◆ 「沖縄戦から何を学ぶのか」 (教科書ネット)
◆ 授業-「牛島満と沖縄戦」
日本は再び戦争(武力や軍事力)で国益を守ろうとするのだろうか?「国を守る」=「国民の命とくらしを守る」でなかったことを明白にしたのが、沖縄戦だ。
私の祖父は牛島満。沖縄戦第32軍の軍司令官だった。今から24年前の夏(1994年)にあるきっかけから沖縄を訪れ、祖父の足跡を調べるようになった。
2004年から、沖縄や東京で「牛島満と沖縄戦」という授業を小学生から高校生を対象に始めた。沖縄戦の最中に人生を終えた2人の名前を平和の礎から紹介する。
1人目は、沖縄戦について、何の決定権もなく、ただ歴史の流れに翻弄され、かけがえのない0才の命を終えてしまった屋宜(やぎ)和子さん。
もう一人は、軍司令官として、沖縄戦で誰よりも多くの権限を持っていた私の祖父、牛島満(みつる)。
鹿児島県出身、当時57才。沖縄守備隊(第32軍)の司令官で階級は陸軍中将。
この立場の対照的な2人の辿った運命から沖縄戦を見ていく。
◆ 「鉄の暴風」
-赤茶けた鉄の塊と「住民から見た沖縄戦」-12分のビデオ証言
『戦場ぬ童(いくさばのわらび)』(映画制作委員会1985年、2分30秒に編集)を見て、戦場にはたくさん沖縄県の住民がいて、年寄りや子どもが多く亡くなったことを知る。
日本とアメリカの具体的な戦死者の数を挙げると、「なぜ、住民が兵隊よりも多く亡くなったのか」との疑問が出る。
米軍の艦砲射撃や銃弾の凄まじさを象徴した「鉄の暴風」を具体的にイメージするために、赤茶けた1.8kgの鉄の塊を生徒に手渡し、一人一人に持って触ってもらう。一様に「えっ」と声を出し、艦砲弾の破片(実物)の重さと切り口の鋭さから驚く。
米軍の戦艦からの打ち出される艦砲が、着弾し破裂している映像だけでは感じえない怖さを想像することができる。この破片は、授業の中で何度も登場する。
沖縄戦のキーワード「鉄の暴風」に共感したところで、安里要江(としえ)さん(当時25歳)の証言ビデオを見る。
安里さんには、和子(7か月)ちゃんと4歳の男の子がいた。
「米軍の捕虜になると、男は戦車で轢(ひ)かれ、女は暴行され、子どもは股裂きにあって酷い殺され方をする」と教えられ、日本軍に守ってもらえると信じて、家族親戚18人で軍について逃げる。
その間、日本軍による壕追い出しにあい、次々と家族を失い、最後にたどり着いた轟(とどろき)の壕で、9か月になった和子ちゃんを餓死させてしまう。
安里さんは「軍隊は住民を守らない」と証言する。屋宜和子さんの辿った運命を母親である安里さんの証言を通して知る。
もう一人の牛島満については、現地の沖縄で実際に出会った人々と家族の証言からその人となりを紹介する。
宮城喜久子さんは、ひめゆり学徒隊で当時16才。津嘉山の経理部壕に配属され、南部撤退の際に牛島に壕の中で会い話をされた。牛島の印象は、「軍人らしい厳めしさがなく、優しいお爺ちゃんのようであった」と語る。
牛島の家族からも子煩悩で怒ったり、叩かれたりしたことはなかったと聞いている。
さらに、牛島の司令官としての役割や大本営と第32軍(沖縄守備隊)との関係について解説し、沖縄戦が、本土決戦準備のための時間稼ぎ=「持久戦」として位置づけられていたことから、「沖縄の土地や沖縄県の住民を守る」ためのものでなかったことを明らかにする。
従って、そもそも住民であった安里さんや和子さんは、守られる対象でなかったのである。
◆ 考える授業
-沖縄戦の悲劇を日本軍の作戦から解く
「なぜ、住民が兵隊よりも多く亡くなったのか」を日本軍の命令から考える。
講演でも、授業でも、参加者(児童、生徒)が考える時間を必ず取る。
沖縄戦が始まって約50日、司令部のある首里城の近くまで米軍が迫った5月22日、地下司令部壕で作戦会議が行われた。
「①首里で戦い続ける ②南部への撤退 一あなただったら、どちらを選びますか?」と問いかける。
①を選んだ理由は「首里の司令部壕の南には、安里さんなどの住民がたくさんいるので、②だと住民の被害が増えるから、首里で戦い続ける方がいい」、
②の南部撤退を選んだ理由は「持久戦なので、できるだけアメリカ軍から離れる」「まだ、南部にいる日本軍と協力して、立て直す。」等の意見が多く出される。
この問題の正解はない。あえて言えば①を選んだ人は住民の立場で考え②を選んだ人は軍を中心に考えており、自分の立ち位置がわかる。
実際は②の南部撤退が行われた。
これが第32軍の命令で、南部撤退の通り道にある長嶺小学校の子どもたちが調べた「学区域の月別死者数のグラフ」から、南部撤退直後の6月に約70%の方が亡くなっていたことがわかる。
南部一帯が住民と日本軍、それを追う米軍が入り込んで三者が混在した戦場になり、壕追い出し、住民虐殺や「強制集団死」などの沖縄戦の悲劇といわれることが起こる。
安里さんの家族も次々と亡くなり11人の肉親を失った。
この祖父牛島満が命じた「南部撤退」が、住民に多くの犠牲を強いたのであった。
◆ 沖縄の小学校での子どもの祖父母の戦争体験の聞き取り
-学ぶべきことは
授業も終盤。ここで、長嶺小学校6年生の祖父母の戦争体験の聞き取りの発表のビデオを見る。
家族で逃げていくうちに、母親も祖母も被弾し、亡くなった祖母から負ぶい紐をとって自分で弟を負ぶって逃げたとのことだった。ご自身も砲弾の破片で背中にけがをされていた。「鉄の暴風」の中、必死で逃げ惑っていて、砲弾の破片が負ぶっていた弟にあたったのに気づかなかったのである。その悲しさや恐さは、なんともいえない。
もし、30cm前方を飛んでいたら、おばあちゃんも一緒に亡くなっていたかも知れない。そして、授業で発表したAさんもこの世に産まれてこなかった。
1分に満たないビデオであるが、戦場での生死は紙一重であることが鮮明になり、東京の子どもたちは大きな衝撃を受ける。
住民が生活している場での地上戦では、軍隊は住民を守らない。牛島満は、家族にも直接会った沖縄の人々に対しても優しい人であったようだ。しかし、その人々の命を奪う命令を司令官として出した。
沖縄戦に動員された日本軍兵士も故郷に帰れば良き夫、優しいお兄さんであった人が多かったであろう。戦場では、人が変わる。戦争は、人を変える。
再び、日本は、73年前の沖縄戦と同じような悲劇を繰り返そうとするのだろうか?(うしじまさだみつ)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 120号』(2018.6)
牛島貞満 元東京都小学校教員
◆ 授業-「牛島満と沖縄戦」
日本は再び戦争(武力や軍事力)で国益を守ろうとするのだろうか?「国を守る」=「国民の命とくらしを守る」でなかったことを明白にしたのが、沖縄戦だ。
私の祖父は牛島満。沖縄戦第32軍の軍司令官だった。今から24年前の夏(1994年)にあるきっかけから沖縄を訪れ、祖父の足跡を調べるようになった。
2004年から、沖縄や東京で「牛島満と沖縄戦」という授業を小学生から高校生を対象に始めた。沖縄戦の最中に人生を終えた2人の名前を平和の礎から紹介する。
1人目は、沖縄戦について、何の決定権もなく、ただ歴史の流れに翻弄され、かけがえのない0才の命を終えてしまった屋宜(やぎ)和子さん。
もう一人は、軍司令官として、沖縄戦で誰よりも多くの権限を持っていた私の祖父、牛島満(みつる)。
鹿児島県出身、当時57才。沖縄守備隊(第32軍)の司令官で階級は陸軍中将。
この立場の対照的な2人の辿った運命から沖縄戦を見ていく。
◆ 「鉄の暴風」
-赤茶けた鉄の塊と「住民から見た沖縄戦」-12分のビデオ証言
『戦場ぬ童(いくさばのわらび)』(映画制作委員会1985年、2分30秒に編集)を見て、戦場にはたくさん沖縄県の住民がいて、年寄りや子どもが多く亡くなったことを知る。
日本とアメリカの具体的な戦死者の数を挙げると、「なぜ、住民が兵隊よりも多く亡くなったのか」との疑問が出る。
米軍の艦砲射撃や銃弾の凄まじさを象徴した「鉄の暴風」を具体的にイメージするために、赤茶けた1.8kgの鉄の塊を生徒に手渡し、一人一人に持って触ってもらう。一様に「えっ」と声を出し、艦砲弾の破片(実物)の重さと切り口の鋭さから驚く。
米軍の戦艦からの打ち出される艦砲が、着弾し破裂している映像だけでは感じえない怖さを想像することができる。この破片は、授業の中で何度も登場する。
沖縄戦のキーワード「鉄の暴風」に共感したところで、安里要江(としえ)さん(当時25歳)の証言ビデオを見る。
安里さんには、和子(7か月)ちゃんと4歳の男の子がいた。
「米軍の捕虜になると、男は戦車で轢(ひ)かれ、女は暴行され、子どもは股裂きにあって酷い殺され方をする」と教えられ、日本軍に守ってもらえると信じて、家族親戚18人で軍について逃げる。
その間、日本軍による壕追い出しにあい、次々と家族を失い、最後にたどり着いた轟(とどろき)の壕で、9か月になった和子ちゃんを餓死させてしまう。
安里さんは「軍隊は住民を守らない」と証言する。屋宜和子さんの辿った運命を母親である安里さんの証言を通して知る。
もう一人の牛島満については、現地の沖縄で実際に出会った人々と家族の証言からその人となりを紹介する。
宮城喜久子さんは、ひめゆり学徒隊で当時16才。津嘉山の経理部壕に配属され、南部撤退の際に牛島に壕の中で会い話をされた。牛島の印象は、「軍人らしい厳めしさがなく、優しいお爺ちゃんのようであった」と語る。
牛島の家族からも子煩悩で怒ったり、叩かれたりしたことはなかったと聞いている。
さらに、牛島の司令官としての役割や大本営と第32軍(沖縄守備隊)との関係について解説し、沖縄戦が、本土決戦準備のための時間稼ぎ=「持久戦」として位置づけられていたことから、「沖縄の土地や沖縄県の住民を守る」ためのものでなかったことを明らかにする。
従って、そもそも住民であった安里さんや和子さんは、守られる対象でなかったのである。
◆ 考える授業
-沖縄戦の悲劇を日本軍の作戦から解く
「なぜ、住民が兵隊よりも多く亡くなったのか」を日本軍の命令から考える。
講演でも、授業でも、参加者(児童、生徒)が考える時間を必ず取る。
沖縄戦が始まって約50日、司令部のある首里城の近くまで米軍が迫った5月22日、地下司令部壕で作戦会議が行われた。
「①首里で戦い続ける ②南部への撤退 一あなただったら、どちらを選びますか?」と問いかける。
①を選んだ理由は「首里の司令部壕の南には、安里さんなどの住民がたくさんいるので、②だと住民の被害が増えるから、首里で戦い続ける方がいい」、
②の南部撤退を選んだ理由は「持久戦なので、できるだけアメリカ軍から離れる」「まだ、南部にいる日本軍と協力して、立て直す。」等の意見が多く出される。
この問題の正解はない。あえて言えば①を選んだ人は住民の立場で考え②を選んだ人は軍を中心に考えており、自分の立ち位置がわかる。
実際は②の南部撤退が行われた。
これが第32軍の命令で、南部撤退の通り道にある長嶺小学校の子どもたちが調べた「学区域の月別死者数のグラフ」から、南部撤退直後の6月に約70%の方が亡くなっていたことがわかる。
南部一帯が住民と日本軍、それを追う米軍が入り込んで三者が混在した戦場になり、壕追い出し、住民虐殺や「強制集団死」などの沖縄戦の悲劇といわれることが起こる。
安里さんの家族も次々と亡くなり11人の肉親を失った。
この祖父牛島満が命じた「南部撤退」が、住民に多くの犠牲を強いたのであった。
◆ 沖縄の小学校での子どもの祖父母の戦争体験の聞き取り
-学ぶべきことは
授業も終盤。ここで、長嶺小学校6年生の祖父母の戦争体験の聞き取りの発表のビデオを見る。
●当時おばあちゃんは、私より1才年下で10才だったそうです。でも子どもの世話は、おばあちゃんがやっていました。戦争が激しくなって、1才の弟をおんぶしながらいろいろと逃げ回り、防空壕をやっと見つけて、隠れました。そして、おんぶしていた弟を背中から下ろしてみると、顔が無くなっていて、下半身だけがあったそうです。【A】授業の中で、祖母の体験を発表してから6年後、高校生になったAさんの自宅を訪ね、おばあちゃんにインタビューをした。おぶっていた年下の弟を下したのは、防空壕でなく、大きな木の下だったとお話をされた。
家族で逃げていくうちに、母親も祖母も被弾し、亡くなった祖母から負ぶい紐をとって自分で弟を負ぶって逃げたとのことだった。ご自身も砲弾の破片で背中にけがをされていた。「鉄の暴風」の中、必死で逃げ惑っていて、砲弾の破片が負ぶっていた弟にあたったのに気づかなかったのである。その悲しさや恐さは、なんともいえない。
もし、30cm前方を飛んでいたら、おばあちゃんも一緒に亡くなっていたかも知れない。そして、授業で発表したAさんもこの世に産まれてこなかった。
1分に満たないビデオであるが、戦場での生死は紙一重であることが鮮明になり、東京の子どもたちは大きな衝撃を受ける。
○沖縄の子どもたちが話していたのを聞いて「えっ~!」と思った。女の子のおばあちゃんはとってもかなしくて見ていられなかったと思う。自分の背中で弟が亡くなったけど、一生けんめいに逃げていたから、気がついてあげられなくて苦しかったんだろうな~と思うとこっちまで、悲しくなってきた。私は、この勉強をして、人を殺す気持ちが良く分からない。殺される人の気持ちになったら、絶対人なんか殺せないと思う。今日見たビデオを世界中の人々に見てもらいたい。少しでも人を殺す人がへると思う。昨今の憲法改悪をめぐる論議では、日本国内での最大で最後の沖縄戦から何も学んでいないように思えてならない。
○この沖縄戦は、とても悲しいものだったと、2回の授業で思いました。本来沖縄戦は、本土を守るためにやっていたが8月15日に降伏していたため無意昧になってしまった。私は、沖縄戦で亡くなった人が無意味な人生ではなかったよう、私たちが真実を導きだして二度と戦争をしないようにするべきであり何事も武力で争いをしないようにすべきだと思う。【2006年と2016年小学6年生の感想】
住民が生活している場での地上戦では、軍隊は住民を守らない。牛島満は、家族にも直接会った沖縄の人々に対しても優しい人であったようだ。しかし、その人々の命を奪う命令を司令官として出した。
沖縄戦に動員された日本軍兵士も故郷に帰れば良き夫、優しいお兄さんであった人が多かったであろう。戦場では、人が変わる。戦争は、人を変える。
再び、日本は、73年前の沖縄戦と同じような悲劇を繰り返そうとするのだろうか?(うしじまさだみつ)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 120号』(2018.6)
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