《10・6予防訴訟第3回最高裁要請行動「要請書」から》
◎ 儀礼に教育が縛られることを恐れる
私は都立高校物理科教員として34年間勤務してきました。2004年、勤めていた高校の教育目標は、「自主的精神にあふれた創造的人間の育成、真理と平和を愛し、個人の尊厳を重んじる人間の育成」であり、この格調高い人間観に責任とやりがいを覚えてきました。
教育基本法では「普遍的にして、しかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及すること」が目指されています。民主的で自由な学びの場をめざし生徒の自主自立を尊重してきました。
生徒と共に修学旅行では広島原爆資料館等により平和学習を企画し「平和宣言」を行い中国新聞に載りました。
ある生徒の句 「叶えたし平和宣言近いうち」。
2002年12月イラク戦争開戦に際し、生徒会の呼びかけでクラブやクラス単位で若者らしい反戦平和の寄せ書きを作りました。私は、理科の授業でも、本質を探り、批判力を持とうと、科学利用の利益と破壊力、平和をも教材としました。
核の単元では、核兵器開発の歴史や原発・核燃料サイクルも学んで来ました。福島原発事故につながった原発安全神話は、教科書や文科省副読本、原子力テーマ館等によっても意図的政策は明らかです。生徒は、適切な多様な資料により事実を学ぶ権利があります。
2003年10月、東京都教育委員会は、公立学校に「卒業式等における国旗掲揚国歌斉唱の実施」という「10・23通達」を出し、校長が教職員に「日の丸」を正面に掲揚し指定の席で起立して「君が代」を斉唱する等、詳細な職務命令を出し、違反者には懲戒処分を予告しました。全都の卒業式にへ都教委から職員を派遣して監視し門では私服刑事が立ちました。
生徒は、学んだことやや国籍、中国残留子弟など多様な立場や考えがあります。しかし「内心の自由」の説明まで禁止されました。
2004年3月職務命令違反で我が校では8名が戒告処分になりました。憲法に保障された思想良心・信教の自由、子どもの学ぶ権利を奪うこの教育の危機に際し、2004年1月以来、400名の教職員が通達の違憲違法性を問う予防裁判を起こしました。
2006年9月、東京地裁、難波裁判長は、教職員側の主張を認める全面勝訴判決を出しました。石原都知事のもとでの都教委と一部の都議会議員の政治的な教育介入の事実は、予防地裁判決で明らかです。しかし、都教委側は、現在まで、437名の処分者を出し続けいます。
高裁では、憲法・教育学者等尋問、原告教員陳述など丁寧な論証が重ねられました。しかし、2011年1月、都築裁判長は、逆転、教員側完全敗訴の判決を出し、この学校現場の異常な縛り、人権を土台とする教育に対する司法の無理解、無視をあらわにした判決に対し現在最高裁に上告中です。司法の責務と良心において適切な判決を出し、息ができる自由な学び場に戻るよう切望しています。
この5月以来、10・23通達関連そして福岡県立高校教諭の最高裁判決が続いていますが、いずれも教員側の切実な訴えを退け、コピーしたような内容で憲法の条理にそった納得できる説明理由を欠くものでした。裁判官が、今日の教育の窮状に対していかに無理解あるいは現状是認を示すものであるかとおもいます。今後の日本の教育、社会のあり方に対し司法の責任は重大です。
合憲判決(多数意見)は、「職務命令が個人の思想良心を直ちに制約するものでない」と断じ、「起立斉唱行為は一般的客観的に見て、慣例上の儀礼的所作であり、外部からもそう認識される」と、極めて問題にならない軽いこととしました。「教育上の行事にふさわしい秩序確保」が優位で、学校教育法などを上げています。そして、憲法19条思想良心の自由を、制約するものとして「秩序確保」それを「公共の福祉」としてしています。
しかし、憲法19条、および20条信教の自由は、憲法の土台であり、基本的人権の尊重からして個人の尊厳から出発するものである、「一般的」なものではなく個人の尊厳にかかわるものです。
また、国旗国歌が「日の丸・君が代」であり、戦前の皇民化教育、軍国主義と切っても切れない負の遺産を負っていることは、歴史的に客観的な事実であり、それ故、学校教育で強制されることに危惧の念を持っている市民が多数いることも「客観的」事実であり、このことを、合憲判決はあえて無視していると思われます。
「慣例上の儀礼的な所作」といわれると、わたしは、また、キリスト者として、戦前の1942年全国で旧ホーリネス教会の牧師134名が「治安維持法」違反により検挙されたその教会の一員として「日の丸・君が代」と、今なお大嘗祭という神事を通して天皇に即位する象徴天皇制と国家神道の関係を問題にせずにはいられません。
戦前、天皇制国家神道が神社参拝、宮城遙拝を、宗教ではなく*国民儀礼として強制し、戦後、信教の自由を訴える裁判では「習俗」として神社と行政の関わりが不問にされ温存されていることと同様に、最高裁が、「慣例上の儀礼的な所作」と命名して是認しようとする意図的な方策を恐れます。このようにして、心が縛られ、教育が縛られることを恐れます。
いったい「秩序維持」といい「慣例的な一般的、儀礼的所作」であるなら、なぜ、学校と言う教育の場で、職務命令と処罰と言う恫喝まで用いて強制しなければならないのでしょうか。
ここに、隠れた行政の意図があることは明らかで、「10・23通達」発出前後の異常な事実、石原都知事・教育委員会と一部の都議による策動があったとことは、東京地裁難波判決でもあきらかです。
宮川光治裁判官反対意見に明らかなように、「・・歴史観等に対する強い否定的評価を背景に、不利益処分を持って、その歴史観等に反する行為を強制することにある」わけです。
「10・23通達」と前後してこの8年間で、学校は、教育委員会からの上意下達のシステムが貫徹し職員会議は、挙手による教職員の採決さえ厳禁となり、学校現場を著しく変わり、「個性豊かな文化の創造をめざす教育」ののびのび感が圧縮され、生徒は競争教育にかられています。
「10・23通達」と同時に、国旗国歌に関する生徒会活動は弾圧を受け、校長、生徒会顧問教員の70名の処分によって厳禁されています。
「10・23通達」は、教職員の起立斉唱の態度を模範とし、違反教員の処分をもって、生徒たちに黙従をしいる目的は明らかであり、生徒が不起立な場合、指導をするよう通達され、体をゆする等の「指導」をされた者もいます。
*生徒たちは、このような重大な問題を互いに討論し、意見を表明する機会を奪われ、それは、ほかの多くに及び、市民としての自治能力を育てる機会を奪われているのです。これはわが国の将来に重大な禍根を残すのではないでしょうか。
2010年6月、国連子どもの権利委員会から日本政府への勧告が出ました。
日本の子ども達が国連権利委員会で訴えました。「私たち子どもは、学校で家庭で、大人の言うとおりになることを強いられ、性格まで評価されている。話しを聞いてもらえず、頼れる大人を持てない。自分の意見を表明する場がなく、しかも、友達は競争相手、本心を隠し、心に蓋をして互いに孤立している。このひどい苦しみに大人たちは無関心だ」と。
本委員会は、2004年第2回の勧告が、全く実施されていないと重ねて勧告し、学校や児童相談所、政策決定の過程で、子どもの意見が省みられることがないこと、「子どもを権利を持つ人間として尊重しない伝統的な見方により、子どもの意見を顧慮しないことが著しい。」と言及しています。
これは、「子どもの権利を認めると、権利ばかりを主張して親や大人に従わなくなる。子どもは親や権威に従うべきだ」とした根強い見方が存在し、子どもの人権に対する誤解や無理解の原因であるとしています。
子どもの人権条約の意識を、子ども自身や、親、教育関係者(警察、児童相談所、カウンセラーを含む)に効果的に普及させることが愁眉の急であると強く述べ、人権に関わる誤った研修の見直し、子どもの権利の研修機会の必要性を求め、国から独立した人権救済機関の設立を勧告しています。
最高裁判所は、その責任と良識において、適切な判決を出し、教職員と生徒・子どもたちが十分その能力を発揮できる共生協力できるのびのびとした学校になるよう心から願います。
◎ 儀礼に教育が縛られることを恐れる
上告人兼申立人 木村葉子
私は都立高校物理科教員として34年間勤務してきました。2004年、勤めていた高校の教育目標は、「自主的精神にあふれた創造的人間の育成、真理と平和を愛し、個人の尊厳を重んじる人間の育成」であり、この格調高い人間観に責任とやりがいを覚えてきました。
教育基本法では「普遍的にして、しかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及すること」が目指されています。民主的で自由な学びの場をめざし生徒の自主自立を尊重してきました。
生徒と共に修学旅行では広島原爆資料館等により平和学習を企画し「平和宣言」を行い中国新聞に載りました。
ある生徒の句 「叶えたし平和宣言近いうち」。
2002年12月イラク戦争開戦に際し、生徒会の呼びかけでクラブやクラス単位で若者らしい反戦平和の寄せ書きを作りました。私は、理科の授業でも、本質を探り、批判力を持とうと、科学利用の利益と破壊力、平和をも教材としました。
核の単元では、核兵器開発の歴史や原発・核燃料サイクルも学んで来ました。福島原発事故につながった原発安全神話は、教科書や文科省副読本、原子力テーマ館等によっても意図的政策は明らかです。生徒は、適切な多様な資料により事実を学ぶ権利があります。
2003年10月、東京都教育委員会は、公立学校に「卒業式等における国旗掲揚国歌斉唱の実施」という「10・23通達」を出し、校長が教職員に「日の丸」を正面に掲揚し指定の席で起立して「君が代」を斉唱する等、詳細な職務命令を出し、違反者には懲戒処分を予告しました。全都の卒業式にへ都教委から職員を派遣して監視し門では私服刑事が立ちました。
生徒は、学んだことやや国籍、中国残留子弟など多様な立場や考えがあります。しかし「内心の自由」の説明まで禁止されました。
2004年3月職務命令違反で我が校では8名が戒告処分になりました。憲法に保障された思想良心・信教の自由、子どもの学ぶ権利を奪うこの教育の危機に際し、2004年1月以来、400名の教職員が通達の違憲違法性を問う予防裁判を起こしました。
2006年9月、東京地裁、難波裁判長は、教職員側の主張を認める全面勝訴判決を出しました。石原都知事のもとでの都教委と一部の都議会議員の政治的な教育介入の事実は、予防地裁判決で明らかです。しかし、都教委側は、現在まで、437名の処分者を出し続けいます。
高裁では、憲法・教育学者等尋問、原告教員陳述など丁寧な論証が重ねられました。しかし、2011年1月、都築裁判長は、逆転、教員側完全敗訴の判決を出し、この学校現場の異常な縛り、人権を土台とする教育に対する司法の無理解、無視をあらわにした判決に対し現在最高裁に上告中です。司法の責務と良心において適切な判決を出し、息ができる自由な学び場に戻るよう切望しています。
この5月以来、10・23通達関連そして福岡県立高校教諭の最高裁判決が続いていますが、いずれも教員側の切実な訴えを退け、コピーしたような内容で憲法の条理にそった納得できる説明理由を欠くものでした。裁判官が、今日の教育の窮状に対していかに無理解あるいは現状是認を示すものであるかとおもいます。今後の日本の教育、社会のあり方に対し司法の責任は重大です。
合憲判決(多数意見)は、「職務命令が個人の思想良心を直ちに制約するものでない」と断じ、「起立斉唱行為は一般的客観的に見て、慣例上の儀礼的所作であり、外部からもそう認識される」と、極めて問題にならない軽いこととしました。「教育上の行事にふさわしい秩序確保」が優位で、学校教育法などを上げています。そして、憲法19条思想良心の自由を、制約するものとして「秩序確保」それを「公共の福祉」としてしています。
しかし、憲法19条、および20条信教の自由は、憲法の土台であり、基本的人権の尊重からして個人の尊厳から出発するものである、「一般的」なものではなく個人の尊厳にかかわるものです。
また、国旗国歌が「日の丸・君が代」であり、戦前の皇民化教育、軍国主義と切っても切れない負の遺産を負っていることは、歴史的に客観的な事実であり、それ故、学校教育で強制されることに危惧の念を持っている市民が多数いることも「客観的」事実であり、このことを、合憲判決はあえて無視していると思われます。
「慣例上の儀礼的な所作」といわれると、わたしは、また、キリスト者として、戦前の1942年全国で旧ホーリネス教会の牧師134名が「治安維持法」違反により検挙されたその教会の一員として「日の丸・君が代」と、今なお大嘗祭という神事を通して天皇に即位する象徴天皇制と国家神道の関係を問題にせずにはいられません。
戦前、天皇制国家神道が神社参拝、宮城遙拝を、宗教ではなく*国民儀礼として強制し、戦後、信教の自由を訴える裁判では「習俗」として神社と行政の関わりが不問にされ温存されていることと同様に、最高裁が、「慣例上の儀礼的な所作」と命名して是認しようとする意図的な方策を恐れます。このようにして、心が縛られ、教育が縛られることを恐れます。
いったい「秩序維持」といい「慣例的な一般的、儀礼的所作」であるなら、なぜ、学校と言う教育の場で、職務命令と処罰と言う恫喝まで用いて強制しなければならないのでしょうか。
ここに、隠れた行政の意図があることは明らかで、「10・23通達」発出前後の異常な事実、石原都知事・教育委員会と一部の都議による策動があったとことは、東京地裁難波判決でもあきらかです。
宮川光治裁判官反対意見に明らかなように、「・・歴史観等に対する強い否定的評価を背景に、不利益処分を持って、その歴史観等に反する行為を強制することにある」わけです。
「10・23通達」と前後してこの8年間で、学校は、教育委員会からの上意下達のシステムが貫徹し職員会議は、挙手による教職員の採決さえ厳禁となり、学校現場を著しく変わり、「個性豊かな文化の創造をめざす教育」ののびのび感が圧縮され、生徒は競争教育にかられています。
「10・23通達」と同時に、国旗国歌に関する生徒会活動は弾圧を受け、校長、生徒会顧問教員の70名の処分によって厳禁されています。
「10・23通達」は、教職員の起立斉唱の態度を模範とし、違反教員の処分をもって、生徒たちに黙従をしいる目的は明らかであり、生徒が不起立な場合、指導をするよう通達され、体をゆする等の「指導」をされた者もいます。
*生徒たちは、このような重大な問題を互いに討論し、意見を表明する機会を奪われ、それは、ほかの多くに及び、市民としての自治能力を育てる機会を奪われているのです。これはわが国の将来に重大な禍根を残すのではないでしょうか。
2010年6月、国連子どもの権利委員会から日本政府への勧告が出ました。
日本の子ども達が国連権利委員会で訴えました。「私たち子どもは、学校で家庭で、大人の言うとおりになることを強いられ、性格まで評価されている。話しを聞いてもらえず、頼れる大人を持てない。自分の意見を表明する場がなく、しかも、友達は競争相手、本心を隠し、心に蓋をして互いに孤立している。このひどい苦しみに大人たちは無関心だ」と。
本委員会は、2004年第2回の勧告が、全く実施されていないと重ねて勧告し、学校や児童相談所、政策決定の過程で、子どもの意見が省みられることがないこと、「子どもを権利を持つ人間として尊重しない伝統的な見方により、子どもの意見を顧慮しないことが著しい。」と言及しています。
これは、「子どもの権利を認めると、権利ばかりを主張して親や大人に従わなくなる。子どもは親や権威に従うべきだ」とした根強い見方が存在し、子どもの人権に対する誤解や無理解の原因であるとしています。
子どもの人権条約の意識を、子ども自身や、親、教育関係者(警察、児童相談所、カウンセラーを含む)に効果的に普及させることが愁眉の急であると強く述べ、人権に関わる誤った研修の見直し、子どもの権利の研修機会の必要性を求め、国から独立した人権救済機関の設立を勧告しています。
最高裁判所は、その責任と良識において、適切な判決を出し、教職員と生徒・子どもたちが十分その能力を発揮できる共生協力できるのびのびとした学校になるよう心から願います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます