2005年01月10日(月)
学校に自由の風を! 日比谷公会堂大集会
学校に自由の風を! の運動体が主催する、「変えよう! 強制の教育」の大集会。2000用意したプログラムが、ほぼなくなったという盛況。日比谷公会堂の一階はぎっしり人で埋まり、2階席もほぼ満席。私は、2階席の最後尾、最上段で舞台を見下ろした。これなら、都議選で3悪人らを落とせそうにも思うのだが…。
今日は右翼がやって来るという事前の触れこみで、弁護団から6名が警備を担当した。幸い右翼の来訪はなかったが、これ見よがしにカメラをぶら下げた私服警官が10人以上。トラブルはこちらの方と。平穏な集会を妨害する犯罪行為あった場合にだけ、警察の出番となる。右翼が来ないのだから、本来警察の出番はない。しかし、集会の参加者を盗み撮りするのが彼らの仕事。それをやめさせるのが私たちの仕事となる。
警察の監視の下では、市民が集会に参加しにくくなる。彼らの狙いはそこにあるのだろうが、少なくとも撮影はさせない。肖像権の侵害になるからだ。犯罪が行われていない場面での警察の写真撮影は原則違法である。
最高裁大法廷判例(1969.12.24、京都府学連事件)は次のとおり。
原則「警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない」
例外「現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるとき」
集会のプログラムはいつものことながらセンスがよい。一人に長時間しゃべらせることをしない。多くの人が、それぞれの現場から、それぞれの個性にあふれた訴えをする。報告は、良くできた朗読劇やコント仕立て。そしてメインは、高橋哲哉さんの20分の「今こそ教育に自由を」という講演。以下は私流の理解。
平和・平等というこれまでの公理的な価値が貶められようとしている。自由もである。教育は本質的に自由を伴う。学校は自由な場所でなくてはならない。その自由が危殆に瀕している。
スクールの語源は、ギリシャ語で「暇」を意味するスコーレーに由来する。自分の頭でものを考えるということは、本質的に何ものにも束縛されない自由な市民の特権であった。この市民が、古代の民主制を支えた。その人たちが集うところがスクールの起源である。
教育は、国家の束縛からも、産業社会の制約からも、自由でなくてはならない。個人が、自らの感性で自然や社会を相対化して見つめる余裕がなければならない。新自由主義のいう競争的「自由」は、実は欺瞞的な反自由でしかない。
教育の自由を圧殺した戦前の教育体制への反省から、教育基本法10条は行政の教育への不当な支配を禁止した。ところが、今、その教育基本法が改悪の寸前ある。自・公の連立与党改悪案では、「教育『行政』は不当な支配に服することなく…」と改めるという。これは、市民の行政批判を封じることではないか。
自分の子どもをフランスの小学校に通わしたことがある。入学式も、卒業式もない。みんなを集めて国歌を歌わせるという発想がそもそもない。日本は、中央集権国家体制を形成する過程で、がんじがらめの儀式を重視した。憲法が変わっても、儀式重視は生き残り、今再び戦前どおりに復活しようとしている。
いま、その局面で苦難を強いられながらも頑張っている、あるいは迷っている、教師・保護者の皆さんに、内村鑑三の言葉を借りて連帯のメッセージを送りたい。1891年彼が不敬事件として攻撃を受け、失意の中で米国の友人に宛てた書簡の一節。かれは、次のように自分を励ましている。
「僕は信ずる。政治的自由と信教の自由とは、かかる試練なくしては購われざることを。…いざ、われらをして、たたかいに行かしめんことを」
今日の集会での「法と民主主義」の売れ行きは35冊。その内の一冊が高橋さんお買いあげ。高橋さんはよい人だ。進呈しようかと一瞬弱気になったが、ちゃんと1000円支払ってくれた。こういう人とは、今後とも仲良くしたい。
◆『澤藤統一郎の事務局日記』
学校に自由の風を! 日比谷公会堂大集会
学校に自由の風を! の運動体が主催する、「変えよう! 強制の教育」の大集会。2000用意したプログラムが、ほぼなくなったという盛況。日比谷公会堂の一階はぎっしり人で埋まり、2階席もほぼ満席。私は、2階席の最後尾、最上段で舞台を見下ろした。これなら、都議選で3悪人らを落とせそうにも思うのだが…。
今日は右翼がやって来るという事前の触れこみで、弁護団から6名が警備を担当した。幸い右翼の来訪はなかったが、これ見よがしにカメラをぶら下げた私服警官が10人以上。トラブルはこちらの方と。平穏な集会を妨害する犯罪行為あった場合にだけ、警察の出番となる。右翼が来ないのだから、本来警察の出番はない。しかし、集会の参加者を盗み撮りするのが彼らの仕事。それをやめさせるのが私たちの仕事となる。
警察の監視の下では、市民が集会に参加しにくくなる。彼らの狙いはそこにあるのだろうが、少なくとも撮影はさせない。肖像権の侵害になるからだ。犯罪が行われていない場面での警察の写真撮影は原則違法である。
最高裁大法廷判例(1969.12.24、京都府学連事件)は次のとおり。
原則「警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない」
例外「現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるとき」
集会のプログラムはいつものことながらセンスがよい。一人に長時間しゃべらせることをしない。多くの人が、それぞれの現場から、それぞれの個性にあふれた訴えをする。報告は、良くできた朗読劇やコント仕立て。そしてメインは、高橋哲哉さんの20分の「今こそ教育に自由を」という講演。以下は私流の理解。
平和・平等というこれまでの公理的な価値が貶められようとしている。自由もである。教育は本質的に自由を伴う。学校は自由な場所でなくてはならない。その自由が危殆に瀕している。
スクールの語源は、ギリシャ語で「暇」を意味するスコーレーに由来する。自分の頭でものを考えるということは、本質的に何ものにも束縛されない自由な市民の特権であった。この市民が、古代の民主制を支えた。その人たちが集うところがスクールの起源である。
教育は、国家の束縛からも、産業社会の制約からも、自由でなくてはならない。個人が、自らの感性で自然や社会を相対化して見つめる余裕がなければならない。新自由主義のいう競争的「自由」は、実は欺瞞的な反自由でしかない。
教育の自由を圧殺した戦前の教育体制への反省から、教育基本法10条は行政の教育への不当な支配を禁止した。ところが、今、その教育基本法が改悪の寸前ある。自・公の連立与党改悪案では、「教育『行政』は不当な支配に服することなく…」と改めるという。これは、市民の行政批判を封じることではないか。
自分の子どもをフランスの小学校に通わしたことがある。入学式も、卒業式もない。みんなを集めて国歌を歌わせるという発想がそもそもない。日本は、中央集権国家体制を形成する過程で、がんじがらめの儀式を重視した。憲法が変わっても、儀式重視は生き残り、今再び戦前どおりに復活しようとしている。
いま、その局面で苦難を強いられながらも頑張っている、あるいは迷っている、教師・保護者の皆さんに、内村鑑三の言葉を借りて連帯のメッセージを送りたい。1891年彼が不敬事件として攻撃を受け、失意の中で米国の友人に宛てた書簡の一節。かれは、次のように自分を励ましている。
「僕は信ずる。政治的自由と信教の自由とは、かかる試練なくしては購われざることを。…いざ、われらをして、たたかいに行かしめんことを」
今日の集会での「法と民主主義」の売れ行きは35冊。その内の一冊が高橋さんお買いあげ。高橋さんはよい人だ。進呈しようかと一瞬弱気になったが、ちゃんと1000円支払ってくれた。こういう人とは、今後とも仲良くしたい。
◆『澤藤統一郎の事務局日記』
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