《沖縄慰霊の日 追悼式典》
◇ 「変えていく」 名嘉司央里(普天間高校3年)
<映像リンク> http://www.youtube.com/watch?v=6V1T9zbJTNw
今日もまたはじまる/いつもの日常/当たり前に食事をして/
当たり前に好きなことを学んで/当たり前に安心して眠りにつく/
そんな普通の一日
今日もまたはじまる/いつもの日常/当たり前に基地があって/
当たり前にヘリが飛んでいて/当たり前に爆弾実験が行われている/
そんな普通の一日
一見「平和」に思えるこの小さな島/そこにいつの間にか当たり前ではない/
当たり前であってはならないものが/入り込んでしまっていた
普通なら受け入れられない現実を/当たり前に受け入れてしまっていた
これで本当にいいのだろうか
平凡な幸せを感じながら/ただただ「平和」を望む今/簡単にこの違和感を/
無視していいのだろうか
黒いたくさんの礎/刻まれるたくさんの名前/そこで思い知る/戦争が残した傷跡の大きさ深さ/何も幸せなど生まれなかった/何も手に入れたものなど無かった/
すべて失ったものばかりだった
忘れてはならない/この島であった悲しい記憶/目を背けてはならない/悲しい負の遺産/
それを負から正に変えてゆく/それがこの遺産を背負い生きてゆく/
私達にできること
変えてゆくのは難しい/しかし一人一人が心から/負である「戦争」を忌み嫌い/
正である「平和」を深く愛する/そんな世界になれば/
きっと正の連鎖がはじまるはずだ
六月二十三日 慰霊の日/あの黒いたくさんの礎には/たくさんの人々が訪れる/
そして その一つ一つの名前に触れ/
涙を浮かべながら語りかける
「今年も会いに来たよ」と/手を合わせ目を瞑(つぶ)り祈りを捧(ささ)げる/
その訪れた人々に/
「平和」を願わないものはいない
「一度あった事は二度ある」/そんな言葉を聞いたことがある/
しかし こんな悲惨な出来事は/もう繰り返してはならない/
だから……/「一度あった事は二度とない」に/
変えてゆこう
平和で塗りつぶしていこう
その想(おも)いはきっと届いているはずだから
*******************************************************************
毎日新聞 2010年6月24日 東京朝刊
沖縄慰霊の日:当たり前にある基地、変えていこう 17歳、詩に託す平和
◇「願うだけでは来ない」
65年前の太平洋戦争末期の沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終結したとされる沖縄慰霊の日の23日、沖縄県内各地で慰霊式や追悼式があった。糸満市の「ひめゆり平和祈念資料館」前では、沖縄戦で負傷兵の看護などに動員され、多くが犠牲になったひめゆり学徒隊の慰霊祭が営まれた。元学徒や遺族ら約500人が参列し、犠牲者の冥福を祈った。【井本義親、斎藤良太】
「基地が日常」を変えたい--。宜野湾市の県立普天間高校3年、名嘉司央里(なかしおり)さん(17)は、糸満市摩文仁の平和祈念公園であった沖縄県主催の全戦没者追悼式で自作の詩「変えてゆく」を朗読した。米軍基地に囲まれた日常に疑問を抱き、一人一人が意識を変えれば「基地の島」を変えていけると訴えた。
米軍普天間飛行場に隣接する宜野湾市愛知で生まれ育った。幼いころは、ヘリコプターが上空を飛び交うのは「当たり前」の日常と思っていた。しかし、平和学習で沖縄戦や、今も残る戦争の傷跡を学び、意識が変わり始めた。04年8月には近くの沖縄国際大に米軍ヘリが墜落。戦争につながる基地がすぐ近くにある「違和感」が強くなった。
詩を書き上げたのは、先月25日ごろ。鳩山由紀夫首相(当時)は「最低でも県外」とした自らの発言を棚に上げ、普天間の移設先を名護市辺野古で米政府と合意しようとしていた。「変えてゆくのは難しい」現実にもどかしさを感じる一方で、「私たちの世代から変えていかないと何も変えられないし、平和は願うだけでは来ない」と思い、題名を「変えてゆく」に決めた。
公園内にある犠牲者名を刻んだ平和の礎(いしじ)を初めて訪れたのは小学1年の時。「なぜこんなにたくさんの人が亡くならなければならなかったのか」。驚きと悲しみがこみ上げた。礎には出征した祖母のいとこの名前が刻まれている。平和への誓いを込めて、詩をこう結んだ。「『一度あった事は二度とない』に変えてゆこう 平和で塗りつぶしていこう その想(おも)いはきっと届いているはずだから」
◇平和の礎に遺族 献花、手を合わせ
平和の礎では終日、献花して手を合わせる遺族の姿がみられた。
那覇市の外間とよさん(92)は折りたたみいすに腰掛け、礎に刻まれた長女の名前を見つめ続けていた。沖縄戦当時、2歳の長女を栄養失調で亡くした。食料が不足し、ソテツで飢えをしのいだが、「おいも、おいも」と泣いてねだった長女の声が今も耳に残る。「面倒をみてあげられなかった」。悔いにさいなまれる。
「戦後は米軍に土地を奪われ、本土復帰しても基地は減らない。沖縄を人殺しの島にするのはごめんだ」と声を震わせた。
『今 言論・表現の自由があぶない!』(2010/6/26)
http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/15392069.html
◇ 「変えていく」 名嘉司央里(普天間高校3年)
<映像リンク> http://www.youtube.com/watch?v=6V1T9zbJTNw
今日もまたはじまる/いつもの日常/当たり前に食事をして/
当たり前に好きなことを学んで/当たり前に安心して眠りにつく/
そんな普通の一日
今日もまたはじまる/いつもの日常/当たり前に基地があって/
当たり前にヘリが飛んでいて/当たり前に爆弾実験が行われている/
そんな普通の一日
一見「平和」に思えるこの小さな島/そこにいつの間にか当たり前ではない/
当たり前であってはならないものが/入り込んでしまっていた
普通なら受け入れられない現実を/当たり前に受け入れてしまっていた
これで本当にいいのだろうか
平凡な幸せを感じながら/ただただ「平和」を望む今/簡単にこの違和感を/
無視していいのだろうか
黒いたくさんの礎/刻まれるたくさんの名前/そこで思い知る/戦争が残した傷跡の大きさ深さ/何も幸せなど生まれなかった/何も手に入れたものなど無かった/
すべて失ったものばかりだった
忘れてはならない/この島であった悲しい記憶/目を背けてはならない/悲しい負の遺産/
それを負から正に変えてゆく/それがこの遺産を背負い生きてゆく/
私達にできること
変えてゆくのは難しい/しかし一人一人が心から/負である「戦争」を忌み嫌い/
正である「平和」を深く愛する/そんな世界になれば/
きっと正の連鎖がはじまるはずだ
六月二十三日 慰霊の日/あの黒いたくさんの礎には/たくさんの人々が訪れる/
そして その一つ一つの名前に触れ/
涙を浮かべながら語りかける
「今年も会いに来たよ」と/手を合わせ目を瞑(つぶ)り祈りを捧(ささ)げる/
その訪れた人々に/
「平和」を願わないものはいない
「一度あった事は二度ある」/そんな言葉を聞いたことがある/
しかし こんな悲惨な出来事は/もう繰り返してはならない/
だから……/「一度あった事は二度とない」に/
変えてゆこう
平和で塗りつぶしていこう
その想(おも)いはきっと届いているはずだから
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毎日新聞 2010年6月24日 東京朝刊
沖縄慰霊の日:当たり前にある基地、変えていこう 17歳、詩に託す平和
◇「願うだけでは来ない」
65年前の太平洋戦争末期の沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終結したとされる沖縄慰霊の日の23日、沖縄県内各地で慰霊式や追悼式があった。糸満市の「ひめゆり平和祈念資料館」前では、沖縄戦で負傷兵の看護などに動員され、多くが犠牲になったひめゆり学徒隊の慰霊祭が営まれた。元学徒や遺族ら約500人が参列し、犠牲者の冥福を祈った。【井本義親、斎藤良太】
「基地が日常」を変えたい--。宜野湾市の県立普天間高校3年、名嘉司央里(なかしおり)さん(17)は、糸満市摩文仁の平和祈念公園であった沖縄県主催の全戦没者追悼式で自作の詩「変えてゆく」を朗読した。米軍基地に囲まれた日常に疑問を抱き、一人一人が意識を変えれば「基地の島」を変えていけると訴えた。
米軍普天間飛行場に隣接する宜野湾市愛知で生まれ育った。幼いころは、ヘリコプターが上空を飛び交うのは「当たり前」の日常と思っていた。しかし、平和学習で沖縄戦や、今も残る戦争の傷跡を学び、意識が変わり始めた。04年8月には近くの沖縄国際大に米軍ヘリが墜落。戦争につながる基地がすぐ近くにある「違和感」が強くなった。
詩を書き上げたのは、先月25日ごろ。鳩山由紀夫首相(当時)は「最低でも県外」とした自らの発言を棚に上げ、普天間の移設先を名護市辺野古で米政府と合意しようとしていた。「変えてゆくのは難しい」現実にもどかしさを感じる一方で、「私たちの世代から変えていかないと何も変えられないし、平和は願うだけでは来ない」と思い、題名を「変えてゆく」に決めた。
公園内にある犠牲者名を刻んだ平和の礎(いしじ)を初めて訪れたのは小学1年の時。「なぜこんなにたくさんの人が亡くならなければならなかったのか」。驚きと悲しみがこみ上げた。礎には出征した祖母のいとこの名前が刻まれている。平和への誓いを込めて、詩をこう結んだ。「『一度あった事は二度とない』に変えてゆこう 平和で塗りつぶしていこう その想(おも)いはきっと届いているはずだから」
◇平和の礎に遺族 献花、手を合わせ
平和の礎では終日、献花して手を合わせる遺族の姿がみられた。
那覇市の外間とよさん(92)は折りたたみいすに腰掛け、礎に刻まれた長女の名前を見つめ続けていた。沖縄戦当時、2歳の長女を栄養失調で亡くした。食料が不足し、ソテツで飢えをしのいだが、「おいも、おいも」と泣いてねだった長女の声が今も耳に残る。「面倒をみてあげられなかった」。悔いにさいなまれる。
「戦後は米軍に土地を奪われ、本土復帰しても基地は減らない。沖縄を人殺しの島にするのはごめんだ」と声を震わせた。
転載元: 労働相談・労働組合日記
『今 言論・表現の自由があぶない!』(2010/6/26)
http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/15392069.html
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