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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

イギリスの学力調査

2007年04月14日 | 平和憲法
 教育成果改善のための学力調査改革
 -イギリスの経験-

                リチャード・ドーエティ(ウェールズ大学名誉教授)

■英ウェールズでは全国テスト廃止に


 イギリス・ウェールズの全国学カテスト、二十年近く前に創設した学力調査改革グループ(ARG)が行ったこと、ウェールズでの全国テスト廃止の動きー昨年を最後にウェールズではイギリスの全国統一テストがなくなったこと、国情の異なる日本においてウェールズの経験から学んでもらうこと、この四点を話したい。

 常に第一の問題は、子どもにとって何が一番大切かということであり、最も重要なのは、子どもが毎日経験する事柄だ。これが政府の行うことと一致しないことがあるのだ。生徒と教職員は相互に学びあうことがあるのであって、それを東京やカーディフ(ウェールズの首都=注)で決定することは出来ない。
 八○年代当時、英国ではカリキュラムは学校ごとに違い、先生たちや校長たちの考えはそれぞれであり、どの先生に教わるかで内容は異なった。どういうことを学校で教えるべきかは学校ごとに決めていたし、成績の(一律的)基準もなかった。今三〇代の人が初等学校当時の成績表はある先生の場合、A、B、Cでついているが、別の先生はまったく違う仕方で書いてある、ということがあった。

 さて、学校というものは社会において働くためにのみ行く、というのが唯一の理由ではなく、さまざまな理由によって行くところなのであり、それは経済的二ーズだけではない。八○年代には、教育を十分に与えてこなかったのではないかという点で不協和音や議論はなく、先生や親たちの間からも賛同が得られていた。
 サッチャー政権が考えていたこととは、公的サービスの提供側は競争しなくてはならない、ということだった。競争すればいい学校になりいい生徒が集まり、だめな学校は閉校になるというものだ。そしてチェックのためテストが実施され、学校への監督も厳しくなった。普通の市場と公教育はどう異なるか。個人的見解では、競争で学校がよくなるということはまったく考えられない
 学校はひとつのコミュニティーのものであり、別のコミュニティーでは子どもがいなくなり学校がなくなるというのはおかしい。サッチャー首相は学校はどうあるべきかについて考えが異なっていた。
 九七年、イギリスはブレア首相の労働党政権となり、我々は変革を望んだが、彼は公共サービスの競争についてはサッチャーより関心を持っていた。イングランドの学校は今、ロンドンが決めている。私の孫はロンドンに住んでおり、就学前にはさまざまな学校からパンフレットが送られてきた。親はそれを見て、「この学校に入れよう」と決めるが、みんなが望む学校に入れるわけではなく、まったく自由に選択できるのではない。

■テストは「使われ方」こそ問題

 八八年教育改革法において、教育に政府はどう対応しようとしたか。イングランドの全国でナショナル・カリキュラムが適用され、公教育の九三%を占める公立校はこれに従った。
 ウェールズではイングランドでの教科の他にウェールズ語が入っている点は少々異なる。このカリキュラムは大学前の十三年(そのうち義務教育段階は九年一に対するもので、このもとで学カテストが行われた。九〇年代は国語、算数、地理の三科目(ウェールズではウェールズ語も)。
 ナショナル・カリキュラムについて、政府側から請われた専門家の勧告についても政府は取り入れず、巧妙に導入した。全国標準という意味でのナショナル・カリキュラム自体はともかく、学カテストの結果がどう使われるかが重要だ。査察官が来て、今地域のこの学校は成績がいい、この学校はさらにいい、などというふうに使われて先生たちに対するプレッシャーになった。
 学カテストの結果が広く公表されると、親たちはその数字が一番高い学校が一番「いい」学校だと考えがちだ。数字だけであそこはよい、悪い、と判断されるようになっていった。学校によっては生徒が集まらず予算も減らされて改革もかなわず廃校にもなった。このテストで評価されるということで学校は子どもにそのための対策をさせたり、その準備ばかりやらせたり、成績がよくない子どもにはテストの日は休まないかと働きかける、ということも起きた。テスト自体でなくその結果がどう応用されるかの制度が問題で、親も学校もこれに左右されることが問題なのだ。
 われわれ学力調査改革グループは、どこからも経済的支援を受けない単に研究者の集まりで、教育体制を運営する政府に対して問題を理解してもらおうとするものだ。メージャー首相もサッチャー同様、耳を貸そうとしなかった。研究者や教員の言うことに耳を貸さず、聞きたくないことは聞かないという姿勢だった。そこで代替案に耳を貸そうとしないなら、戦略を変えようと考えた。教育に関する論文が部外者にとって言語明瞭意味不明、というものであってはならないので、いろいろなとりくみを通じて変化をもたらす提言を試みた。
 テストでない形でどう学力を評価するのかという点について、大衆普及版の冊子も作った。学力問題にだけ集中するのでなく、形成学的評価-学習のための評価というもの、こうすればより学習能力が高まるという、次の向上につなげることが重要、ということだ。冊子は政府側でも読まれ、採用されたアプローチも含まれる。評価というものは単にテストにのみとどまってはまずい、ということだ。学習したものの累積したもので学習評価すべきだ。テストは一定の生徒の学習の動機づけにもなれば、一定の生徒には学習意欲を削ぐものにもなる。
 われわれの諸活動は一定の影響を英国の教育政策に与えたが、ウェールズとスコットランドのそれに対してのほうがより影響を与えた。ウェールズとスコットランドには独自の議会が在り、外交、防衛を除く行政権がある。ウェールズでは二〇〇一年以来同じ教育大臣の下、いろいろと教育政策に変更を加えてきた。全国学カテストは本来期待された効果を発揮していない、ということで私が座長になった調査グループで、テスト実施の廃止を図ってきた。
 どのように学カテストを使うことが全人格的向上を担保するかということだ。一定の科目で、例えば英語はレベル幾つ、といった形でレベルが付され、なんら中身を語ることなく、単なる等級付けで学校、生徒の誤った評価に使われ、学習は、あまりにもその学カテストのためのものに絞ったものになり、カリキュラムの展開という面で不満も起きた。テストにかかわらぬものは省かれ、点数のための学習に特化されてしまった。

■「学習のための評価」という視点を

 こうして評価の目的が取り違えられていった。学習のための評価なら、そういうものであってはならない。達成度などは生徒に対するテストだけではわからないものだ。さまざまな方法の試行が必要だ。そして制度自体を評価すること。OECDの国際学力調査(PISA)にウェールズは参加してこなかったが、これについては他地域との比較が出来ないとの声もある。
 制度は作るよりも実行が難しいものだ。学習のための評価、先生は評価することに慣れっこだが、どのように学力データを使うか、より有効に活用すべきだ。そして教員に対する評価というものは緩やかにすべきで、それは他の先生に対する評価との整合性を持たせるためにも必要だ。どのみち新システム導入には教員の訓練が必要で、専門性の開発にこそ予算を投資すべきだ。スコットランドとウェールズの教育改革は初期段階にあり、日本とは方向性が異なっている。
 スコットランドもウェールズの改革も、学習者中心の点では同じだ。学力調査は学習のため、というものだ。イングランドではまだそこまでの動きは見られず、まだあまりに個々のクラスを中央がコントロールしすぎている。教員は「説明責任」を求められているが、本来は、中央政府に対するのでなく、子ども、父母、市町村に対してすべきだ。
 学校の様々なクオリティは「テスト」だけでは分からない。子どもたちが何を学んでいてほしいかを重視すべきだ。英国の全国学カテストを見たとき、それにより生徒の学習、モチベーションは向上しているか、答えはノーだ。生徒に望むのはテストのためのスキルでなく、学びのモチベーションの持続のはずだ。そして、ことは、どんなことに対して説明責任を持つべきか、教育のあり方、に立ち返って来るわけだ。
 私は公共サービスに関わる者として説明責任は果たしたいが、そこでは分別ある賢明な説明責任が必要だ。

■理想論を廃し政策への影響を

 今、八○年代にわれわれに起きたように大きな政治のうねりが起きている。そしてわれわれARGのメンバーが言ったのは、「理想を議論するのでなく、現行の政策に影響を与えることをしよう」ということだった。
 日本でも全国学カテストが入るとのことだが、その影響はかつて経験されてご存知のことと思う。モチベーションの上がる子も落ちる子も出てこよう。いい点数のためのモチベーションでなく、学習に対するモチベーションを上げるようにしてほしい。政策者側は「水準」をどんどん上げたがるが、テストの受け方、成績を上げるのがうまくなっても、では中身は何なのか。英米の経験でも、ある程度の到達点に達するとそれ以上行かないレベルというのが出てくる。永続的に上がるのでなく、ある時点で平行性をたどることになる。
 ナショナル・カリキュラムとしてどういうものが必要かの定義は必要だが、狭い意味のテストで判断するのは誤りだ。水準をどう調査指標化するか、われわれ英国の例でもそうだが、教員に耳を貸さず政府が行なうというのは必ず誤ることになる。政府と現場のギャップというものは必ずあるもの、だが、テストをどう使い活用するかは慎重にしなければ、いったい誰に対する説明責任か、ということになる。

『日教組教育新聞』(2007/3/1)第56次全国教研特別分科会「学力問題」から

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