《再雇用拒否撤回第2次訴訟第5回口頭弁論(2010/12/13)原告意見陳述》<2>
◎ 最終目的は生徒に起立斉唱を強制することとはっきり分かった瞬間
「報告集会」 《撮影:平田 泉》
私は、老人性うつ病と診断された母の介護のために勤務の軽減を願い、担任している生徒が卒業するのを機会に、2007年度末で勧奨退職して再雇用職員となることを希望しました。私は、その選考には合格し、2008年度からは都立飛鳥高校に行くことになっていました。
しかし、私は、2008年3月7日に行われた卒業式において、「開会の辞」で「皆様ご起立下さい」の号令を聞いて起立した瞬間、生理的嫌悪ともいうぺき感覚と共に、尿意をがまんできなくなり、退席してトイレに駆け込みました。
私は、このことにより職務命令違反とされて懲戒処分となり、再雇用の合格を取り消されてしまいました。
私が国歌斉唱時になぜ退席せざるを得なかったのか、その理由を説明します。
私の母方の祖父は、戦前、教員でしたが、「こんな無謀な戦争に勝つわけがない」と言いふらしたという理由で、12月8日の開戦から2ヶ月後、治安維持法違反で逮捕されました。そのとき、祖父の教え子数人も逮捕され、祖父は、拷問されている教え子たちの泣き声・うめき声を聞かされたそうです。
私は、その話を最初に聞いた時、まず恐怖感と共に言いようのない嫌悪を感じ、そして、将来に亘って、絶対にそんな経験はしたくないと思いました。
戦争中に、祖父と共に、このような苦しい体験をし、21才で終戦を迎えたた母は、戦後の教育に希望を託して、中学の英語の教師になりました。
母が戦後教育に託した希望は、「すべての国民が等しく教育を受け、すべての国民が高い知性を身につけるならば、為政者にだまされることもなくなり、日本に民主主義が根付き、日本の社会は豊かになって、再び戦争を起こすようなバカなことはしないだろう」というものでした。
母の思いを実現するためには、生徒が自分で考え行動できるカをつける教育、生徒の自主性を育てる教育を目指すべきだと、私は考えてきました。
私は、教員として、教科指導の中でも、また、生徒会の顧問等でも、どうすれば生徒の自主性は育つのか、暗中模索してきました。
ここでは、1995年の第四商業高校でのことをお話しします。
この年の生徒の卒業対策委員会では、ある生徒から「体育館を真っ暗にして、卒業生がそれぞれキャンドルを持って入場したい」という意見が出ました。しかし、生徒同士が自由に議論をしているうちに「ろうそくの火は危ないからやめた方がよい」となり、代わりに真っ暗な中をライトアップして入場したいという要望に変わりました。
また、舞台を使わずに、卒業生と在校生が対面するスタイルで行いたいとか、答辞は卒業生代表一人が行うのではなく、卒業生全員の「呼びかけ」形式で行いたいとか、卒業生が歌う歌は、生徒からアンケートを取って決めたい等いろいろな要望が出ました。主に、それらの意見は、生徒たちが小中学校で経験した卒業式の中で、自分が感動した場面を思い出しながら、出されてきた意見でした。
一方で、担任団の教員の多数意見は、生徒の意見をすべて受け入れて卒業式の形式を一変させるのは無理である、職員会議で合意を得ることはできないだろうというものでした。
私はこのとき、生徒の意見と教職員の意見の調整役でした。例年通りにやっていればあまりもめることはありませんが、新たな提案で意見を一致させるには相当な時間がかかります。しかし、それでも議論を重ねることこそが民主主義ではないでしょうか。問答無用で、一律に上から押付けるようなやり方では、生徒の能力を引き出すことはできません。
卒業式のやり方をあまり変えずにやりたいという教職員側の希望と、高校生活の最後に思い出深い感動的な卒業式を演出したいという生徒の要望の妥協点を探りながら、卒業式のかたちが決まっていきました。
最終的に次のような内容で、生徒と教員が合意に達しました。
まず、答辞は、8名の代表が舞台に出て、それぞれ役割分担して高校生活の思い出を語ることになりました。クラブでの思い出、体育祭の思い出、文化祭の思い出、修学旅行の思い出、友達との思い出、先生との思い出などを、代表生徒それぞれが原稿を書き、生徒の委員会の中で自主的に読み合わせて検討し、統む練習も行いました。
次に、合唱曲はアンケートの結果で「巣立ちの歌」と決まり、生徒がビアノ伴奏することになりました。卒業学年みんなで合唱の練習も行いました。合唱練習は嫌う生徒も相当数出るだろうと予想したのですが、生徒たちは、楽しそうで、笑顔がこぼれていました。
卒業対策委員の生徒たちは、頼みもしないのに、自分たちでプログラムの時間を配分し、感動の卒業式を企画演出しました。そして、当日も、卒業式をスムーズに進行させていきました。この年の卒業式は、私にとっても、とても思い出深い卒業式となりました。
しかし、「10・23通達」は、学校・生徒の自主性を全く認めません。そのことを表す次のような事件がありました。
「10・23通達」直下の2004年の卒業式を、私は志村高校で迎えました。その時、志村高校では生徒の不起立者が多かったとの報告が都教委に上がり、私は生徒会の顧問だったことから、「学習指導要領にそった教育課程調査」なるものを受けることになりました。他にも、卒業学年の担任と教頭と校長も調査されました。
都教委は校長に対して「調査に応じるように」との職務命令を出させ、私を強制的に調査に応じさせました。
その調査において、都教委の指導主事二人は、立会人を認めず、私を密室で詰問しました。また、指導主事は、調査の法的根拠を地教行法23条と地方公務員法32条だと言ったのみで、メモを取ることを禁止し、さらに所持していた法令のコピーを渡すことをも拒絶して、調査は一方的に行われました。
指導主事がマニュアルを見ながら行なった詰問の内容の中心は、「あなたは生徒会活動の指導に関わって『内心の自由』について説明しましたか」「生徒会活動の指導の中で『起立しなくても良い』という指導をしましたか」「起立するように指導しないのは、学習指導要領に反するとは思いませんか」というものでした。
他方で、「あなたが生徒に国歌斉唱するように指導したのに、生徒が国歌を斉唱しなければ、あなたは指導力不足ではないですか」と詰問された人もいることを、後になって私は知りました。
私は、都教委が、「生徒に国歌斉唱するように指導しなかった」と答えれば私の行為が「学習指導要領違反」とされ、「国歌斉唱するように指導した」と答えれば私の行為が「指導力不足教員」と指摘される仕組みとなっていることに非常に驚き憤慨しました。
都教委は、独立の人格を有するはずの生徒が自主的な判断で起立斉唱しない場合があることを一切認めず、「10・23通達」は生徒に対して起立斉唱を強制することを最終目的としていることがはっきりとしたからです。
そして、都教委が一方的強制的に学校教育のすべてを支配しようとしていると感じ、私は背筋がゾッとして、緊張と恐怖と怒りで足がガクガクしました。
私は、このような「10・23通達」を中心とした都教委による教育の不当な支配と、それによる生徒の自主性を尊重する教育の破壊に、危機感をいだきました。こんな状況になってしまった都立高校のなかで、卒業式において職務命令通りに、国歌斉唱することはできないという思いを強くしていきました。
そして、2006年9月21日東京地裁で「10・23通達」に基づく職務命令は重大かつ明白な瑕疵があるという判決が出ました。しかし、国歌斉唱時の不起立で職務命令違反とされると、再雇用の合格が取消されるということは前年度までの経過を見れば明らかでした。
『教職を続けたければ、何があろうと国旗に向かって起立し国歌を斉唱せよ』と胸元に刃物を突きつけられているような圧迫感を持ちながら、卒業式が近づくに連れ、私は精神的なストレスが増していきました。そして、どうしようもない苛立ちと共に、持病の膀胱炎が悪化し、頻尿に悩まされていきました。
私は、2008年の卒業式当日、このような心理的葛藤にさいなまれ、起立の号令を聞いてて起立した瞬間、言いようのない不快感と共に、尿意を我慢できなくなり、退席してトイレに駆け込んだのです。
私は、このような理由で退席せざるをえませんでした。しかし、トイレの後は、気持ちも落ち着き会場に戻りました。戻るとすぐに、卒業生の呼名が始まり、卒業生の顔をしっかり見ながら、呼名を行うことができました。卒業式の進行には、まったく支障を来すことはありませんでした。
しかし、私は職務命令違反で処分され、再雇用職員の合格を取り消されてしまいました。
裁判長におかれましては、このような都教委の不当な支配の実態を十分にご理解いただき、公正な判断を求める次第です。
◎ 最終目的は生徒に起立斉唱を強制することとはっきり分かった瞬間
原告 片山むぎほ
「報告集会」 《撮影:平田 泉》
私は、老人性うつ病と診断された母の介護のために勤務の軽減を願い、担任している生徒が卒業するのを機会に、2007年度末で勧奨退職して再雇用職員となることを希望しました。私は、その選考には合格し、2008年度からは都立飛鳥高校に行くことになっていました。
しかし、私は、2008年3月7日に行われた卒業式において、「開会の辞」で「皆様ご起立下さい」の号令を聞いて起立した瞬間、生理的嫌悪ともいうぺき感覚と共に、尿意をがまんできなくなり、退席してトイレに駆け込みました。
私は、このことにより職務命令違反とされて懲戒処分となり、再雇用の合格を取り消されてしまいました。
私が国歌斉唱時になぜ退席せざるを得なかったのか、その理由を説明します。
私の母方の祖父は、戦前、教員でしたが、「こんな無謀な戦争に勝つわけがない」と言いふらしたという理由で、12月8日の開戦から2ヶ月後、治安維持法違反で逮捕されました。そのとき、祖父の教え子数人も逮捕され、祖父は、拷問されている教え子たちの泣き声・うめき声を聞かされたそうです。
私は、その話を最初に聞いた時、まず恐怖感と共に言いようのない嫌悪を感じ、そして、将来に亘って、絶対にそんな経験はしたくないと思いました。
戦争中に、祖父と共に、このような苦しい体験をし、21才で終戦を迎えたた母は、戦後の教育に希望を託して、中学の英語の教師になりました。
母が戦後教育に託した希望は、「すべての国民が等しく教育を受け、すべての国民が高い知性を身につけるならば、為政者にだまされることもなくなり、日本に民主主義が根付き、日本の社会は豊かになって、再び戦争を起こすようなバカなことはしないだろう」というものでした。
母の思いを実現するためには、生徒が自分で考え行動できるカをつける教育、生徒の自主性を育てる教育を目指すべきだと、私は考えてきました。
私は、教員として、教科指導の中でも、また、生徒会の顧問等でも、どうすれば生徒の自主性は育つのか、暗中模索してきました。
ここでは、1995年の第四商業高校でのことをお話しします。
この年の生徒の卒業対策委員会では、ある生徒から「体育館を真っ暗にして、卒業生がそれぞれキャンドルを持って入場したい」という意見が出ました。しかし、生徒同士が自由に議論をしているうちに「ろうそくの火は危ないからやめた方がよい」となり、代わりに真っ暗な中をライトアップして入場したいという要望に変わりました。
また、舞台を使わずに、卒業生と在校生が対面するスタイルで行いたいとか、答辞は卒業生代表一人が行うのではなく、卒業生全員の「呼びかけ」形式で行いたいとか、卒業生が歌う歌は、生徒からアンケートを取って決めたい等いろいろな要望が出ました。主に、それらの意見は、生徒たちが小中学校で経験した卒業式の中で、自分が感動した場面を思い出しながら、出されてきた意見でした。
一方で、担任団の教員の多数意見は、生徒の意見をすべて受け入れて卒業式の形式を一変させるのは無理である、職員会議で合意を得ることはできないだろうというものでした。
私はこのとき、生徒の意見と教職員の意見の調整役でした。例年通りにやっていればあまりもめることはありませんが、新たな提案で意見を一致させるには相当な時間がかかります。しかし、それでも議論を重ねることこそが民主主義ではないでしょうか。問答無用で、一律に上から押付けるようなやり方では、生徒の能力を引き出すことはできません。
卒業式のやり方をあまり変えずにやりたいという教職員側の希望と、高校生活の最後に思い出深い感動的な卒業式を演出したいという生徒の要望の妥協点を探りながら、卒業式のかたちが決まっていきました。
最終的に次のような内容で、生徒と教員が合意に達しました。
まず、答辞は、8名の代表が舞台に出て、それぞれ役割分担して高校生活の思い出を語ることになりました。クラブでの思い出、体育祭の思い出、文化祭の思い出、修学旅行の思い出、友達との思い出、先生との思い出などを、代表生徒それぞれが原稿を書き、生徒の委員会の中で自主的に読み合わせて検討し、統む練習も行いました。
次に、合唱曲はアンケートの結果で「巣立ちの歌」と決まり、生徒がビアノ伴奏することになりました。卒業学年みんなで合唱の練習も行いました。合唱練習は嫌う生徒も相当数出るだろうと予想したのですが、生徒たちは、楽しそうで、笑顔がこぼれていました。
卒業対策委員の生徒たちは、頼みもしないのに、自分たちでプログラムの時間を配分し、感動の卒業式を企画演出しました。そして、当日も、卒業式をスムーズに進行させていきました。この年の卒業式は、私にとっても、とても思い出深い卒業式となりました。
しかし、「10・23通達」は、学校・生徒の自主性を全く認めません。そのことを表す次のような事件がありました。
「10・23通達」直下の2004年の卒業式を、私は志村高校で迎えました。その時、志村高校では生徒の不起立者が多かったとの報告が都教委に上がり、私は生徒会の顧問だったことから、「学習指導要領にそった教育課程調査」なるものを受けることになりました。他にも、卒業学年の担任と教頭と校長も調査されました。
都教委は校長に対して「調査に応じるように」との職務命令を出させ、私を強制的に調査に応じさせました。
その調査において、都教委の指導主事二人は、立会人を認めず、私を密室で詰問しました。また、指導主事は、調査の法的根拠を地教行法23条と地方公務員法32条だと言ったのみで、メモを取ることを禁止し、さらに所持していた法令のコピーを渡すことをも拒絶して、調査は一方的に行われました。
指導主事がマニュアルを見ながら行なった詰問の内容の中心は、「あなたは生徒会活動の指導に関わって『内心の自由』について説明しましたか」「生徒会活動の指導の中で『起立しなくても良い』という指導をしましたか」「起立するように指導しないのは、学習指導要領に反するとは思いませんか」というものでした。
他方で、「あなたが生徒に国歌斉唱するように指導したのに、生徒が国歌を斉唱しなければ、あなたは指導力不足ではないですか」と詰問された人もいることを、後になって私は知りました。
私は、都教委が、「生徒に国歌斉唱するように指導しなかった」と答えれば私の行為が「学習指導要領違反」とされ、「国歌斉唱するように指導した」と答えれば私の行為が「指導力不足教員」と指摘される仕組みとなっていることに非常に驚き憤慨しました。
都教委は、独立の人格を有するはずの生徒が自主的な判断で起立斉唱しない場合があることを一切認めず、「10・23通達」は生徒に対して起立斉唱を強制することを最終目的としていることがはっきりとしたからです。
そして、都教委が一方的強制的に学校教育のすべてを支配しようとしていると感じ、私は背筋がゾッとして、緊張と恐怖と怒りで足がガクガクしました。
私は、このような「10・23通達」を中心とした都教委による教育の不当な支配と、それによる生徒の自主性を尊重する教育の破壊に、危機感をいだきました。こんな状況になってしまった都立高校のなかで、卒業式において職務命令通りに、国歌斉唱することはできないという思いを強くしていきました。
そして、2006年9月21日東京地裁で「10・23通達」に基づく職務命令は重大かつ明白な瑕疵があるという判決が出ました。しかし、国歌斉唱時の不起立で職務命令違反とされると、再雇用の合格が取消されるということは前年度までの経過を見れば明らかでした。
『教職を続けたければ、何があろうと国旗に向かって起立し国歌を斉唱せよ』と胸元に刃物を突きつけられているような圧迫感を持ちながら、卒業式が近づくに連れ、私は精神的なストレスが増していきました。そして、どうしようもない苛立ちと共に、持病の膀胱炎が悪化し、頻尿に悩まされていきました。
私は、2008年の卒業式当日、このような心理的葛藤にさいなまれ、起立の号令を聞いてて起立した瞬間、言いようのない不快感と共に、尿意を我慢できなくなり、退席してトイレに駆け込んだのです。
私は、このような理由で退席せざるをえませんでした。しかし、トイレの後は、気持ちも落ち着き会場に戻りました。戻るとすぐに、卒業生の呼名が始まり、卒業生の顔をしっかり見ながら、呼名を行うことができました。卒業式の進行には、まったく支障を来すことはありませんでした。
しかし、私は職務命令違反で処分され、再雇用職員の合格を取り消されてしまいました。
裁判長におかれましては、このような都教委の不当な支配の実態を十分にご理解いただき、公正な判断を求める次第です。
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