◆ 教員の研修への問題意識 (教科書ネット)
◆ はじめに
今、公務員の研修についてある程度の信頼が浸透しているように感じる。官僚の文書改ざんやセクハラなどの事件・問題が起これば、最終的な幕引きは「研修を実施し、ガバナンスを強化」となる。これは、実際はブラックボックスとなっている「研修」というものに、漠然とした信頼がある証だと思う。
しかし、ここには大きく2つの問題がある。
1つは、実際の研修の中味を見ていかなければ、信頼してよいのか判断はできないはずだということ。もし、ただのアリバイ作りで終わる研修であれば、全体の奉仕者たる公務員を育てていくこととは、ほど遠いものとなる。
そしてもう1つは、このガバナンスのための研修が増加することで、「研修」の本来もつ、自主性・自由性が奪われているのではないかということ。即ち公務員の「研修」は、公務員に縛りをかけるだけのものなのか、ということだ。
特に、この間の教育環境の大きな変化や、新指導要領の実施で「新しいこと」を求められる教員の研修が、どのように行われているのかは、市民にとって大いに気にかけるべきことだろう。少し、教員の研修について考えてみたい。
◆ 権利としての研修の制限
学校が完全週5日制になる直前、ちょうど2000年頃にある問題が発生した。それまで教員は、土曜日の授業の分を夏休みや冬休みに振り替えることで対応していた。週5日制になると教員に土曜日勤務の振替がなくなった。
ところが本来は振替の休みが無くなるだけのはずが、これまで認めてきた「研修」の部分も大幅に承認しない風潮が生まれた。これには「自宅研修」という問題が絡む。
自宅研修とは、正式な用語ではなかったが、この言葉が横行したことによって「先生は夏休み、家でのんびり洗濯していても勤務したことになる」という認識が広まってしまった。正直に言えば、そうした実態は一部にはあったと思う。だからこそ、実際に家で過ごしている場合だけを研修として認めない、とするだけで良かったはずなのに、ほとんど全ての自主研修を「自主研修なら休暇を取って行ってください」という管理職が多発した。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に「自宅研修憎けりゃ自主研修全部憎い」となってしまったのだ。その後、一気に教員の自主研修は衰退した。
当時の学習会で弁護士に聞いたことをよく覚えている。教育公務員は「絶えず研究と修養に努めなければならない(教特法21条)」義務と同時に、「教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる(教特法22条)」権利を持っているということ。
教員としての研修は幅広く捉えられなければならないのであって、旅行などでの経験はもちろん、夜の街を歩くことだって教員としての経験を上げる立派な研修だ、と半分冗談であったが語っていて、当時とても納得した。
つまり、自主的な研修を認めないということは教員の権利の侵害であり、広く捉えれば、子どもの教育環境を悪化させる愚策であるということ。
教員が様々な社会的な経験、自然科学的な経験を積むことは必要であるということは、広く受け入れられる考え方だと思う。しかし、自主的な研修の権利がはく奪されて、20年近くが経つ今、現場の先生の人生経験は十分なのか、広い視野が持てているのか、非常に心配になる。
◆ 官製研修の隆盛
週5日制が導入された直後、どうせ学校に行かなければならないなら研修だと初めから認められている官製研修でも受けようか、となった。
この状況には当時始まった「人事考課制度」や「キャリアプラン」が大きく関わっているだろう。
キャリアを積み業績を上げうという体制が整っていくにつれ、官製研修を受けざるを得ない雰囲気が醸成された。現在は個人個人の官製研修の受講履歴をネット上で都が一括管理する「マイキャリアノート」というシステムにまでなっている。
一方で、研修に行く日以外は夏休みに学校に来ることが当たり前になってくると、普段学期中に行っていたことを夏休みにやる学校も増えてきた。
以前は水泳指導ぐらいだったものが、家庭訪問や保護者面談、地域の安全点検、補習、各種会議、出張などが、夏休みに普通に組まれるようになった。
つまり、夏休みの先生像はガラッと変わった。
長期に渡って、様々な経験を積む修養の時間ではなく、様々な行事をこなしながら、合間を見つけて官製研修にいき「キャリアアップ」を積むという期間になった。お盆の前後に夏季休暇を消化するのが精いっぱいなのが現状だ。
◆ 官製研修の問題点 多くの場合指導主事が講師
では、官製研修はかつての自主研修の役割を果たしているのだろうか。各授業についての研修の内容は「自主」「自由」「民主」という研修の原則からは大きく外れている。
これまで民間教育団体の多くが研究の基本としたのは、子どもがどこで躓くか、子どもにはどんな知識や態度を身に付けて欲しいのか、科学的な真実をどう子どもたちに伝えられるかなど、子どもを出発点にすることだった。
しかし、官製研修で一番の基本とするのは「指導要領」と「指導要領解説」だ。
講師の指導主事は必ずこの「原典」指導要領に立ち返る態度が示され、また受講者にも強要される。
また、本来その教科などの専門家によって知見を深めるべき、もしくは優れた教授法などを培ってきた現場の教師などが講師になるべきなのに、多くの場合指導主事が講師を務める。
最近では参加者同士でグループ討議をさせるだけという研修も多い。
アクティブラーニングと言えば聞こえは良いが、研修を必要として参加した者同士での話し合いでは、更なる上のレベルへ自らを高める知見を得ることは少ない。こんなお手軽な研修が横行している。
指導主事は、一人でいくつものテーマを担うので、正直専門外の分野の場合もある。
私は人権教育に関する研修で、指導主事の「東京には同和問題はないので…」という発言に耳を疑ったことがある。即座に質問したら「関西に比べ大きな問題にはなっていないので…」とさらに問題発言を重ねていた。幅広い講師の人材は圧倒的に足りていないのが現状だ。
◆ 官製研修制度は破綻寸前 今こそ自主研修の復活を
都が大量採用時代になって長らく経つ。「年次研修」という言い方で初任から4年までの必修研修の受講者の増加に加え、今後は、中堅教諭等資質向上研修(かつての10年研修・20年研修)などの必修研修も増加していく。
教師道場などのキャリアアップの研修への参加も益々増えるだろう。
実は研修制度は、飽和状態を超え、破綻に近づいているのだ。
益々質が落ちていくことが予想される。
この状況を変えるには、かつての自主研修も、承認研修として推奨していくことが一番ではないだろうか。
とにかく若い教員に、「目の前の子どもを基本に、自分たちで授業をつくる」という態度にこそ価値があるのだということを分かってもらいたいと、今痛切に感じている。(むしゃけんいちろう)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 123号』(2018.12)
武捨健一郎 東京教組書記長
◆ はじめに
今、公務員の研修についてある程度の信頼が浸透しているように感じる。官僚の文書改ざんやセクハラなどの事件・問題が起これば、最終的な幕引きは「研修を実施し、ガバナンスを強化」となる。これは、実際はブラックボックスとなっている「研修」というものに、漠然とした信頼がある証だと思う。
しかし、ここには大きく2つの問題がある。
1つは、実際の研修の中味を見ていかなければ、信頼してよいのか判断はできないはずだということ。もし、ただのアリバイ作りで終わる研修であれば、全体の奉仕者たる公務員を育てていくこととは、ほど遠いものとなる。
そしてもう1つは、このガバナンスのための研修が増加することで、「研修」の本来もつ、自主性・自由性が奪われているのではないかということ。即ち公務員の「研修」は、公務員に縛りをかけるだけのものなのか、ということだ。
特に、この間の教育環境の大きな変化や、新指導要領の実施で「新しいこと」を求められる教員の研修が、どのように行われているのかは、市民にとって大いに気にかけるべきことだろう。少し、教員の研修について考えてみたい。
◆ 権利としての研修の制限
学校が完全週5日制になる直前、ちょうど2000年頃にある問題が発生した。それまで教員は、土曜日の授業の分を夏休みや冬休みに振り替えることで対応していた。週5日制になると教員に土曜日勤務の振替がなくなった。
ところが本来は振替の休みが無くなるだけのはずが、これまで認めてきた「研修」の部分も大幅に承認しない風潮が生まれた。これには「自宅研修」という問題が絡む。
自宅研修とは、正式な用語ではなかったが、この言葉が横行したことによって「先生は夏休み、家でのんびり洗濯していても勤務したことになる」という認識が広まってしまった。正直に言えば、そうした実態は一部にはあったと思う。だからこそ、実際に家で過ごしている場合だけを研修として認めない、とするだけで良かったはずなのに、ほとんど全ての自主研修を「自主研修なら休暇を取って行ってください」という管理職が多発した。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に「自宅研修憎けりゃ自主研修全部憎い」となってしまったのだ。その後、一気に教員の自主研修は衰退した。
当時の学習会で弁護士に聞いたことをよく覚えている。教育公務員は「絶えず研究と修養に努めなければならない(教特法21条)」義務と同時に、「教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる(教特法22条)」権利を持っているということ。
教員としての研修は幅広く捉えられなければならないのであって、旅行などでの経験はもちろん、夜の街を歩くことだって教員としての経験を上げる立派な研修だ、と半分冗談であったが語っていて、当時とても納得した。
つまり、自主的な研修を認めないということは教員の権利の侵害であり、広く捉えれば、子どもの教育環境を悪化させる愚策であるということ。
教員が様々な社会的な経験、自然科学的な経験を積むことは必要であるということは、広く受け入れられる考え方だと思う。しかし、自主的な研修の権利がはく奪されて、20年近くが経つ今、現場の先生の人生経験は十分なのか、広い視野が持てているのか、非常に心配になる。
◆ 官製研修の隆盛
週5日制が導入された直後、どうせ学校に行かなければならないなら研修だと初めから認められている官製研修でも受けようか、となった。
この状況には当時始まった「人事考課制度」や「キャリアプラン」が大きく関わっているだろう。
キャリアを積み業績を上げうという体制が整っていくにつれ、官製研修を受けざるを得ない雰囲気が醸成された。現在は個人個人の官製研修の受講履歴をネット上で都が一括管理する「マイキャリアノート」というシステムにまでなっている。
一方で、研修に行く日以外は夏休みに学校に来ることが当たり前になってくると、普段学期中に行っていたことを夏休みにやる学校も増えてきた。
以前は水泳指導ぐらいだったものが、家庭訪問や保護者面談、地域の安全点検、補習、各種会議、出張などが、夏休みに普通に組まれるようになった。
つまり、夏休みの先生像はガラッと変わった。
長期に渡って、様々な経験を積む修養の時間ではなく、様々な行事をこなしながら、合間を見つけて官製研修にいき「キャリアアップ」を積むという期間になった。お盆の前後に夏季休暇を消化するのが精いっぱいなのが現状だ。
◆ 官製研修の問題点 多くの場合指導主事が講師
では、官製研修はかつての自主研修の役割を果たしているのだろうか。各授業についての研修の内容は「自主」「自由」「民主」という研修の原則からは大きく外れている。
これまで民間教育団体の多くが研究の基本としたのは、子どもがどこで躓くか、子どもにはどんな知識や態度を身に付けて欲しいのか、科学的な真実をどう子どもたちに伝えられるかなど、子どもを出発点にすることだった。
しかし、官製研修で一番の基本とするのは「指導要領」と「指導要領解説」だ。
講師の指導主事は必ずこの「原典」指導要領に立ち返る態度が示され、また受講者にも強要される。
また、本来その教科などの専門家によって知見を深めるべき、もしくは優れた教授法などを培ってきた現場の教師などが講師になるべきなのに、多くの場合指導主事が講師を務める。
最近では参加者同士でグループ討議をさせるだけという研修も多い。
アクティブラーニングと言えば聞こえは良いが、研修を必要として参加した者同士での話し合いでは、更なる上のレベルへ自らを高める知見を得ることは少ない。こんなお手軽な研修が横行している。
指導主事は、一人でいくつものテーマを担うので、正直専門外の分野の場合もある。
私は人権教育に関する研修で、指導主事の「東京には同和問題はないので…」という発言に耳を疑ったことがある。即座に質問したら「関西に比べ大きな問題にはなっていないので…」とさらに問題発言を重ねていた。幅広い講師の人材は圧倒的に足りていないのが現状だ。
◆ 官製研修制度は破綻寸前 今こそ自主研修の復活を
都が大量採用時代になって長らく経つ。「年次研修」という言い方で初任から4年までの必修研修の受講者の増加に加え、今後は、中堅教諭等資質向上研修(かつての10年研修・20年研修)などの必修研修も増加していく。
教師道場などのキャリアアップの研修への参加も益々増えるだろう。
実は研修制度は、飽和状態を超え、破綻に近づいているのだ。
益々質が落ちていくことが予想される。
この状況を変えるには、かつての自主研修も、承認研修として推奨していくことが一番ではないだろうか。
とにかく若い教員に、「目の前の子どもを基本に、自分たちで授業をつくる」という態度にこそ価値があるのだということを分かってもらいたいと、今痛切に感じている。(むしゃけんいちろう)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 123号』(2018.12)
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