板橋高校卒業式「君が代」刑事弾圧事件 最高裁に口頭審理を要請中
★ 立川、葛飾に続く「言論表現の自由」圧殺を許すな! ★
最高裁は「表現そのものを処罰すること」の憲法適合性を判断せよ!
■□■ 7月16日(金)第6回最高裁要請行動15:15最高裁東門集合 ■□■
◎ 東京都の教育界の衰退!
「クロツグミ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
アメリカの教育使節団が戦後日本に来ての提言の骨子は、「教育は自由でなければならない」ということであった。それぞれの教員が自由な発想と創意工夫によって教室に新風を吹き込む。生き生きとして喜びあふれた知的、芸術的好奇心の発揚こそが教育なのだ。
現在の東京の教育は、完璧に官僚が支配してしまった。
各教職員の机上にそれぞれのパソコンが置かれ、日常滞りなくあらゆることが指示される。
主幹は主任教諭を、主任は平教諭をいかに指導したかの報告が求められる。かくしてタイムスの箱は、密告の箱と化して行くのである。やがては、教室にカメラが持ち込まれ、すべてが監視下に置かれるのであろうか。「校長」それ自体は、役人の手先の監視員・いわば特高になってしまった。
卒業式で卒業生担任I氏をビデオ係に命じて離席を許可したA高の校長は、式直前、教育庁の出先のセンターの役人の命令でその教員への校長の命令を取り消された。「椅子に座らせろ」というわけだ。
1988年ころ、教育庁指導部長・小川は白鴎の校長に転じた。西職員課長は、国立の校長に転じた。部長や課長より校長の方が格が上であったのだ。
今は、課長の下の指導主事に校長がぺこぺこしている。なんと無様なことよ!教育においては、現場が最も大切な場であり、権限がある場でもあるというのに。
教育基本法第10条は、戦前の皇国礼賛教育への反省に立って、教育への権力の介入を毅然として阻止していた。その基本法も安倍内閣の手によって弊履のごとく投げ捨てられた。なんと異様なことよ!
再度、「ススメ ススメ 兵隊ススメ」「撃ちてし 止まむ」の教育なのであろう。
「細螺」(しただみ)、「下民」として逆らう者らは、成敗されるとの意である。
かっては校長は、学校の対外的代表者としての連絡係、建屋の管理責任、事務責任者でしかなかった。職員会議では、校長は「挙手禁止」であり、ただ進行を見守るのみであった。教育の問題については、すべて教職員が担ったのである。
これは現在も、学校教育法第37条(かっての28条)にある。第37条4 校長は、校務をつかさどり、所属の職員を監督する。11 教諭は、児童の教育をつかさどる。
高校においても当然準用される。(第62条)
厳然と職務を分けて、行政が教育に介入するのを防いでいるのである。が現状、誰も省みようとはしていない。
北海道にいた時(1960 年代後半)、指導主事が白糠高校定時制に来校し、授業を見た。そのあと、彼を交えた会議で、どのような報告書を書くのかが質問された。
指導主事は、「良い、悪いを報告する」と答えた。
これが白糠定時発、「指導主事、勤評告白事件」として全道に喧伝され、指導主事来校阻止闘争は燃え広がったのである。
現状はどうか。週案などによってがんじがらめになり、気骨なき教員は無味乾燥な授業を繰り返している。
多くの学校では、半分近くの生徒が緊張感なく居眠りしているという無残な状況下にある。他方、いくつかの学校は完全に予備校化している。
校長が進路研究会に出て、ベネッセの講話を拝聴してくる。「方針に反する教員を首にして、いかに進学実績を挙げたか」という、私学の特進、選抜クラスの話である。
S高校の校長は感銘?を受けたらしく、その資料を手にして飛び回り出した。日本の明日は衰退の一途を辿るであろう。
日本は選挙によって多数党を選び、国政を行わせる。選挙の度ごとに教育の内容が変わるようなことがあってはならない。
教育の営為は、政治的思惑の外にあって、個々の教員の自発的創意と熱意によってのみ担われるものである。上からの指示、強制的画一化は教育そのものを破壊してしまう。
全体主義を指向する勢力というのは、いつの時代にあっても族生する。お祭り好きと表裏の関係にもあり、一体化・興奮・同一性……人の心理に備わる要素である。
これを戦争屋どもが巧妙に利用する。他民族への差別を煽り、民衆を人殺しに追い込んでいく。
戦前の皇民化教育の本質は、戦争への道を仮借なく駆け抜くことにあった。結果は、言う必要もない。
儲かった連中は、知らぬふりをして余所を見てる振りをしている。多くの民衆が耐えがたい辛苦をなめ、かつ取り返しのつかない犠牲を払った。
安全圏にいて離れた所から陰謀をめぐらし、善意の人々を騙し、儲けを一人占めにする連中、いつの時代においても世の中は彼らの天下である。
民衆よ、興奮してはならない。市井の価値観を飛躍させてはならない。国の存亡だとか、国家の危機だとかに騙されてはならない。「愛国心」とはまさに強盗の最大の煽り言葉であるのだ。
(都高教大会2010/6/26チラシより)
★ 立川、葛飾に続く「言論表現の自由」圧殺を許すな! ★
最高裁は「表現そのものを処罰すること」の憲法適合性を判断せよ!
■□■ 7月16日(金)第6回最高裁要請行動15:15最高裁東門集合 ■□■
◎ 東京都の教育界の衰退!
藤田勝久
「クロツグミ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
アメリカの教育使節団が戦後日本に来ての提言の骨子は、「教育は自由でなければならない」ということであった。それぞれの教員が自由な発想と創意工夫によって教室に新風を吹き込む。生き生きとして喜びあふれた知的、芸術的好奇心の発揚こそが教育なのだ。
現在の東京の教育は、完璧に官僚が支配してしまった。
各教職員の机上にそれぞれのパソコンが置かれ、日常滞りなくあらゆることが指示される。
主幹は主任教諭を、主任は平教諭をいかに指導したかの報告が求められる。かくしてタイムスの箱は、密告の箱と化して行くのである。やがては、教室にカメラが持ち込まれ、すべてが監視下に置かれるのであろうか。「校長」それ自体は、役人の手先の監視員・いわば特高になってしまった。
卒業式で卒業生担任I氏をビデオ係に命じて離席を許可したA高の校長は、式直前、教育庁の出先のセンターの役人の命令でその教員への校長の命令を取り消された。「椅子に座らせろ」というわけだ。
1988年ころ、教育庁指導部長・小川は白鴎の校長に転じた。西職員課長は、国立の校長に転じた。部長や課長より校長の方が格が上であったのだ。
今は、課長の下の指導主事に校長がぺこぺこしている。なんと無様なことよ!教育においては、現場が最も大切な場であり、権限がある場でもあるというのに。
教育基本法第10条は、戦前の皇国礼賛教育への反省に立って、教育への権力の介入を毅然として阻止していた。その基本法も安倍内閣の手によって弊履のごとく投げ捨てられた。なんと異様なことよ!
再度、「ススメ ススメ 兵隊ススメ」「撃ちてし 止まむ」の教育なのであろう。
「細螺」(しただみ)、「下民」として逆らう者らは、成敗されるとの意である。
かっては校長は、学校の対外的代表者としての連絡係、建屋の管理責任、事務責任者でしかなかった。職員会議では、校長は「挙手禁止」であり、ただ進行を見守るのみであった。教育の問題については、すべて教職員が担ったのである。
これは現在も、学校教育法第37条(かっての28条)にある。第37条4 校長は、校務をつかさどり、所属の職員を監督する。11 教諭は、児童の教育をつかさどる。
高校においても当然準用される。(第62条)
厳然と職務を分けて、行政が教育に介入するのを防いでいるのである。が現状、誰も省みようとはしていない。
北海道にいた時(1960 年代後半)、指導主事が白糠高校定時制に来校し、授業を見た。そのあと、彼を交えた会議で、どのような報告書を書くのかが質問された。
指導主事は、「良い、悪いを報告する」と答えた。
これが白糠定時発、「指導主事、勤評告白事件」として全道に喧伝され、指導主事来校阻止闘争は燃え広がったのである。
現状はどうか。週案などによってがんじがらめになり、気骨なき教員は無味乾燥な授業を繰り返している。
多くの学校では、半分近くの生徒が緊張感なく居眠りしているという無残な状況下にある。他方、いくつかの学校は完全に予備校化している。
校長が進路研究会に出て、ベネッセの講話を拝聴してくる。「方針に反する教員を首にして、いかに進学実績を挙げたか」という、私学の特進、選抜クラスの話である。
S高校の校長は感銘?を受けたらしく、その資料を手にして飛び回り出した。日本の明日は衰退の一途を辿るであろう。
日本は選挙によって多数党を選び、国政を行わせる。選挙の度ごとに教育の内容が変わるようなことがあってはならない。
教育の営為は、政治的思惑の外にあって、個々の教員の自発的創意と熱意によってのみ担われるものである。上からの指示、強制的画一化は教育そのものを破壊してしまう。
全体主義を指向する勢力というのは、いつの時代にあっても族生する。お祭り好きと表裏の関係にもあり、一体化・興奮・同一性……人の心理に備わる要素である。
これを戦争屋どもが巧妙に利用する。他民族への差別を煽り、民衆を人殺しに追い込んでいく。
戦前の皇民化教育の本質は、戦争への道を仮借なく駆け抜くことにあった。結果は、言う必要もない。
儲かった連中は、知らぬふりをして余所を見てる振りをしている。多くの民衆が耐えがたい辛苦をなめ、かつ取り返しのつかない犠牲を払った。
安全圏にいて離れた所から陰謀をめぐらし、善意の人々を騙し、儲けを一人占めにする連中、いつの時代においても世の中は彼らの天下である。
民衆よ、興奮してはならない。市井の価値観を飛躍させてはならない。国の存亡だとか、国家の危機だとかに騙されてはならない。「愛国心」とはまさに強盗の最大の煽り言葉であるのだ。
(都高教大会2010/6/26チラシより)
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