《解雇・採用拒否第4回最高裁要請行動 要請文から③》
◎ 最高裁は「21世紀の松岡洋右」になる勿れ
一国際人権規約無視すれば、それは国連に背を向けること一
まるで戦前の日本か現在の北朝鮮かという異様さだが、目下、都立高校の卒業式は都教育庁から出ばって来る2名の役人の監視のもとに行われている。“君が代”斉唱強制のための監視である。
それでも生徒に強制する役回わりになるのを潔しとせず、斉唱時の僅か40秒聞を静かに座っていた先生には、停職数ヶ月という厳しい処分が待っている。また、定年退職を間近に控えた先生には、再雇用採用取消しという更に厳しい処分が課される。これにより、定年退職から年金受給開始までの5年間は全くの無収入となるのである。
息を呑むほどに厳しく、まるで犯罪者に対するが如き過酷な此れらの処分を行っているのは、石原都政下の都教委である。即ち、裕次郎人気に乗って都知事の座を獲得し、高飛車な物言いで男らしさを気取る石原慎太郎なる特異なキャラクターが、教育者としての良心を守ろうとする先生達に対して狂犬のように襲いかかり、次々に噛み倒しているというのが、現在の都立高校の実態である。
当然、処分を受けた先生達は憲法第19条(思想及び良心の自由)に基づいて訴訟を起こしているが、「始めに請求棄却ありき」の姿勢で審理に臨む裁判官にかかっては堪らず、次々に敗訴の憂目を見ている。
何しろ「“君が代”を歌えという職務命令に従って歌うのであるから自らの思想の表明には当たらず、したがって、思想・良心の自由が侵害されているとは認められない。」という*稀代の屁理屈を裁判官が持出すのだから、提訴した先生達が勝てる訳がない。
しかし一方、我が国は中国や北朝鮮とは違い、国際人権規約を国会で批准した世界に胸を張れる民主主義国家である。(筈である。)
そして、その国際人権規約Bの第18条第2項には、「何人も自ら選択する宗教又は信念を受入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。」とある。
ところで、昨年の国会に於いて「ヒゲの大佐」で知られるある自民党議員は、かつて“君が代”を国歌とする法案が審議されたとき菅総理が反対した事実を論って非難攻撃を展開した。この一事だけを見ても、“君が代”は“ふるさと”や“チャンチキおけさ”や“団子三兄弟”等々の一般の歌とは違い、政治的思想・信念と緊密な関係にあることは否定できない。
更に言えば、石原都知事が森及び安倍の元・首相等と共に「天皇を現在の象徴天皇ではなく、戦前と同じく元首にすべきである。」という論者であることは周知の事実である。
そして、その政治的主張を実現するには、戦前の明治憲法下の国家理念によく合致した“君が代”が学校をはじめ出来るだけ多くの場所で歌われるようになるのが望ましいであろう。
しかし「天皇を元首に」という考え方に対しては、当然反対の立場の人も居る訳で、その人々に“君が代”を強制すれば、正に前掲の条文中の「おそれ」が生じるのは当たり前である。即ち、国際法違反となるのである。
次に、国際人権規約B第18条第3項を掲げる。
「宗教又は信念を表明する自由については、法律に定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することが出来る。」
甚だ分かりにくい条文である。一般人が一読しても、何が何だか分からないのではあるまいか。最高裁の裁判官各位に於かれては如何?
そこで、ここに要点を解説する。要するに、思想、良心の自由は合理的な理由があるならば制限できないこともないが、但し、その制限をする法規範は「法律」でなければならないという規定である。
勿論、都教委の「通達」ごときで制限しようと目論むに至っては、おこがましいにも程があると言わざるを得ない。先に石原都知事を狂犬にたとえたのは、此の常軌を逸したおこがましさも、その根拠の一つである。
さて、以上で、国際法に照らせば“君が代”斉唱を強制する都教委の通達に効力はなく、此れにより処分を受けた先生達に対して都は復権の措置を取り、あるいは損害賠償を行うべきであることは明らかになったが、仮に最高裁が当該国際法に関して「知らぬ存ぜぬ」を決め込んだ場合、いかなる問題が生じるかを次に検証する。
世界は今、思想・信条の自由や言論の自由を極端に制限し偏狭なナショナリズムに走る中国のような覇権主義国家によって、第三次世界大戦も勃発しかねない深刻な危機に直面している。
そのような危機を回避するために真摯な努力を重ねている国連が最も憂慮する事態の一つは、各主権国家内に於ける*偏狭なナショナリズムの興隆及びその連鎖反応であり、それを助長することにもつながりかねない国際法無視である。
したがって、最高裁が前述の「知らぬ存ぜぬ」の態度を取って都教委のゴリ押しを合法と認めるならば、それは国連に背を向けることに他ならない。
因みに、国際連盟が世界的規模の戦争勃発を防ぐべく模索を続けていた二十世紀のある時期、全権大使の松岡洋右が連盟脱退を宣して連盟に背を向け、それはやがて我が国及び世界の惨劇につながったのであった。
最高裁は「二十一世紀の松岡洋右」にならないよう、国際人権規約に従って裁断を行うべきである。
◎ 最高裁は「21世紀の松岡洋右」になる勿れ
一国際人権規約無視すれば、それは国連に背を向けること一
森本喬(元都庁職員)
まるで戦前の日本か現在の北朝鮮かという異様さだが、目下、都立高校の卒業式は都教育庁から出ばって来る2名の役人の監視のもとに行われている。“君が代”斉唱強制のための監視である。
それでも生徒に強制する役回わりになるのを潔しとせず、斉唱時の僅か40秒聞を静かに座っていた先生には、停職数ヶ月という厳しい処分が待っている。また、定年退職を間近に控えた先生には、再雇用採用取消しという更に厳しい処分が課される。これにより、定年退職から年金受給開始までの5年間は全くの無収入となるのである。
息を呑むほどに厳しく、まるで犯罪者に対するが如き過酷な此れらの処分を行っているのは、石原都政下の都教委である。即ち、裕次郎人気に乗って都知事の座を獲得し、高飛車な物言いで男らしさを気取る石原慎太郎なる特異なキャラクターが、教育者としての良心を守ろうとする先生達に対して狂犬のように襲いかかり、次々に噛み倒しているというのが、現在の都立高校の実態である。
当然、処分を受けた先生達は憲法第19条(思想及び良心の自由)に基づいて訴訟を起こしているが、「始めに請求棄却ありき」の姿勢で審理に臨む裁判官にかかっては堪らず、次々に敗訴の憂目を見ている。
何しろ「“君が代”を歌えという職務命令に従って歌うのであるから自らの思想の表明には当たらず、したがって、思想・良心の自由が侵害されているとは認められない。」という*稀代の屁理屈を裁判官が持出すのだから、提訴した先生達が勝てる訳がない。
しかし一方、我が国は中国や北朝鮮とは違い、国際人権規約を国会で批准した世界に胸を張れる民主主義国家である。(筈である。)
そして、その国際人権規約Bの第18条第2項には、「何人も自ら選択する宗教又は信念を受入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。」とある。
ところで、昨年の国会に於いて「ヒゲの大佐」で知られるある自民党議員は、かつて“君が代”を国歌とする法案が審議されたとき菅総理が反対した事実を論って非難攻撃を展開した。この一事だけを見ても、“君が代”は“ふるさと”や“チャンチキおけさ”や“団子三兄弟”等々の一般の歌とは違い、政治的思想・信念と緊密な関係にあることは否定できない。
更に言えば、石原都知事が森及び安倍の元・首相等と共に「天皇を現在の象徴天皇ではなく、戦前と同じく元首にすべきである。」という論者であることは周知の事実である。
そして、その政治的主張を実現するには、戦前の明治憲法下の国家理念によく合致した“君が代”が学校をはじめ出来るだけ多くの場所で歌われるようになるのが望ましいであろう。
しかし「天皇を元首に」という考え方に対しては、当然反対の立場の人も居る訳で、その人々に“君が代”を強制すれば、正に前掲の条文中の「おそれ」が生じるのは当たり前である。即ち、国際法違反となるのである。
次に、国際人権規約B第18条第3項を掲げる。
「宗教又は信念を表明する自由については、法律に定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することが出来る。」
甚だ分かりにくい条文である。一般人が一読しても、何が何だか分からないのではあるまいか。最高裁の裁判官各位に於かれては如何?
そこで、ここに要点を解説する。要するに、思想、良心の自由は合理的な理由があるならば制限できないこともないが、但し、その制限をする法規範は「法律」でなければならないという規定である。
勿論、都教委の「通達」ごときで制限しようと目論むに至っては、おこがましいにも程があると言わざるを得ない。先に石原都知事を狂犬にたとえたのは、此の常軌を逸したおこがましさも、その根拠の一つである。
さて、以上で、国際法に照らせば“君が代”斉唱を強制する都教委の通達に効力はなく、此れにより処分を受けた先生達に対して都は復権の措置を取り、あるいは損害賠償を行うべきであることは明らかになったが、仮に最高裁が当該国際法に関して「知らぬ存ぜぬ」を決め込んだ場合、いかなる問題が生じるかを次に検証する。
世界は今、思想・信条の自由や言論の自由を極端に制限し偏狭なナショナリズムに走る中国のような覇権主義国家によって、第三次世界大戦も勃発しかねない深刻な危機に直面している。
そのような危機を回避するために真摯な努力を重ねている国連が最も憂慮する事態の一つは、各主権国家内に於ける*偏狭なナショナリズムの興隆及びその連鎖反応であり、それを助長することにもつながりかねない国際法無視である。
したがって、最高裁が前述の「知らぬ存ぜぬ」の態度を取って都教委のゴリ押しを合法と認めるならば、それは国連に背を向けることに他ならない。
因みに、国際連盟が世界的規模の戦争勃発を防ぐべく模索を続けていた二十世紀のある時期、全権大使の松岡洋右が連盟脱退を宣して連盟に背を向け、それはやがて我が国及び世界の惨劇につながったのであった。
最高裁は「二十一世紀の松岡洋右」にならないよう、国際人権規約に従って裁断を行うべきである。
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