☆★☆ 「君が代」強制反対に刑事罰!? ☆★☆
◇ 結審 3月13日(木)13:30~東京高裁102号法廷
最終弁論(弁護側、検察側とも60分)があり、結審します。
「十勝岳連峰」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
◎ 都立高校の変質と藤田裁判
私が板橋高校に赴任した10年ほど前には、まだ都立高校の中に自由な雰囲気が残っていた。藤田さんが分会長をしていたこともあって、板橋の職員会議は皆が様々に自由な発言をし、都教委の管理的な動きには組合が結束して校長交渉等も持ち、管理職に勝手なことをさせない空気が浸透していた。
勿論、石原知事によって都教委がタカ派色に移行するにつれ、君が代斉唱を始めとして様々な縛りが現場に降りてきていたことも事実だ。しかし、今振り返ってみると、やはり決定的であったのは、2003年10月の例の通達であったと思う。あの通達を1つの境として、都教委の学校現場に対する管理強化は一層矢継ぎ早にそして有無を言わさぬ圧力を持ってきたと認識している。
例えば、授業日数確保(土曜日が週休日となったため)という名目で、それまで授業のなかった期末考査後に授業が入り、最初は2・3時間(しかも短縮)であったものが現在では6時間平常授業になっている学校が多数だという(現在私の勤めている職場では4時間と6時間の併用)。この時期担任は、自教科の採点、授業、そして自らのクラスの集計作業と息もつけぬほどの忙しさとなっている。
主幹という中間管理職も設けられ、校長・副校長・主幹・平教諭というピラミッドのもと、企画調整会議による上意下達の学校運営が行われるようになった。職員会議は採決権さえ奪われ、企画の伝達・報告で十分という位置づけにされている。しかし、勿論現場はこんなやり方で上手くいくはずはなく、管理職の思惑とは裏腹に、企画の意思疎通の不十分さ、いい加減さが露呈し、職員会議で皆から苦情・不満が噴出する始末である。
今あげた事柄はそうした管理強化のほんの一例に過ぎない。ほんの10年もたたぬうちに、今までとは全く違う都立高校に変えられつつある。
こうした現状を鑑みると、やはり2003年の通達とその後に起きた様々な事件や裁判(その象徴として藤田裁判もあると思うのだが)は、都教委がまさしくこうした体制に突き進み、それに楯突く者を許さないという姿勢を示していることに他ならないと思う。
藤田さんは長年都立高校に勤務され、生徒達を愛し、また自由な都立高校の教育環境を愛されてきた。退職されていたとはいえ、おそらく彼はあの通達が持つ意味、重みを察知し、自分なりのやり方で、あの時作られようとしていた流れに抵抗しようとしていたのではなかったろうか。保護者席への冷静な呼びかけは私にはとても出来ない勇気ある行動だった。他の板橋高校の職員にとっても同じだったろうと思う。
しかし、あの卒業式に土屋都議とTBSカメラ(カメラは式典の最中は会場内に入れない)が板橋高校に来ることになっていたにせよ、都教委の体制は万全すぎるものであった。派遣された指導主事が5人、しかもチームワーク整い一人一人の役割分担のもと、まるで忍者のように動き回り、監視するのであった。
「10・23通達」後、初めての卒業式だったから、事件化することを想定していたとしか思えない節もいくつかある。ICレコーダ然り、指導主事の応援要請(都庁から更に数人呼ぼうとした)の素早さ然り、そして一番謎なのは、藤田さんが保護者席に向かって話をしている時、既に体育館に入っていて話を止めようと思えば止められたはずの田中教頭が、なぜか話が終わる頃合いを見計らって藤田さんの前に出てきたことであった。
あの日の、その瞬間、その瞬間の鮮烈な記憶の断片を噛み締めながら、藤田さんにとって当然の無罪の審判が下ることを願うと共に、あの事件の持つ意味を考える日々をここ数年私は送っている。
『藤田先生を応援する会 通信』第26号から
◇ 結審 3月13日(木)13:30~東京高裁102号法廷
最終弁論(弁護側、検察側とも60分)があり、結審します。
「十勝岳連峰」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
◎ 都立高校の変質と藤田裁判
北斗七星(都立高教員)
私が板橋高校に赴任した10年ほど前には、まだ都立高校の中に自由な雰囲気が残っていた。藤田さんが分会長をしていたこともあって、板橋の職員会議は皆が様々に自由な発言をし、都教委の管理的な動きには組合が結束して校長交渉等も持ち、管理職に勝手なことをさせない空気が浸透していた。
勿論、石原知事によって都教委がタカ派色に移行するにつれ、君が代斉唱を始めとして様々な縛りが現場に降りてきていたことも事実だ。しかし、今振り返ってみると、やはり決定的であったのは、2003年10月の例の通達であったと思う。あの通達を1つの境として、都教委の学校現場に対する管理強化は一層矢継ぎ早にそして有無を言わさぬ圧力を持ってきたと認識している。
例えば、授業日数確保(土曜日が週休日となったため)という名目で、それまで授業のなかった期末考査後に授業が入り、最初は2・3時間(しかも短縮)であったものが現在では6時間平常授業になっている学校が多数だという(現在私の勤めている職場では4時間と6時間の併用)。この時期担任は、自教科の採点、授業、そして自らのクラスの集計作業と息もつけぬほどの忙しさとなっている。
主幹という中間管理職も設けられ、校長・副校長・主幹・平教諭というピラミッドのもと、企画調整会議による上意下達の学校運営が行われるようになった。職員会議は採決権さえ奪われ、企画の伝達・報告で十分という位置づけにされている。しかし、勿論現場はこんなやり方で上手くいくはずはなく、管理職の思惑とは裏腹に、企画の意思疎通の不十分さ、いい加減さが露呈し、職員会議で皆から苦情・不満が噴出する始末である。
今あげた事柄はそうした管理強化のほんの一例に過ぎない。ほんの10年もたたぬうちに、今までとは全く違う都立高校に変えられつつある。
こうした現状を鑑みると、やはり2003年の通達とその後に起きた様々な事件や裁判(その象徴として藤田裁判もあると思うのだが)は、都教委がまさしくこうした体制に突き進み、それに楯突く者を許さないという姿勢を示していることに他ならないと思う。
藤田さんは長年都立高校に勤務され、生徒達を愛し、また自由な都立高校の教育環境を愛されてきた。退職されていたとはいえ、おそらく彼はあの通達が持つ意味、重みを察知し、自分なりのやり方で、あの時作られようとしていた流れに抵抗しようとしていたのではなかったろうか。保護者席への冷静な呼びかけは私にはとても出来ない勇気ある行動だった。他の板橋高校の職員にとっても同じだったろうと思う。
しかし、あの卒業式に土屋都議とTBSカメラ(カメラは式典の最中は会場内に入れない)が板橋高校に来ることになっていたにせよ、都教委の体制は万全すぎるものであった。派遣された指導主事が5人、しかもチームワーク整い一人一人の役割分担のもと、まるで忍者のように動き回り、監視するのであった。
「10・23通達」後、初めての卒業式だったから、事件化することを想定していたとしか思えない節もいくつかある。ICレコーダ然り、指導主事の応援要請(都庁から更に数人呼ぼうとした)の素早さ然り、そして一番謎なのは、藤田さんが保護者席に向かって話をしている時、既に体育館に入っていて話を止めようと思えば止められたはずの田中教頭が、なぜか話が終わる頃合いを見計らって藤田さんの前に出てきたことであった。
あの日の、その瞬間、その瞬間の鮮烈な記憶の断片を噛み締めながら、藤田さんにとって当然の無罪の審判が下ることを願うと共に、あの事件の持つ意味を考える日々をここ数年私は送っている。
『藤田先生を応援する会 通信』第26号から
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