《リベルテ(東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース)から》
◆ 東京「君が代」裁判・五次訴訟報告
裁判長が交代、審理は後半戦へ
被処分者の会 鈴木 毅
前回弁論(6月)で右陪席裁判官が交代し、8月に裁判長が交代(小川裁判長→野口裁判長)し、裁判体が大きく入れ替わりました。
審理は立証(証人尋問等)の進行について協議を行う段階に入っていましたが、裁判長交代に伴い、次回弁論では進行協議とともに、30分程度の更新弁論(これまでの主張の概要をまとめて陳述するもの)も加えて行うこととなりました。
弁護団ではこれまで主張してきた論点を整理し、アピールすることになりますので、次回弁論は本裁判の中間総括のようになると見込まれます。期待してください。
10月16日(月)、東京地裁631号法廷において第11回口頭弁論が開かれました。
今回も多くの方々が駆けつけて下さり、傍聴席は満席、入廷できない方もおられました。力強いご支援に感謝を申し上げます。
法廷では、まず書証、準備書面の提出を確認して、今後の立証の進め方について協議を行いました。
今回、原告団は学者および原告陳述書を中心に書証提出を行いましたが、人証申請予定の学者意見書が一通未提出であるため、その提出の段取りについて確認するなどして、次回弁論期日(12月25日)の設定を行いました。
その際、前述のように更新弁論を行うことを確認し、白井弁護士が意見陳述を行って閉廷となりました。
新たに着任した野口裁判長の訴訟指揮はなかなか意欲的な雰囲気で、白井弁護士の口頭陳述の際も、原告側準備書面(13)の該当部分をチェックしながら聴いていたのち、陳述内容が確認しやすいように口頭で陳述する内容を書面でも出してほしいと提案、次回以降はそのようにすることになりました。
以下は、白井弁護士の陳述内容を要約したものです。この裁判に対して求められるまなざしを新たな切り口から述べたもので、法廷内のみなさんに強い印象を残したものとなりました。
◆ 白井剣弁護士による意見陳述の要約
『外国にルーツをもつ生徒たちにとっての国旗・国歌(日の丸・君が代)と生徒たちに寄り添う教職員たち』
今回提出した準備書面(13)は、陳述書(甲A243号証)を執筆したSさんの事例に着目し、「外国にルーツをもつ生徒たち」に焦点をあてて、教職員に対する起立斉唱強制の不合理性を監張したものである。
Sさんは、韓国籍で、日本で生まれ育ったが、小・中学校は朝鮮学校に通い、日本にも韓国にも北朝鮮にもルーツを有している。小中と通った朝鮮学校は必ずしも北朝鮮一辺倒ではなかったが、全体主義的・国家主義的色彩が濃厚だったため、2002年4月に都立国際高校に入学し、朝鮮学校から「自由の国に亡命したかのような解放感」を味わったと述べている。
Sさんは2005年3月に卒業したため、10・23通達発出前後の卒業式を双方体験しており、卒業時には起立斉唱の強制を受け、「自由の国に亡命したかのような解放感を私に味わわせてくれた都立高校でそういうものが強制されるようになったことは、なんと皮肉なことなのか」とも述べている。
1999年、国旗国歌法案の審議において有馬文相(当時)は、自身が東大総長だった時代に卒業式等の式場で国旗掲揚・国歌斉唱を実施しなかった理由について「特に留学生が大勢いるというふうなこともありまして」と答弁し、教育者の立場で考えれば日の丸掲揚、君が代斉唱の場に外国にルーツをもつ学生たちを参加させる事態は避けるべきと考えていたことが明らかになった。
「日の丸・君が代」を強制される生徒たちは二つの問題に直面し苦悩する。
一つは「日の丸・君が代」の歴史的に果たしてきた役割によるもので、その歌詞の意味を知り、使われてきた歴史を知ってしまえば、とても受け容れられないというもので、Sさんもそのような思いを抱えて苦悩した。
もう一つは、「日の丸・君が代」に限らず国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを求められること自体がひき起こす問題で、国旗・国歌のもつ国民統合機能に問題の本質がある。
Sさんが通っていた頃の朝鮮学校では、式典等で北朝鮮の国歌である愛国歌や国家指導者を讃える歌を斉唱することが求められたが、もし自分だったらその事態をどう受け止めるだろうかと考えてみてほしい。「君が代」斉唱に何の抵抗もない人であっても、北朝鮮の愛国歌や指導者を讃える歌を歌えといわれれば、強い抵抗感を抱くのではないだろうか。
外国にルーツをもつ人々にとって、10・23通達下での起立斉唱は、これと同じ意味をもつ。
どんなにすばらしい理念を謳う旗や歌であろうとも、それが特定の国家のシンボルである限り、問題の本質に変わりはなく、国家シンボルへの敬意表明を強いられ、国家への帰属意識の輪の中に自分がとりこまれるのだ。
Sさんは、高校の卒業式で国歌斉唱の時、歌わなかったが起立はした。しかし「正直な気持ちをいえば、けっして立ちたくはありませんでした。でも、回りの生徒は皆立っていました。回りの目がとても気になりました。自分に自信がもてませんでした。なぜ立たないのかと聞かれたときに、理路整然と答えられるだけのしっかりした考えや知識が自分にはないと思いました」と述べている。
Sさんは特別な存在ではなく、「立ちたくない、歌いたくない生徒たち」は、結果的にその多くが起立している。
ただ、心に深い傷を残してきた。そのような生徒たちに寄り添って、「大丈夫。立たなくてよいよ」とだれかが言ってあげる必要があるのではないか。
都立高校で卒業式、入学式に出席する教職員たちは、「起立斉唱できない生徒たち」を含む生徒集団を前に、どうふるまうべきかを毎年毎年、鋭く問われ続けている。
起立できない生徒たちに寄り添い、自らも起立しないのか。それとも自ら起立、率先垂範することでそのような生徒たちを「立たせる」役割を果たすのか。職務命令に従うことは、公務員としては正しい選択かもしれないが、教育者は生徒を度外視して自らの行動を決めることはできない。
起立斉唱できない生徒たちに対する教育的配慮として、生徒に寄り添い自らも着席することは、教師の職責の実行といわねばならず、その職責に反する起立斉唱を命じる職務命令には合理性も必要性もない。
10・23通達も、これにもとづく職務命令も、そして本件各懲戒処分も、違憲・違法というべきである。
◎次回弁論のお知らせ
第12回口頭弁論 12月25日(月)11時~12時 東京地裁631号法廷(傍聴は先着順)
『リベルテ(東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース) 71号』(2023年11月02日)
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