◆ 足りないならなぜ増やさないのか(コラム狙撃兵・長周新聞)
東京が医療崩壊を迎えているなかで、病床に余裕を持たせるためとして菅政府がコロナ感染患者について「重症患者や重症化リスクが高い人以外は原則、自宅療養とする」と方針転換した。
にわかに信じがたい政策だが、要するに軽症患者、中等症患者については自宅療養すなわち医療を受けられぬ状態に追いやり、医師たちの保護観察下から切り離して放置するというものだ。
あからさまにいうと見殺しである。
既に自宅療養の軽症患者が容体急変で119番通報をしても半数以上が病院に搬送されないというのに、今日の爆発的感染への対処が医療体制の拡充ではなく、「自宅で寝てろ」というのだからあんまりである。
新型コロナウイルスの感染で軽症といった場合、それは40度の熱で起き上がれなくても呼吸はでき、特に肺炎所見も認められない人が該当する。
その多くは自然軽快するものの、なかには急速に病状が悪化する人もいる。
中等症1は呼吸困難や肺炎所見が認められ、これまでは入院させたうえで慎重に経過を観察するという対応だった。
なかには低酸素血症があって血中の酸素飽和度が下がっているにもかかわらず、自分では気付かず呼吸困難を訴えない人もおり、そこから急速に病状が悪化する人がいることもわかっている。
さらに重度の中等症2は、酸素飽和度が93%以下(呼吸不全)となり酸素吸入が必要な人で、ICUなど高度な医療を受けられる施設への移動を検討すべき段階とされてきた。
そして、重症は人工呼吸器やエクモを装着し、麻酔で眠っているか意識がない危険な状態の人のことを指す。
今回の政府の方針転換で自宅療養扱いになるのは、直接には軽症、中等症1の人々である。
医師たちがこれまでの経験から指摘しているのは、コロナの場合、それらの患者のなかでも急速に容体が悪化する人が少なからず存在するため、医療を施せる環境下で保護することの重要性だ。
医師が検診して様子を観察し、不測の事態に陥った際にはすぐに対処できるからにほかならない。
ところが、日本政府ときたら病床が足りなくなったら医療へのアクセスという門戸を閉じて、疫病禍で苦しむ国民に対して「自宅で寝てなさい」と追い返すような真似をしているのである。
世界中を見渡して、コロナ禍でこのような“見殺し”政策を採用している国が果たしてあるだろうか。
あたりまえに考えて、「足りないなら病床を増やす」をなぜ選択しないのかである。
各国の例を見てみると、昨年ニューヨークで爆発的感染が起きた際、クオモ知事は大型展示場や病院船などを利用して、およそ3週間で9万床のベットを確保した。野戦病院のようなテント作りの病床もあったが、とにかく病床を増やし、近隣の州から酸素吸入器などもかき集めて対応したことが取り沙汰された。
中国では武漢で10日間でユニットハウスによる巨大なコロナ患者用病院「火神山医院」をつくったことが国力の凄さと合わせて驚かれたが、その他にも体育館や大規模施設を利用して臨時病床をつくったり、軽症患者にいたるまで保護隔離する対応だった。
イギリスでもロンドン五輪会場を仮設病院につくり替えたナイチンゲール病院で4000床、500台の人工呼吸器を設置するなど、どこの国も「足りないなら病床を増やす」を選択し、体制の違いに関係なく為政者としては「国民の生命を守る」ための対処をしている。
医療体制の少なさという都合に患者を合わせて「自宅で寝てろ」をやる国など他になく、コロナの感染拡大や患者数の増大に照応して、なにがなんでも医療体制を確保するというのが当然の選択なのだ。
いざデルタ株に襲われると医療資源にもたどり着けない国に落ちぶれてしまった。国民の生命と財産を守るはずの政府がその責務を公然と放棄して、疫病禍のなかで多くの患者たちを見捨てるというのだから、これほどひどい話はない。
既に国家の舵取りを任せられるような連中ではないこと、危機に対して思考停止してしまい使い物にならない政府であることをあらわしている。
武蔵坊五郎
『長周新聞』(2021年8月5日【コラム狙撃兵】)
https://www.chosyu-journal.jp/column/21542
東京が医療崩壊を迎えているなかで、病床に余裕を持たせるためとして菅政府がコロナ感染患者について「重症患者や重症化リスクが高い人以外は原則、自宅療養とする」と方針転換した。
にわかに信じがたい政策だが、要するに軽症患者、中等症患者については自宅療養すなわち医療を受けられぬ状態に追いやり、医師たちの保護観察下から切り離して放置するというものだ。
あからさまにいうと見殺しである。
既に自宅療養の軽症患者が容体急変で119番通報をしても半数以上が病院に搬送されないというのに、今日の爆発的感染への対処が医療体制の拡充ではなく、「自宅で寝てろ」というのだからあんまりである。
新型コロナウイルスの感染で軽症といった場合、それは40度の熱で起き上がれなくても呼吸はでき、特に肺炎所見も認められない人が該当する。
その多くは自然軽快するものの、なかには急速に病状が悪化する人もいる。
中等症1は呼吸困難や肺炎所見が認められ、これまでは入院させたうえで慎重に経過を観察するという対応だった。
なかには低酸素血症があって血中の酸素飽和度が下がっているにもかかわらず、自分では気付かず呼吸困難を訴えない人もおり、そこから急速に病状が悪化する人がいることもわかっている。
さらに重度の中等症2は、酸素飽和度が93%以下(呼吸不全)となり酸素吸入が必要な人で、ICUなど高度な医療を受けられる施設への移動を検討すべき段階とされてきた。
そして、重症は人工呼吸器やエクモを装着し、麻酔で眠っているか意識がない危険な状態の人のことを指す。
今回の政府の方針転換で自宅療養扱いになるのは、直接には軽症、中等症1の人々である。
医師たちがこれまでの経験から指摘しているのは、コロナの場合、それらの患者のなかでも急速に容体が悪化する人が少なからず存在するため、医療を施せる環境下で保護することの重要性だ。
医師が検診して様子を観察し、不測の事態に陥った際にはすぐに対処できるからにほかならない。
ところが、日本政府ときたら病床が足りなくなったら医療へのアクセスという門戸を閉じて、疫病禍で苦しむ国民に対して「自宅で寝てなさい」と追い返すような真似をしているのである。
世界中を見渡して、コロナ禍でこのような“見殺し”政策を採用している国が果たしてあるだろうか。
あたりまえに考えて、「足りないなら病床を増やす」をなぜ選択しないのかである。
各国の例を見てみると、昨年ニューヨークで爆発的感染が起きた際、クオモ知事は大型展示場や病院船などを利用して、およそ3週間で9万床のベットを確保した。野戦病院のようなテント作りの病床もあったが、とにかく病床を増やし、近隣の州から酸素吸入器などもかき集めて対応したことが取り沙汰された。
中国では武漢で10日間でユニットハウスによる巨大なコロナ患者用病院「火神山医院」をつくったことが国力の凄さと合わせて驚かれたが、その他にも体育館や大規模施設を利用して臨時病床をつくったり、軽症患者にいたるまで保護隔離する対応だった。
イギリスでもロンドン五輪会場を仮設病院につくり替えたナイチンゲール病院で4000床、500台の人工呼吸器を設置するなど、どこの国も「足りないなら病床を増やす」を選択し、体制の違いに関係なく為政者としては「国民の生命を守る」ための対処をしている。
医療体制の少なさという都合に患者を合わせて「自宅で寝てろ」をやる国など他になく、コロナの感染拡大や患者数の増大に照応して、なにがなんでも医療体制を確保するというのが当然の選択なのだ。
いざデルタ株に襲われると医療資源にもたどり着けない国に落ちぶれてしまった。国民の生命と財産を守るはずの政府がその責務を公然と放棄して、疫病禍のなかで多くの患者たちを見捨てるというのだから、これほどひどい話はない。
既に国家の舵取りを任せられるような連中ではないこと、危機に対して思考停止してしまい使い物にならない政府であることをあらわしている。
武蔵坊五郎
『長周新聞』(2021年8月5日【コラム狙撃兵】)
https://www.chosyu-journal.jp/column/21542
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