるタイプの生徒が救われ、学べる。まさしく「学校現場は社会の縮図」であり、また、教員は少しでも良心的な社会の縮図を生徒に見せるよう、努力すべきであると考える。
主任教諭合格を取り消され、弱気になっていたところ・・・
「しっかりしろ! 大の男が! 空から爆弾降ってくるわけでもあるまいし。」都立板橋高校元教諭、F先生の言葉である。
私には信念がある。授業も部活動も校務分掌も、全て、生徒の幸せのために行っていくこと。「生徒のためを第一に」行動していくこと。
「業績評価」、「主任教諭」は、賃金・昇給に直結している。それらが「第一の目標」になっては本末転倒。しかし「生徒の為を第一」に働いている労働者に対し、妥当な賃金を払わない経営者は弾劾すべき。
冒頭に述べた通り、私は現在学校現場に導入されている制度に100%反対だ。公教育における教員の有り様が、一方的に、一方向に、画一的に統制されたのでは、歪んだ教育しか出来ない。いや教育ではなく、調教しか出来ない。
以前『生涯一教員』という素敵な言葉があった。
地位も名誉もいらない。ただひたすら生徒と共に歩み、退職まで生徒第一の労働者であり続ける生き方。今、その素敵な言葉は死語になりつつある。
生きる為に必要で、労働に見合った賃金が得られないからだ。だから私は主任教諭を受けたのだ。しかし、主幹教諭(管理職)になるつもりは毛頭ない。
いわゆる「民間」では、賃金や労働環境等、過酷な労働状況の中で、必死に堪えて生活している方々が多数いる。働きたくても働けない人も多い。
非正規雇用で、奴隷のような扱いを余儀なくされている人もいる。全ては財界と政治の思惑通りのシナリオである。
未来を担う子ども達の前に立つ「教員」までもが、経営者側の思惑に振り回され、妥協し、労働者側の権利が全く蔑ろにされたのなら、それら教員の姿を見て社会に巣立つ子ども達が、より良い社会の実現に努力出来るはずもなく、人権の尊重もされない、利益最優先の財界が考える冷ややかな社会へと転がり落ちて行くであろう。
「主任教諭になっても私は代わらない。OJTでは、対都教委への適切な批判精神を持った若手教員への助言に努めたい。誇りを持って、自分の責任で、真に生徒第一の教員生活を送れるよう励みたい。」
残り10年の教員生活、「免職」にならずに、無事退職を迎えられるだろうか。不安が付きまとう毎日だ。しかし・・・
「空から爆弾降ってくるわけでもあるまい」
F先生の言葉が忘れられない。私はまだ生きている。家族も生きている。私は私の思うように、信念に基づき行動しよう。人間の評価なんていうものは、死んだ後に神様がちゃんと裁定して下さる。
『藤田先生を応援する会通信』(第40号 2010/4/8)
◎ 私が主任教諭合格を取り消されて思うこと
U・T(都立高校教諭)
私は、今の「業績評価」や「主任・主幹教諭」制度に100%否定的だ。現都教委の元で実施されるこれらの制度が「学校現場を徹底的に破壊」していると考える。
一般に、「評価があり」、「試験を受けて」昇任し、賃金が上昇していくことは、民間では常識かも知れない。しかしそこには、はっきりとした目標と評価基準、そして社員を励まし、労働の成果が賃金となって帰って来る、そんな仕組みが必要だ。恣意的な評価と、理不尽な待遇では、民間会社でも社員のやる気を萎えさせ、会社は衰退する。
学校の教員が「評価」される場合、その評価基準は極めて難しい。「生徒の為」にどれだけ貢献したか…、人間の評価なんていうものは誰にも出来ないことだ。
「数値目標」などというものに囚われると、ひとりひとりの生徒が見えなくなってくる。名物教師もいれば、反面教師もいる。あらゆるタイプの教員が対応するから、あらゆるタイプの生徒が救われ、学べる。まさしく「学校現場は社会の縮図」であり、また、教員は少しでも良心的な社会の縮図を生徒に見せるよう、努力すべきであると考える。
主任教諭合格を取り消され、弱気になっていたところ・・・
「しっかりしろ! 大の男が! 空から爆弾降ってくるわけでもあるまいし。」都立板橋高校元教諭、F先生の言葉である。
私には信念がある。授業も部活動も校務分掌も、全て、生徒の幸せのために行っていくこと。「生徒のためを第一に」行動していくこと。
「業績評価」、「主任教諭」は、賃金・昇給に直結している。それらが「第一の目標」になっては本末転倒。しかし「生徒の為を第一」に働いている労働者に対し、妥当な賃金を払わない経営者は弾劾すべき。
冒頭に述べた通り、私は現在学校現場に導入されている制度に100%反対だ。公教育における教員の有り様が、一方的に、一方向に、画一的に統制されたのでは、歪んだ教育しか出来ない。いや教育ではなく、調教しか出来ない。
以前『生涯一教員』という素敵な言葉があった。
地位も名誉もいらない。ただひたすら生徒と共に歩み、退職まで生徒第一の労働者であり続ける生き方。今、その素敵な言葉は死語になりつつある。
生きる為に必要で、労働に見合った賃金が得られないからだ。だから私は主任教諭を受けたのだ。しかし、主幹教諭(管理職)になるつもりは毛頭ない。
いわゆる「民間」では、賃金や労働環境等、過酷な労働状況の中で、必死に堪えて生活している方々が多数いる。働きたくても働けない人も多い。
非正規雇用で、奴隷のような扱いを余儀なくされている人もいる。全ては財界と政治の思惑通りのシナリオである。
未来を担う子ども達の前に立つ「教員」までもが、経営者側の思惑に振り回され、妥協し、労働者側の権利が全く蔑ろにされたのなら、それら教員の姿を見て社会に巣立つ子ども達が、より良い社会の実現に努力出来るはずもなく、人権の尊重もされない、利益最優先の財界が考える冷ややかな社会へと転がり落ちて行くであろう。
「主任教諭になっても私は代わらない。OJTでは、対都教委への適切な批判精神を持った若手教員への助言に努めたい。誇りを持って、自分の責任で、真に生徒第一の教員生活を送れるよう励みたい。」
残り10年の教員生活、「免職」にならずに、無事退職を迎えられるだろうか。不安が付きまとう毎日だ。しかし・・・
「空から爆弾降ってくるわけでもあるまい」
F先生の言葉が忘れられない。私はまだ生きている。家族も生きている。私は私の思うように、信念に基づき行動しよう。人間の評価なんていうものは、死んだ後に神様がちゃんと裁定して下さる。
『藤田先生を応援する会通信』(第40号 2010/4/8)
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