松田です。
「君が代」不起立を理由とした戒告処分を受け、大阪市人事委員会へ取消を求める審査請求を行ってから3年以上の時間が経過しました。8月30日の第3回準備手続きで、公開審理の日程が決まります。
証人は大阪市の処分担当課長、校長、私の3人で、公開審理1回目が処分担当課長、2回目が校長と私です。注目ください。
公開審理に向けて、人事委員会に「陳述書(2)」を提出しました。
大阪市人事委員会御中
【Ⅰ.私の問題意識】
1.「君が代」は、天皇のために命を捨てることを美徳とする教育の重要な柱だったのに、その歴史を知らせないまま、国家に敬意を示すものとして児童・生徒に起立・斉唱を強制している実態がある。
今でも、式参加者全員による「君が代」起立・斉唱は、「国は敬意を払うべき存在」、さらに「従うべき存在」という意識を刷り込む役割を果たしている。たとえ、それが十分には意識されていなくても、「君が代」斉唱強制は学校教育のあり方、目的を規定する重要な柱となっている。
2.「君が代」起立・斉唱は「君が代」の歴史ゆえに「思想・良心の自由」にかかわる問題であり、基本的人権の保障を規定した日本国憲法の下で、問答無用で児童・生徒に強制することはできない。
卒業式・入学式の式次第に「君が代」斉唱を入れている学校(大阪市立のすべての学校)では、歌うことを求められる児童・生徒に対して、歌詞の意味の変遷や歴史を正確に伝え、起立・斉唱については判断を児童・生徒本人に任せること、一人ひとりが考えを深め互いの考えを尊重しようと呼びかけることが必要ではないか。否、それこそが学校が果たすべき責任ではないか。
3.大阪市国旗国歌条例と職務命令に従って起立・斉唱することは、自分の姿を通して、生徒に対して「起立・斉唱すべき」、「国は敬意を払うべき存在」であり「従うべき存在」であると教育することを意味し、また、私が常々考えてきた「教え子を再び戦場に送るような学校にはしない」「それに向かう動きには絶対に手を貸さない」という信念に反するので、従えない。
【Ⅱ.私がやったこと、及び、明らかになったこと】
(1)「君が代」斉唱にかかわる生徒説明をめぐって
1.2015年2月2日および2月5日、「日の丸」「君が代」の歴史と卒業式・入学式の中での扱いについて、生徒に説明する義務があることを主張し、私が作成した「卒業式・入学式の国旗・国歌について」という学習資料を学校で使用していいかどうかを大阪市教育委員会に聞いてほしいと学校長に依頼。
→校長からの直接の回答なし。
2.2月2日、大阪市教育長が、学校長に対して、教職員への「君が代」起立・斉唱職務命令発出を指示する通知(2015.1.23付)を出していたことを知り、2月16日、学校長に以下3点を質問。(甲12号証の5の1)
① 通知には、「しっかりと国歌が斉唱できるよう指導する」とありますが、どう指導するのですか。内容を教えてください。大阪市教委は、指導内容を示しているのですか。
② 卒業式に国歌斉唱が位置づけられ、起立・斉唱を求められている生徒には、当然、「君が代」がどんな意味の歌で、なぜ、卒業式に位置づけられているかということについて説明を受ける権利があります。その説明はいつ、どんな場で、どんな内容で行うのですか。その際、私は、別紙、「資料:卒業式・入学式の国旗・国歌について」を生徒に配布して説明すればいいと思っていますが、それについての見解を聞かせて下さい。
③ 道徳の教科化を巡って、結論を押しつけるのではなく、一人ひとりが考える過程が大切だという意見もあります。この通知は、文部科学省(国家権力)が出した学習指導要領(指示)と維新の会多数派の議会の中で決まった条例だけを根拠に、違反すれば処分だと脅して、教職員に起立・斉唱と大きな声で歌う指導を強制するものです。
教職員に考えることをやめることを求める通知であり、子どもたちにも考えることをやめ、言われたとおりにすることを求める教育を推奨しています。このような教育行政のあり方は、教育の本質的な営み、最も大事な点を壊すことになると考えるのですが、学校長の見解をお聞きしたいと思います。
→2月18日、学校長は、①③には答えず、②についてのみ「生徒の学習内容については学習指導要領にも位置付けられており、●●中学校の教育課程の問題として教育課程検討委員会等で検討し、具体化していきたい」と回答。
①③については、その後も答えずじまい。
3.教育課程検討委員会がなかなか設定されなかったので要請し、3月5日に設定された。メンバーではなかったが、「君が代」指導について提案している者として参加を要請し、オブザーバーとして出席。「国旗・国歌については、事実を伝えることを大切にする。」「具体化は3年生で。」が教育課程検討委員会の結論だった。
(校長は出張で不在。責任者教頭。生徒説明用資料の最後の「憲法・子どもの権利条約」については、極力トラブルを避けるという趣旨で、ふれないことにする。しかし、一人ひとりが自分の考えを深めていこうという呼びかける立場は変えない。)(生徒説明用資料の「憲法・子どもの権利条約」については、甲12号証の4の1を参照)
→3月10日、卒業式練習。最後の時間(5~6分)で、学年主任から「君が代」の歴史と卒業式での扱いについての説明。学級に帰ってから、学級担任より、「資料:卒業式・入学式の国旗・国歌について」(●●中学校用)を生徒配布。(「資料:卒業式・入学式の国旗・国歌について」(●●中学校用)については、乙7号証の資料6を参照)
4.3月16日の事情聴取の場で、「君が代」指導にかかわる私の考えを述べたところ、校長が報告し、対応のしかたを相談していた市教委の担当者奥野主任指導主事は、以下のように発言していた。
「質問は、教育委員会はこのペーパーをどう考えるかということですか。それは子どもに対しての指導に関しては教育課程ですから校長が主体性を持って、学校の指導としてやるということで、今回教育課程検討委員会をされましたね。そこで話しあわれて校長が最終判断して実施し、子どもにも指導されたんですよね。」「先ほどの話に関わるが、今回校長と話があって、学校での指導について子どもたちにもきちんと理解をさせるという方向で、指導していただくことになりました。」(甲第13号証)
しかしながら、大阪市教育委員会は、私の戒告処分(2015年5月13日)後、2015年3月卒業式に向けて●●中学校で生徒に配布した学習資料について、「全体のトーンが問題」として、今後の活用を禁じると学校長に指示した。
そのために、2016年3月の卒業式に向けて活用することができなかった。市教委自身が、2016年2月12日と3月3日に市民団体D-TaCと行った協議の中で、2015年3月卒業式に向けて●●中学校で生徒に配布した学習資料「卒業式・入学式の国旗・国歌について」が、国旗・国歌を尊重する態度を育てる観点において、「全体のトーンが適切でない」と判断して、学校長に活用しないよう指示したことを認めている。(甲第15号証の2と3)
5.大阪市教委は、学校・教職員に対して、児童・生徒が起立してきちんとした姿勢でしっかり「君が代」を斉唱するよう指導することを指示しているが、「君が代」についてどう説明するか示していないだけでなく、「君が代」の意味の変遷や歴史について事実を伝えることを、国旗・国歌を尊重する態度を育てる観点を優先して禁じた。
大阪市教委は、「君が代」斉唱にあたって、事実を伝えることを禁じ、国歌だからとにかく歌えと強制して、教育を「調教」に変えている。
(2)教職員への起立・斉唱強制をめぐって
1.「君が代」起立・斉唱を求める学校長の「説得」の経過・内容とそれに対する私の対応・主張、及び、卒業式での事実については、2017年10月31日付で大阪市人事委員会に提出した陳述書に詳述している。(甲第11号証P13~P19 第4 本件に至る具体的状況 5.「混乱」を理由とした学校長の「説得」・職務命令と2012年3月12日卒業式)
その中で、以下のように述べている。
『教職員に「君が代」起立斉唱を条例で義務付け、不起立が犯罪であるかのような異様な雰囲気を作ってきた当事者が、教育破壊という指摘には一切答えないまま、それによっておこることもすべて不起立者の責任にするという構図は許せないと感じたのである。私は、このような「混乱」を理由とする「不起立」批判に対しては、一貫して、上申書記載の経過2月16日付に記載の通り「いろんなことを思う人がいること自身が混乱ではない。式の枠を前提にし、その式に合わせることが子どものためとする論理は、思想・良心の自由を押さえつけるために使われており、認められない」と反論してきた。逆に、「君が代」を起立・斉唱したくないという現実を知ること自身が、生徒たちの現実認識を広げ、考える基盤をつくる上で大事なことだと考えている。』
2.私の「君が代」不起立で、「混乱」は、起きたのか。前述、2017.10.31付陳述書では、以下のように書いている。
『d.2015年3月12日中野中学校卒業式は実際にはどうだったか。以下、上申書の「卒業式当日の事実」より。
私の席は、3列の職員席の2列目、左から2番目の席で、教頭の後ろの席でした。開式後、司会の「起立」「一同礼」「国歌斉唱」のことばの後に着席し、「君が代」斉唱はしませんでした。「君が代」斉唱終了後起立し、校歌はいっしょに歌いました。その後、卒業証書授与時の担任クラス生徒の呼名をしました。卒業式は変わったことは何もなく無事終了し、その後の学級での卒業証書手渡し・最後の学級活動もいい雰囲気でできました。私の不起立を見た生徒や保護者がいるのかどうかわかりません。少なくとも卒業式当日(12日)中に、保護者・生徒からこの件で問い合わせ・抗議があった事実はありません。
e.大阪市教委は、弁明書(2)で、私の不起立が目立たぬよう、卒業式での6人の卒業学年担任の座席を2列にして、私を後ろの列の2番目にしたことを記し、それにもかかわらず、私の不起立を何人かの生徒が見ていたと記している。それに続けて、PTA、OB会の役員、会員から、私の不起立に対する非難の声があったとしているが、校長の教職員事故報告書にある通り、これらの人たちの声の前提となる、私の不起立に対する情報は、校長から伝えられたものである。また、同じく弁明書(2)に「平成27年夏ころ、同校のある卒業生らは、校長に会った際に請求者について言及し、『卒業したクラスでは噂でもちきりです。せっかくいい友達のいるクラスだったのに(残念です)』等と述べた」とある。その事実そのものの真偽も定かではないが、『卒業したクラスでは噂でもちきり』かどうかは別として、卒業生の間に流れた情報というのは、2015年5月13日に私が戒告処分を受けた際、記者会見を行い、それがユーチューブの映像としてアップされたことによって知った情報である。逆にいうと、3月の卒業式から5月まで、仮に私の不起立を見た生徒や保護者がいたとしてもまったく問題になっていなかったということである。「不起立」はたいへんな混乱を引き起こすというのは、まったくの脅しであったことが明らかとなったといえる。』
3.弁明書(2)で処分者(大阪市教育委員会)が、私の不起立を生徒が見たことを主張・立証しようとしていることは、市教委が、「教員の不起立を生徒が見ること」が、あるべき「教育」、教育目的の達成を阻害するものととらえていることを示している。大阪市と教育委員会が国旗国歌条例と職務命令によって教職員に「君が代」起立・斉唱を強制していることは、「国旗・国歌を敬愛すべき」、「国は敬意を払うべき存在」であり「従うべき存在」であると感得させる「調教」=刷り込みの目的を持って、式場内の全員が国旗に向かって起立し、ともに国歌を斉唱する状況を演出するためである。この強制は、教職員の人格破壊、教育の荒廃、児童・生徒の人権侵害につながるもので、違憲・違法である。2015年3月●●中学校卒業式での請求者の「君が代」不起立を生徒が見たかどうかは明らかでないが、式の進行や雰囲気に何ら影響しなかったことは明らかである。仮に、生徒が教職員の不起立を目撃したとしたら、「君が代」起立・斉唱をしない者がいるという現実の一端を知ったということであり、それは、国旗・国歌、「日の丸」「君が代」について、生徒が自分の考えを深めていく情報のひとつとなるものである。けっして教育を阻害するようなものではなく、生徒の教育にとってむしろ有意義なものであるとさえいえる。教職員への「君が代」起立・斉唱強制は、児童・生徒に対する教育の内容・あり方と一体であり、大阪市人事委員会には、その総体に対する判断を求めたい。
(3)処分の経過と不当性について
1.私は、処分対象者である私の権利・弁明の機会を主張し、上申書・上申書(2)を提出するとともに、処分にあたって大阪市教委が意見を聞かなければならないと職員基本条例に記載されている人事監察委員会教職員分限懲戒部会での口頭での弁明の機会を求めた。
しかし、人事監察委員会教職員分限懲戒部会は、私に連絡することなく4月17日に開催したとのことであるが、口頭での弁明の機会を求めていた私に対して結果の報告もなされなかった。
私がこの事実を知ったのは、5月13日の処分発令後におこなった個人情報開示請求によってであった。その部会で私の上申書・上申書(2)についてどう判断されたのかについては、議事録が存在しないとのことで、知ることができていない。
5月12日に開かれた教育委員会会議議事録では、井上教務部長が、「当該教諭が提出しました上申書には当該教諭の主張が記載されているが、処分にあたり斟酌する内容は含まれていない」と述べ、忍服務・監察担当課長が「4月17日開催の人事監察委員会教職員分限懲戒部会では、事務局が準備した資料等により当該教諭の主義主張については認知・理解されましたが、それについては懲戒処分の判断には影響しないので、直接会って話を聞く必要はないと判断されております」と述べているが、私が、上申書・上申書(2)に「君が代」起立・斉唱職務命令に従えない理由として記述していることに対してどう判断したのか、なぜ、それが懲戒処分の判断に影響しないのか、判断の根拠は不明のままである。人事監察委員会教職員分限懲戒部会において、直接に、「君が代」起立・斉唱強制のもたらす教育への悪影響と私が起立・斉唱できない理由を申し述べられなかったことは、まったく残念なことであった。
2. 大阪府の人事監察委員会教職員分限懲戒部会では会議議事録が作成されていて、公開請求すれば見ることができる。大阪市の人事監察委員会職員分限懲戒部会では会議の議事要旨が作成されているが、現在は非公開の扱いである。
ところが、大阪市人事監察委員会教職員分限懲戒部会だけが、会議の議事要旨を作成していない。2015年度、教職員分限懲戒部会18回のうち、実際に会議が行われたのは2回だけ、後の16回は「持ち回り」という個別に部会委員に同意を求める形であった。大阪市人事監察委員会教職員分限懲戒部会は、市教委事務局の処分原案をきちんと審議する機関としての実態がないといえる。
なお、私の処分について審議した人事監察委員会教職員分限懲戒部会の議事録がないことについては、市民からの審査請求を受けて、2018年3月5日に大阪市情報公開審査会から「議事録を作成していなかったことは誤り」との答申が出され、大阪市教委も誤りを認めている。
3. 重罰主義の大阪市職員基本条例の公正性を担保するために設置されているはずの人事監察委員会の、特に教職員分限懲戒部会が機能していないことは、重大問題であり、その主な原因は、大阪市教委事務局の姿勢にあると考える。私は、大阪市職員基本条例第43条第2項「職務上の命令を受けた職員は、当該職務上の命令が違法又は不当であると思料するに足る相当の理由がある場合は、相当の期間内に当該職務上の命令を発した職員又はその上司に対し、意見を申し出ることができる」の規定を根拠に、2016年1月29日付大阪市教育長通知に基づく●●中学校長の「君が代」起立・斉唱職務命令の取り消しを求める申出を、2016年2月22日付で大阪市立●●中学校校長●●●●様及び大阪市教育委員会教育委員長 大森不二雄様宛で提出した。
その後の経過は2017.10.31付陳述書に詳述しているが、申出に対してどう判断し、どう結論づけたのか記録すら存在しない実態である。大阪市職員基本条例第43条第2項の規定は、まったくの空文であることが明らかになった。
4.教職員への「君が代」起立・斉唱強制は、児童・生徒に対する教育の内容・あり方と一体であって、それがまったく不当、違憲・違法であると訴えた私の上申書・上申書(2)については、大阪市人事委員会教職員分限懲戒部会をはじめ、どこでも、内容的な検討・判断がなされていない。
職務命令の根拠としてある大阪市国旗国歌条例は、憲法違反の児童・生徒へ一方的な観念を植えつける教育を強制し、教職員としての「思想・良心の自由」を否定する憲法違反の条例であり、処分の根拠となっている大阪市職員基本条例は、処分の公正さを確保する重要な位置づけをもって条例に書かれている人事監察委員会の議事録が存在しないとか、異議申立権を規定した条項の実施が想定されていないなど、欠陥条例であることが明らかになった。
大阪市国旗国歌条例と大阪市職員基本条例は、一体となって、児童・生徒へ一方的な観念を植えつける教育を強制している。
大阪市人事委員会には、私の「君が代」不起立処分の是非を判断する際、条例と職務命令による教職員の強制がもたらしている教育についての評価・判断、及び、大阪市国旗国歌条例と大阪市職員基本条例に対する評価・判断についても求めたい。
【Ⅲ.私にとっての「君が代」起立・斉唱の意味】
(1)「君が代」とは何か?歴史的事実
1.2017.10.31付陳述書では、教育史学会理事会の声明を引用して、「戦前の学校儀式~教育勅語と「君が代」~」について以下の事実を述べている。
『教育勅語は、発布と同時に謄本が全国の学校に一律に下付され、天皇制国家の臣民教育において大きな役割を果たした。とりわけ教育勅語の理念普及に果たした学校儀式の役割を見逃すことはできない。1900年小学校令施行規則により定型化された、戦前の三大節(紀元節・天長節・一月一日、1927年より明治節が加えられて四大節)学校儀式は、教育勅語「奉読」に、御真影(天皇・皇后の写真)への「拝礼」、「君が代」斉唱、教育勅語の趣旨に関する校長訓話、式歌斉唱を加え、全国で一律に挙行された。この儀式内容は、入学式・卒業式など他の学校儀式の式目にも影響を与え、教育勅語「奉読」と「君が代」斉唱は、入学式・卒業式などでの必須の式目になった。』
また、同じく、教育史学会理事会の声明は、当時「修身」の教科書に載せられた「君が代」の意味について以下の事実を述べている。
『「君が代」(初等科修身 二)「君が代は ちよにやちよに さざれ石の いはほとなりて こけのむすまで」
この歌は、「天皇陛下のお治めになる御代は、千年も萬年もつづいて、おさかえになりますやうに。」という意味で、國民が、心からおいはひ申しあげる歌であります。「君が代」の歌は、昔から、私たちの先祖が、皇室のみさかえをおいのりして、歌ひつづけて来たもので、世々の國民のまごころのとけこんだ歌であります。祝日や、おめでたい儀式には、私たちは、この歌を聲高く歌ひます。しせいをきちんと正しくして、おごそかに歌ふと、身も心も、ひきしまるやうな氣持ちになります。戦地で、兵隊さんたちが、はるかに日本へ向かって、聲をそろへて、「君が代」を歌ふ時には、思はず、涙が日にやけたほほをぬらすといふことです。また、外國で、「君が代」の歌が奏されることがあります。その時ぐらゐ日本人が、日本國民としてのほこりと、かぎりない喜びとを感じることはないといひます。』
「君が代」は、教育勅語とともに、「戦前日本の教育を天皇による国民(臣民)支配の主たる手段とした」のであり、天皇のために命を捨てる教育の重要な要素であったことは明らかである。
2.戦前・戦中の社会とはどんなものであったか。「ボレロが聴きたい―戦争出前噺―(本多立太郎著 耕文社)」という本がある。
召集令状(赤紙)が来たとの知らせを受けて別れを言いに行ったとき、好きだった娘さんが「おめでとう」と言ったことが書かれている。本当は、兵隊に行ってほしくないのに「おめでとう」といわざるをえない社会、他人の目には本音を絶対に見せられない、建前と本音が画然と別れていた非人間的な社会、それが、戦前・戦中の社会であった。
そんな社会はどのようにしてつくられたのか。その1つの重要な要素として、天皇のために命を捨てることを美徳とする、教育勅語と「君が代」を重要な柱とした学校教育があったことは疑いない。
(2)「君が代」起立・斉唱ができない理由
私が教員として大切にしようとしてきたことについては、2017.10.31陳述書に詳述している。その中で、「使い捨てられ、人間としての誇りが持てない状況に置かれる多くの生徒たちとともに生きる教員でありたい。一人一人の生徒が社会の真実に目を開き、自分自身の価値観を確立し、誇りを取り戻していく過程、自分の願いを実現するための手段としての知識・学力を手にしていく過程に助力できる教員でありたい。」と思ってきたこと、そして、「自分の保身のために、他の誰かに犠牲を強いることはしない」を行動原理にしようとしてきたことを述べている。
「君が代」起立・斉唱職務命令に従うことは、自分の保身を優先して、生徒たちに、「君が代」の歴史・姿を隠したまま、「君が代」を敬愛し、国に従へとする教育に手を貸すことを意味する。それは、厳しい生活条件の下に置かれた子どもたちとともに生きる側にいたいと考え、努力してきた教員生活の中で、私が行動原理としたいと思ってきた「自分の保身のために、他の誰かに犠牲を強いることはしない」にまったく反することだった。
また、子どもたちを侵略戦争に動員した戦前の教育に対する反省を捨て去ることを意味することでもあった。そして、数は少なくても必ず存在する、「君が代」の歴史から「君が代」斉唱が嫌だと思っている生徒を更に厳しい状況に追い込む役割を担うことになる。それはできないという思いからの不起立・不斉唱であった。
以上の私の考えは、戦争の歴史と戦後の学校教育、特に大阪市の学校教育の歴史、多くの諸先輩の努力の中で培われたものである。
「君が代」の歴史から、「君が代」斉唱が、「思想・良心の自由」に関わるのと同様に、私の考え方、私の存在自身が歴史的必然である。
大阪市国旗国歌条例と大阪市職員基本条例を根拠とした「君が代」不起立処分は、私のような教員を教育現場から排除することを意図したものであり、戦争のための教育支配を完成させる動きだと感じている。
戦争に向けた国づくりが強権によって進められている今日、日本社会に生きるすべての者が問われているのではないか。日本国憲法に規定された、個人の尊重・基本的人権の保障の原則の侵害を許さない意味でも、「君が代」不起立を罰することは、違憲・違法であるとの判断をいただきたい。
「君が代」不起立を理由とした戒告処分を受け、大阪市人事委員会へ取消を求める審査請求を行ってから3年以上の時間が経過しました。8月30日の第3回準備手続きで、公開審理の日程が決まります。
証人は大阪市の処分担当課長、校長、私の3人で、公開審理1回目が処分担当課長、2回目が校長と私です。注目ください。
公開審理に向けて、人事委員会に「陳述書(2)」を提出しました。
陳 述 書 (2)
大阪市人事委員会御中
2018年8月22日
氏名 松田 幹雄 印
氏名 松田 幹雄 印
【Ⅰ.私の問題意識】
1.「君が代」は、天皇のために命を捨てることを美徳とする教育の重要な柱だったのに、その歴史を知らせないまま、国家に敬意を示すものとして児童・生徒に起立・斉唱を強制している実態がある。
今でも、式参加者全員による「君が代」起立・斉唱は、「国は敬意を払うべき存在」、さらに「従うべき存在」という意識を刷り込む役割を果たしている。たとえ、それが十分には意識されていなくても、「君が代」斉唱強制は学校教育のあり方、目的を規定する重要な柱となっている。
2.「君が代」起立・斉唱は「君が代」の歴史ゆえに「思想・良心の自由」にかかわる問題であり、基本的人権の保障を規定した日本国憲法の下で、問答無用で児童・生徒に強制することはできない。
卒業式・入学式の式次第に「君が代」斉唱を入れている学校(大阪市立のすべての学校)では、歌うことを求められる児童・生徒に対して、歌詞の意味の変遷や歴史を正確に伝え、起立・斉唱については判断を児童・生徒本人に任せること、一人ひとりが考えを深め互いの考えを尊重しようと呼びかけることが必要ではないか。否、それこそが学校が果たすべき責任ではないか。
3.大阪市国旗国歌条例と職務命令に従って起立・斉唱することは、自分の姿を通して、生徒に対して「起立・斉唱すべき」、「国は敬意を払うべき存在」であり「従うべき存在」であると教育することを意味し、また、私が常々考えてきた「教え子を再び戦場に送るような学校にはしない」「それに向かう動きには絶対に手を貸さない」という信念に反するので、従えない。
【Ⅱ.私がやったこと、及び、明らかになったこと】
(1)「君が代」斉唱にかかわる生徒説明をめぐって
1.2015年2月2日および2月5日、「日の丸」「君が代」の歴史と卒業式・入学式の中での扱いについて、生徒に説明する義務があることを主張し、私が作成した「卒業式・入学式の国旗・国歌について」という学習資料を学校で使用していいかどうかを大阪市教育委員会に聞いてほしいと学校長に依頼。
→校長からの直接の回答なし。
2.2月2日、大阪市教育長が、学校長に対して、教職員への「君が代」起立・斉唱職務命令発出を指示する通知(2015.1.23付)を出していたことを知り、2月16日、学校長に以下3点を質問。(甲12号証の5の1)
① 通知には、「しっかりと国歌が斉唱できるよう指導する」とありますが、どう指導するのですか。内容を教えてください。大阪市教委は、指導内容を示しているのですか。
② 卒業式に国歌斉唱が位置づけられ、起立・斉唱を求められている生徒には、当然、「君が代」がどんな意味の歌で、なぜ、卒業式に位置づけられているかということについて説明を受ける権利があります。その説明はいつ、どんな場で、どんな内容で行うのですか。その際、私は、別紙、「資料:卒業式・入学式の国旗・国歌について」を生徒に配布して説明すればいいと思っていますが、それについての見解を聞かせて下さい。
③ 道徳の教科化を巡って、結論を押しつけるのではなく、一人ひとりが考える過程が大切だという意見もあります。この通知は、文部科学省(国家権力)が出した学習指導要領(指示)と維新の会多数派の議会の中で決まった条例だけを根拠に、違反すれば処分だと脅して、教職員に起立・斉唱と大きな声で歌う指導を強制するものです。
教職員に考えることをやめることを求める通知であり、子どもたちにも考えることをやめ、言われたとおりにすることを求める教育を推奨しています。このような教育行政のあり方は、教育の本質的な営み、最も大事な点を壊すことになると考えるのですが、学校長の見解をお聞きしたいと思います。
→2月18日、学校長は、①③には答えず、②についてのみ「生徒の学習内容については学習指導要領にも位置付けられており、●●中学校の教育課程の問題として教育課程検討委員会等で検討し、具体化していきたい」と回答。
①③については、その後も答えずじまい。
3.教育課程検討委員会がなかなか設定されなかったので要請し、3月5日に設定された。メンバーではなかったが、「君が代」指導について提案している者として参加を要請し、オブザーバーとして出席。「国旗・国歌については、事実を伝えることを大切にする。」「具体化は3年生で。」が教育課程検討委員会の結論だった。
(校長は出張で不在。責任者教頭。生徒説明用資料の最後の「憲法・子どもの権利条約」については、極力トラブルを避けるという趣旨で、ふれないことにする。しかし、一人ひとりが自分の考えを深めていこうという呼びかける立場は変えない。)(生徒説明用資料の「憲法・子どもの権利条約」については、甲12号証の4の1を参照)
→3月10日、卒業式練習。最後の時間(5~6分)で、学年主任から「君が代」の歴史と卒業式での扱いについての説明。学級に帰ってから、学級担任より、「資料:卒業式・入学式の国旗・国歌について」(●●中学校用)を生徒配布。(「資料:卒業式・入学式の国旗・国歌について」(●●中学校用)については、乙7号証の資料6を参照)
4.3月16日の事情聴取の場で、「君が代」指導にかかわる私の考えを述べたところ、校長が報告し、対応のしかたを相談していた市教委の担当者奥野主任指導主事は、以下のように発言していた。
「質問は、教育委員会はこのペーパーをどう考えるかということですか。それは子どもに対しての指導に関しては教育課程ですから校長が主体性を持って、学校の指導としてやるということで、今回教育課程検討委員会をされましたね。そこで話しあわれて校長が最終判断して実施し、子どもにも指導されたんですよね。」「先ほどの話に関わるが、今回校長と話があって、学校での指導について子どもたちにもきちんと理解をさせるという方向で、指導していただくことになりました。」(甲第13号証)
しかしながら、大阪市教育委員会は、私の戒告処分(2015年5月13日)後、2015年3月卒業式に向けて●●中学校で生徒に配布した学習資料について、「全体のトーンが問題」として、今後の活用を禁じると学校長に指示した。
そのために、2016年3月の卒業式に向けて活用することができなかった。市教委自身が、2016年2月12日と3月3日に市民団体D-TaCと行った協議の中で、2015年3月卒業式に向けて●●中学校で生徒に配布した学習資料「卒業式・入学式の国旗・国歌について」が、国旗・国歌を尊重する態度を育てる観点において、「全体のトーンが適切でない」と判断して、学校長に活用しないよう指示したことを認めている。(甲第15号証の2と3)
5.大阪市教委は、学校・教職員に対して、児童・生徒が起立してきちんとした姿勢でしっかり「君が代」を斉唱するよう指導することを指示しているが、「君が代」についてどう説明するか示していないだけでなく、「君が代」の意味の変遷や歴史について事実を伝えることを、国旗・国歌を尊重する態度を育てる観点を優先して禁じた。
大阪市教委は、「君が代」斉唱にあたって、事実を伝えることを禁じ、国歌だからとにかく歌えと強制して、教育を「調教」に変えている。
(2)教職員への起立・斉唱強制をめぐって
1.「君が代」起立・斉唱を求める学校長の「説得」の経過・内容とそれに対する私の対応・主張、及び、卒業式での事実については、2017年10月31日付で大阪市人事委員会に提出した陳述書に詳述している。(甲第11号証P13~P19 第4 本件に至る具体的状況 5.「混乱」を理由とした学校長の「説得」・職務命令と2012年3月12日卒業式)
その中で、以下のように述べている。
『教職員に「君が代」起立斉唱を条例で義務付け、不起立が犯罪であるかのような異様な雰囲気を作ってきた当事者が、教育破壊という指摘には一切答えないまま、それによっておこることもすべて不起立者の責任にするという構図は許せないと感じたのである。私は、このような「混乱」を理由とする「不起立」批判に対しては、一貫して、上申書記載の経過2月16日付に記載の通り「いろんなことを思う人がいること自身が混乱ではない。式の枠を前提にし、その式に合わせることが子どものためとする論理は、思想・良心の自由を押さえつけるために使われており、認められない」と反論してきた。逆に、「君が代」を起立・斉唱したくないという現実を知ること自身が、生徒たちの現実認識を広げ、考える基盤をつくる上で大事なことだと考えている。』
2.私の「君が代」不起立で、「混乱」は、起きたのか。前述、2017.10.31付陳述書では、以下のように書いている。
『d.2015年3月12日中野中学校卒業式は実際にはどうだったか。以下、上申書の「卒業式当日の事実」より。
私の席は、3列の職員席の2列目、左から2番目の席で、教頭の後ろの席でした。開式後、司会の「起立」「一同礼」「国歌斉唱」のことばの後に着席し、「君が代」斉唱はしませんでした。「君が代」斉唱終了後起立し、校歌はいっしょに歌いました。その後、卒業証書授与時の担任クラス生徒の呼名をしました。卒業式は変わったことは何もなく無事終了し、その後の学級での卒業証書手渡し・最後の学級活動もいい雰囲気でできました。私の不起立を見た生徒や保護者がいるのかどうかわかりません。少なくとも卒業式当日(12日)中に、保護者・生徒からこの件で問い合わせ・抗議があった事実はありません。
e.大阪市教委は、弁明書(2)で、私の不起立が目立たぬよう、卒業式での6人の卒業学年担任の座席を2列にして、私を後ろの列の2番目にしたことを記し、それにもかかわらず、私の不起立を何人かの生徒が見ていたと記している。それに続けて、PTA、OB会の役員、会員から、私の不起立に対する非難の声があったとしているが、校長の教職員事故報告書にある通り、これらの人たちの声の前提となる、私の不起立に対する情報は、校長から伝えられたものである。また、同じく弁明書(2)に「平成27年夏ころ、同校のある卒業生らは、校長に会った際に請求者について言及し、『卒業したクラスでは噂でもちきりです。せっかくいい友達のいるクラスだったのに(残念です)』等と述べた」とある。その事実そのものの真偽も定かではないが、『卒業したクラスでは噂でもちきり』かどうかは別として、卒業生の間に流れた情報というのは、2015年5月13日に私が戒告処分を受けた際、記者会見を行い、それがユーチューブの映像としてアップされたことによって知った情報である。逆にいうと、3月の卒業式から5月まで、仮に私の不起立を見た生徒や保護者がいたとしてもまったく問題になっていなかったということである。「不起立」はたいへんな混乱を引き起こすというのは、まったくの脅しであったことが明らかとなったといえる。』
3.弁明書(2)で処分者(大阪市教育委員会)が、私の不起立を生徒が見たことを主張・立証しようとしていることは、市教委が、「教員の不起立を生徒が見ること」が、あるべき「教育」、教育目的の達成を阻害するものととらえていることを示している。大阪市と教育委員会が国旗国歌条例と職務命令によって教職員に「君が代」起立・斉唱を強制していることは、「国旗・国歌を敬愛すべき」、「国は敬意を払うべき存在」であり「従うべき存在」であると感得させる「調教」=刷り込みの目的を持って、式場内の全員が国旗に向かって起立し、ともに国歌を斉唱する状況を演出するためである。この強制は、教職員の人格破壊、教育の荒廃、児童・生徒の人権侵害につながるもので、違憲・違法である。2015年3月●●中学校卒業式での請求者の「君が代」不起立を生徒が見たかどうかは明らかでないが、式の進行や雰囲気に何ら影響しなかったことは明らかである。仮に、生徒が教職員の不起立を目撃したとしたら、「君が代」起立・斉唱をしない者がいるという現実の一端を知ったということであり、それは、国旗・国歌、「日の丸」「君が代」について、生徒が自分の考えを深めていく情報のひとつとなるものである。けっして教育を阻害するようなものではなく、生徒の教育にとってむしろ有意義なものであるとさえいえる。教職員への「君が代」起立・斉唱強制は、児童・生徒に対する教育の内容・あり方と一体であり、大阪市人事委員会には、その総体に対する判断を求めたい。
(3)処分の経過と不当性について
1.私は、処分対象者である私の権利・弁明の機会を主張し、上申書・上申書(2)を提出するとともに、処分にあたって大阪市教委が意見を聞かなければならないと職員基本条例に記載されている人事監察委員会教職員分限懲戒部会での口頭での弁明の機会を求めた。
しかし、人事監察委員会教職員分限懲戒部会は、私に連絡することなく4月17日に開催したとのことであるが、口頭での弁明の機会を求めていた私に対して結果の報告もなされなかった。
私がこの事実を知ったのは、5月13日の処分発令後におこなった個人情報開示請求によってであった。その部会で私の上申書・上申書(2)についてどう判断されたのかについては、議事録が存在しないとのことで、知ることができていない。
5月12日に開かれた教育委員会会議議事録では、井上教務部長が、「当該教諭が提出しました上申書には当該教諭の主張が記載されているが、処分にあたり斟酌する内容は含まれていない」と述べ、忍服務・監察担当課長が「4月17日開催の人事監察委員会教職員分限懲戒部会では、事務局が準備した資料等により当該教諭の主義主張については認知・理解されましたが、それについては懲戒処分の判断には影響しないので、直接会って話を聞く必要はないと判断されております」と述べているが、私が、上申書・上申書(2)に「君が代」起立・斉唱職務命令に従えない理由として記述していることに対してどう判断したのか、なぜ、それが懲戒処分の判断に影響しないのか、判断の根拠は不明のままである。人事監察委員会教職員分限懲戒部会において、直接に、「君が代」起立・斉唱強制のもたらす教育への悪影響と私が起立・斉唱できない理由を申し述べられなかったことは、まったく残念なことであった。
2. 大阪府の人事監察委員会教職員分限懲戒部会では会議議事録が作成されていて、公開請求すれば見ることができる。大阪市の人事監察委員会職員分限懲戒部会では会議の議事要旨が作成されているが、現在は非公開の扱いである。
ところが、大阪市人事監察委員会教職員分限懲戒部会だけが、会議の議事要旨を作成していない。2015年度、教職員分限懲戒部会18回のうち、実際に会議が行われたのは2回だけ、後の16回は「持ち回り」という個別に部会委員に同意を求める形であった。大阪市人事監察委員会教職員分限懲戒部会は、市教委事務局の処分原案をきちんと審議する機関としての実態がないといえる。
なお、私の処分について審議した人事監察委員会教職員分限懲戒部会の議事録がないことについては、市民からの審査請求を受けて、2018年3月5日に大阪市情報公開審査会から「議事録を作成していなかったことは誤り」との答申が出され、大阪市教委も誤りを認めている。
3. 重罰主義の大阪市職員基本条例の公正性を担保するために設置されているはずの人事監察委員会の、特に教職員分限懲戒部会が機能していないことは、重大問題であり、その主な原因は、大阪市教委事務局の姿勢にあると考える。私は、大阪市職員基本条例第43条第2項「職務上の命令を受けた職員は、当該職務上の命令が違法又は不当であると思料するに足る相当の理由がある場合は、相当の期間内に当該職務上の命令を発した職員又はその上司に対し、意見を申し出ることができる」の規定を根拠に、2016年1月29日付大阪市教育長通知に基づく●●中学校長の「君が代」起立・斉唱職務命令の取り消しを求める申出を、2016年2月22日付で大阪市立●●中学校校長●●●●様及び大阪市教育委員会教育委員長 大森不二雄様宛で提出した。
その後の経過は2017.10.31付陳述書に詳述しているが、申出に対してどう判断し、どう結論づけたのか記録すら存在しない実態である。大阪市職員基本条例第43条第2項の規定は、まったくの空文であることが明らかになった。
4.教職員への「君が代」起立・斉唱強制は、児童・生徒に対する教育の内容・あり方と一体であって、それがまったく不当、違憲・違法であると訴えた私の上申書・上申書(2)については、大阪市人事委員会教職員分限懲戒部会をはじめ、どこでも、内容的な検討・判断がなされていない。
職務命令の根拠としてある大阪市国旗国歌条例は、憲法違反の児童・生徒へ一方的な観念を植えつける教育を強制し、教職員としての「思想・良心の自由」を否定する憲法違反の条例であり、処分の根拠となっている大阪市職員基本条例は、処分の公正さを確保する重要な位置づけをもって条例に書かれている人事監察委員会の議事録が存在しないとか、異議申立権を規定した条項の実施が想定されていないなど、欠陥条例であることが明らかになった。
大阪市国旗国歌条例と大阪市職員基本条例は、一体となって、児童・生徒へ一方的な観念を植えつける教育を強制している。
大阪市人事委員会には、私の「君が代」不起立処分の是非を判断する際、条例と職務命令による教職員の強制がもたらしている教育についての評価・判断、及び、大阪市国旗国歌条例と大阪市職員基本条例に対する評価・判断についても求めたい。
【Ⅲ.私にとっての「君が代」起立・斉唱の意味】
(1)「君が代」とは何か?歴史的事実
1.2017.10.31付陳述書では、教育史学会理事会の声明を引用して、「戦前の学校儀式~教育勅語と「君が代」~」について以下の事実を述べている。
『教育勅語は、発布と同時に謄本が全国の学校に一律に下付され、天皇制国家の臣民教育において大きな役割を果たした。とりわけ教育勅語の理念普及に果たした学校儀式の役割を見逃すことはできない。1900年小学校令施行規則により定型化された、戦前の三大節(紀元節・天長節・一月一日、1927年より明治節が加えられて四大節)学校儀式は、教育勅語「奉読」に、御真影(天皇・皇后の写真)への「拝礼」、「君が代」斉唱、教育勅語の趣旨に関する校長訓話、式歌斉唱を加え、全国で一律に挙行された。この儀式内容は、入学式・卒業式など他の学校儀式の式目にも影響を与え、教育勅語「奉読」と「君が代」斉唱は、入学式・卒業式などでの必須の式目になった。』
また、同じく、教育史学会理事会の声明は、当時「修身」の教科書に載せられた「君が代」の意味について以下の事実を述べている。
『「君が代」(初等科修身 二)「君が代は ちよにやちよに さざれ石の いはほとなりて こけのむすまで」
この歌は、「天皇陛下のお治めになる御代は、千年も萬年もつづいて、おさかえになりますやうに。」という意味で、國民が、心からおいはひ申しあげる歌であります。「君が代」の歌は、昔から、私たちの先祖が、皇室のみさかえをおいのりして、歌ひつづけて来たもので、世々の國民のまごころのとけこんだ歌であります。祝日や、おめでたい儀式には、私たちは、この歌を聲高く歌ひます。しせいをきちんと正しくして、おごそかに歌ふと、身も心も、ひきしまるやうな氣持ちになります。戦地で、兵隊さんたちが、はるかに日本へ向かって、聲をそろへて、「君が代」を歌ふ時には、思はず、涙が日にやけたほほをぬらすといふことです。また、外國で、「君が代」の歌が奏されることがあります。その時ぐらゐ日本人が、日本國民としてのほこりと、かぎりない喜びとを感じることはないといひます。』
「君が代」は、教育勅語とともに、「戦前日本の教育を天皇による国民(臣民)支配の主たる手段とした」のであり、天皇のために命を捨てる教育の重要な要素であったことは明らかである。
2.戦前・戦中の社会とはどんなものであったか。「ボレロが聴きたい―戦争出前噺―(本多立太郎著 耕文社)」という本がある。
召集令状(赤紙)が来たとの知らせを受けて別れを言いに行ったとき、好きだった娘さんが「おめでとう」と言ったことが書かれている。本当は、兵隊に行ってほしくないのに「おめでとう」といわざるをえない社会、他人の目には本音を絶対に見せられない、建前と本音が画然と別れていた非人間的な社会、それが、戦前・戦中の社会であった。
そんな社会はどのようにしてつくられたのか。その1つの重要な要素として、天皇のために命を捨てることを美徳とする、教育勅語と「君が代」を重要な柱とした学校教育があったことは疑いない。
(2)「君が代」起立・斉唱ができない理由
私が教員として大切にしようとしてきたことについては、2017.10.31陳述書に詳述している。その中で、「使い捨てられ、人間としての誇りが持てない状況に置かれる多くの生徒たちとともに生きる教員でありたい。一人一人の生徒が社会の真実に目を開き、自分自身の価値観を確立し、誇りを取り戻していく過程、自分の願いを実現するための手段としての知識・学力を手にしていく過程に助力できる教員でありたい。」と思ってきたこと、そして、「自分の保身のために、他の誰かに犠牲を強いることはしない」を行動原理にしようとしてきたことを述べている。
「君が代」起立・斉唱職務命令に従うことは、自分の保身を優先して、生徒たちに、「君が代」の歴史・姿を隠したまま、「君が代」を敬愛し、国に従へとする教育に手を貸すことを意味する。それは、厳しい生活条件の下に置かれた子どもたちとともに生きる側にいたいと考え、努力してきた教員生活の中で、私が行動原理としたいと思ってきた「自分の保身のために、他の誰かに犠牲を強いることはしない」にまったく反することだった。
また、子どもたちを侵略戦争に動員した戦前の教育に対する反省を捨て去ることを意味することでもあった。そして、数は少なくても必ず存在する、「君が代」の歴史から「君が代」斉唱が嫌だと思っている生徒を更に厳しい状況に追い込む役割を担うことになる。それはできないという思いからの不起立・不斉唱であった。
以上の私の考えは、戦争の歴史と戦後の学校教育、特に大阪市の学校教育の歴史、多くの諸先輩の努力の中で培われたものである。
「君が代」の歴史から、「君が代」斉唱が、「思想・良心の自由」に関わるのと同様に、私の考え方、私の存在自身が歴史的必然である。
大阪市国旗国歌条例と大阪市職員基本条例を根拠とした「君が代」不起立処分は、私のような教員を教育現場から排除することを意図したものであり、戦争のための教育支配を完成させる動きだと感じている。
戦争に向けた国づくりが強権によって進められている今日、日本社会に生きるすべての者が問われているのではないか。日本国憲法に規定された、個人の尊重・基本的人権の保障の原則の侵害を許さない意味でも、「君が代」不起立を罰することは、違憲・違法であるとの判断をいただきたい。
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