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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

考えることをやめたとき、平凡な人間が残虐行為に走る

2014年10月12日 | 人権
 《『図書』 三毛猫ホームズの遠眼鏡28》
 ◆ 今に活きる言葉
赤川次郎

 昨年(2013年)の秋、新聞で岩波ホールの「ハンナ・アーレント」の広告を見たとき、私は三つの意味で驚いた。
 一つは、こういう映画が作られていたことを全く知らなかったからである(東京国際映画祭で上映されていたようだが)。
 二つめは、よくこんな地味な映画の公開に踏み切ったものだ、という驚きだった。
 そしてもう一つは、「何とか、もう少し日本人に分りやすいタイトル(邦題)にできなかったものか」という思いだった。
 確かに原題は「ハンナ・アーレント」であり、他に考えようがないと言われればその通りだが、日本でハンナ・アーレントの名はどれくらい知られているのだろうか。哲学の世界では、二十世紀を代表する女性哲学者として名高く、またドイツには〈ハンナ・アーレント通り〉がある、と聞いたこともある。
 実のところ、私もハンナ・アーレントの著作を読んだことはない。ただ、何年か前にたまたま『アーレントとハイデガー』(エルジビェータ・エティンガー著、みすず書房)という本を読んで、アーレントの名を初めて知っただけだ。
 この映画に、どれくらい客が入るものか。岩波ホールのホームページを見て、驚いた。平日でも、大変な混雑だという。結局、映画は十万人以上の観客を動員、公開した側がびっくりするほどのヒットを記録したのだ。
 そして、今年、早くも「ハンナ・ア・レント」のDVD、ブルーレイが出て、私もやっと見ることができた。
 ユダヤ人として、ナチスの時代のドイツを生きたアーレントの生涯を映画化しようと思えぱ、難しいことはない。
 頭脳明晰な十八歳の美しい少女は、「存在と時間」で、すでに世界的名声を得ていた哲学者、ハイデガーにマールブルク大学で学ぶ。ここでアーレントは、妻子のあるハイデガーの愛人となって、小さな大学町で、人目をしのんで密会する。この事件だけでも充分にドラマチックである。
 またアーレントはナチスに捕えられて強制収容所へ入れられるが脱走、夫ブリッヒャーと共にアメリカに亡命する。
 戦後、ハイデガーがナチス協力者として弾劾されると、アーレントはかつての師で恋人だった老哲学者を弁護する。
 「私は子供だった」と、弁解するハイデガーを責めずにやさしく包むように接するアーレントには一種の母性さえ感じられる。
 こういうアーレントの人生を波乱万丈のドラマに仕立てれば、ハリウッド好みのメロドラマが容易に作れるだろう。
 しかし、監督のマルガレーテ・フォン・トロッタには、メロドラマなど全く作る気はなかった。映画は断片的な回想として、ハイデガーとの恋を登場させるが、この事情を知らない観客には何のことか分るまい。
 映画は、ナチ戦犯のアイヒマンの裁判を巡って、「平凡な人間こそが最大の悪を為す」と主張したアーレントが、ユダヤ人社会から中傷攻撃を受け、親しいユダヤ人の友を次々に失いながら、信念を曲げずに貫く姿にピントを合せる。
 映画「ハンナ・アーレント」を見た人の、おそらく大部分はアーレントのことも、アイヒマン裁判のこともほとんど知らなかったのではないだろうか。
 ただ、主演のバルバラ・スコヴァがタバコを手にもの思いにふける横顔の広告に、今の世にあまりに失われている「考えることの美しさ」を直感的に見てとったのではないか。
 十万人を超える人がこの映画を見たことは、手軽で浅いネットの知識に、少なからぬ人が不信感を持ち、本物の「知性」への憧れを抱いていることの証しだろう。
 映画のラストで、アーレントがアメリカの大学生たちへ語りかける八分間の力強いスピーチは本当に感動的である。
 「考えることをやめたとき、平凡な人間が残虐行為に走る」
 日の丸、君が代を強制し、君が代を歌う口の開け方を調べるなどという幼稚な行動ができるのは、「命令に従っていただけ」だという、アイヒマンの主張と同じで、「自分で考えることをやめた」からである。
 そして、「考えることで得るのは知識ではなく、善悪を判断する能力、美しいものと醜いものを見分ける力である」とアーレントは言う。
 -我が家で見ながらも、私は思わず居ずまいをたださずにはいられなかった。

 普通、映画のテーマをセリフで言わせることは禁物である。
 しかし、この映画では、セリフの言葉だけでなく、力強く語るアーレントの姿、声、口調、すべてがみごとな映像表現になっている。
 しかも、夫への深い愛や、孤独との闘いに疲れた人間的な、そして女性としてのアーレントの顔がていねいに描かれていることが、この最後のスピーチを生きたものにしているのだ。
 これは「考えること」と「生きること」を分かちがたい一個の人生として描いた類まれな傑作である。
 また、アーレントの親友として、メアリー・マッカーシーという懐しい名前が登場する。私が高校生のころ話題になった小説『グループ』の作者である。
 名門女子大を卒業した仲良しグループの女性たち、それぞれの幻滅と葛藤を描いて、当時としては大胆な性描写でも話題になったものだ。後にシドニー・ルメットによって映画化もされている。
 アーレントは大変なヘビースモーカーだったようで、ラストのスピーチの間もタバコを喫っている。主演女優のスコヴァは禁煙していたので、ニコチンフリーのタバコを使って撮影されたそうだ。アーレントが現代に生きていたら、タバコが喫えなくてノイローゼになったかもしれない。
 アーレントが昔のタイプライターをパチパチ打って原稿を書くシーンがいくつも出て来る。私もサラリーマンだったころ、あのインクのリボンを使ったタイプライターを打っていた。
 ところが、最近またあの旧式なタイプライターが息をふき返すかもしれないという。アメリカがドイツのメルケル首相の携帯電話を盗聴していたとして問題になったのは記憶に新しいが、アメリカのNSA(アメリカ国家安全保障局)の活動を調査する、ドイツの委員会が、どんな防止機能を付けても、パソコンを使う限り、盗聴やデータを盗み出されることは避けられないというので、「安全な旧式のタイプライター」の導入を検討しているとか(「週刊金曜日」8月22日号)。
 パソコンやインターネットの普及が一体誰のためのものだったのか、考えさせられる皮肉な話である。
 (あかがわじろう。作家)

岩波書店『図書』2014年10月号

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