パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

教員生活を振り返って

2009年12月17日 | こども危機
 組合運動では一生懸命
 ◆ 欠けていた人権の視点
 気付いてなかった植民地支配の国家賠償


 ◆ 学校の仕事はうれしかった

 1966年1月、都内の私立女子学園(中学・高校)に専任教員として就職した。1回の面接だけで採用され、明日から来るように言われた。学年途中に辞めた高一のクラスの担任の穴埋めでした。
 高校の各学年は12クラスもあり、折からのべビーブーマーたちの入学で、1クラス、55人~60人も在籍させていた。聞けば、教員はよく辞めるのだそうだ、4月に12人採用しても、年度末に残った新任は1人という年も珍しくない、と言われた。
 4月には高三の担任になった。61人の生徒、教室は後ろまで一杯だった。下町の気風か、生徒たちの多くは、元気で率直で、よく笑いよく喋った。授業もホームルームもいつも楽しかった。学校での仕事は私に合っていると思い嬉しかった。
 賃金の支給日には、職員室で、校長の前に古参から1列に並び、礼をして「月給袋」を受け取った。賃金は低かった。前年まで働いた京橋の小さな商社に比べても、夏冬の一時金もその半分に届かなかった。
 就職して6年目、71年に労働組合をつくった。教職員70人ほどのなかで、組合結成に参加したのは15人ほどだった。
 この頃東京の私立学校は、高校進学生徒増のなかで、理事会のワンマン経営による教育軽視から労働条件が悪く、教員の定着率も低かった。労働組合が続々と結成されると、経営者は組合を認めず、中心メンバーを次々に解雇した。
 組合をつくれば解雇されるという「常識」下であったが、私の学園では解雇は出させなかった。少数組合なのになぜだったのか。それは、上部団体、私学の組合連合体の強力な支えがあったこと、他の学園の首を切られた組合員たちが、屈せず、何年、何十年にわたって闘っていたから、そして、何より現場の教職員の支持があったからである。
 個人的なことでは、組合結成時子どもが2人(5歳、3歳)いた。そして、結成2年目には委員長をやっていた。校務の民主化、賃金アップ、持ち時間減などの要求を出した。団体交渉で理事会側と、足も声も震えたまま、対等に話しあい、ストライキを打った。そして、実際に、要求が通り、待遇が改善されて民主化が少しずつ進む。組合の力に確信を持った。
 59歳の退職まで、週刊の組合ニュースを担当した。良き仲間に恵まれ、組合に育てられた教員生活だった。そして、良心的に市民をやっているとも思っていた。だが、実は、市民としては欠けるものがあったのだ。それは、後になって知る。
 ◆ 衝撃を受けた日本軍の犯罪
 96年秋、葛飾区社会教育館での「連続5回学習講座(主催は教育委員会)」を受講した。「戦後賠償を考える」というような題だった。講師は女性史研究家、鈴木裕子さん
 日本の朝鮮植民地支配・強制占領の清算、賠償がいまだ済まされていない、という話があった。戦後にも、在日韓国・朝鮮人への差別(参政権無し・個人補償からの排除)が続いている、と。「慰安婦」問題の話もあった。
 戦時中の日本皇軍の犯罪性に衝撃を受けた。と同時に、現在に至っても、国家の犯罪と認めず、謝罪せず、賠償せずの日本政府の姿勢にはひどいと憤った。そして、足元のこんなひどい人権侵害をしっかり受け止めてこなかった自分に気づいた。
 労働組合員の私がどうして、こんなに未熟だったのだろうう。これでは国の人権侵害に加担しているのも同然ではないかと。
 私はすでに50代の半ばになっでいた。「何を生きてきたんだろう。こんなに大切なこともきちんと知らたかったなんて」との想いがあった。私に限らず、世の中のメディア、それから、私が所属していた組合連合体にも欠けている視点であったと気づく。差し迫って勉強しなければならないことがあるみたいだ。動揺しながらも、そう心に刻んだ。
 鈴木裕子さんの講座との出会いで、新しい視点を得た、私にとって記念すべき秋だった。
(東京 野口照子)

 『週刊新社会』(2009/11/10【女の広場】)

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