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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

大阪キリスト者「君が代」不起立裁判報告

2014年04月24日 | 日の丸・君が代関連ニュース
  《4・20全国集会資料から》 2014年4月20日集会版 クライングストーンズは支える会の会報
 ◆ CRYING STONES 特別号
報告者:奥野泰孝(1957年生まれ。グループZAZAのメンバー)


 2012年3月、卒業式「不起立」で戒告処分。不服申立てを大阪府人事員会にする。2014年4月10日、第1回公開口頭審理。奥野の冒頭陳述の後、I支援学校の元準校長の尋問が行われました。
 府教委側の主尋問は、すでに出ている書面の確認に終始し、45分の予定が30分で終わりました。
 反対尋問は代理人弁護士に奥野も加わり、1時間を越えました。いろいろ矛盾点をあぶり出せたと思います。いつも沈着冷静に見える府教委の弁護士が動揺しているようでした。
 2回目は不起立を現認した元教頭と不起立の同僚山口さんが証人です。3回目が本人尋問です。
 2013年3月の卒業式では「減給処分」。私は「憲法を守る」という公務員としての自覚を持ち、教育という仕事をしていたのです。しかし府教委は非行と言います。
 9月24日には大阪地裁に提訴。名称は「給与等減給処分取消等請求事件」。4月に不服申し立てをした人事委員会での減給処分についての審査手続きは中断しています。裁判口頭弁論は11月6日、12月25日、2月19日、4月21日と続きますが、書面のやり取り等の確認が主です。第1回弁論での冒頭陳述を短くして紹介します
 =「給与等減給処分取消等請求事件」冒頭陳述=
 ◎ キリスト者として、不起立の訴え


 私は今年3月27日、口頭で出された職務命令に違反したということで減給10分の1、一か月という処分を受けました。
 これは、服務規律の問題ではなく、「国歌」や「君が代」をどう教えるかという教育の問題であり、人権の問題だと思います。
 処分の根拠となった大阪府の国旗国歌強制条例とそれに基づく教育長の通達、それに基づく管理職の職務命令が憲法違反であると訴えます。
 私の「不起立」という行為は、社会の少数者の気持ちの現れであり、公共性があり、公益性があると考えます。全体の奉仕者として間違っていないと思います。
 私への処分は、府教委が人権侵害をし、「思想・良心の自由」を、「信教の自由」を、「表現の自由」を侵害し、そして憲法26条にある「学習権」をも侵害することになると思います。
 ◎ 卒業式にいたる状況
 私は「国歌斉唱」時に起立するかどうかと、管理職に何度も質問されてきました。特に2013年2月から3月にかけては、度を越していて、仕事に支障が出るほどでした。
 3月1日(金)卒業式予行の後、教室で生徒と共に給食準備中、准校長がやってきて「式場外の職務を命ずる場合」について説明し、「今年の卒業式はどうするのか」と質問しました。私は「わかりません、迷ってます」と答え、また「どうして給食指導中にそんなことを言いに来るのですか」と訴えました。その場で議論が数分ありました。
 肢体不自由の生徒のクラスで、大人が配膳をしながら、生徒にも出来る事をさせるという「給食」という授業の最中です。また、クラス担任は複数ですが、給食前のトイレ介助もあり、手薄になっていました。児童・生徒の支援のため職員の仕事環境を整えるべき管理職が、給食指導を妨害するような状況でした。
 3月5日(火)朝、登校時の生徒の移動介助中の事です。廊下で車いすから歩行器へ移動しようと立つ生徒の介助をしていた時、背後から「おはよう!○○君」と准校長が生徒にあいさつの声。そして、私に「どう?卒業式でどうする?考えた?」と話しかけてきましたが、私は生徒の介助中なので、焦りました。生徒から目を離せない、そして廊下の立ち話で出来るような話題ではないのにと困惑し、「こんな状態だから後にしてください」と言うと、「11時に准校長室に来るように」と言われました。私は「生徒が学校にいる間は行けないかもしれません」と答えました。
 その日の4時間目(11時30分から12時5分)、授業中、教室前の廊下でH教頭が立っていました。私は見張られているように感じました。11時に准校長室へ行かなかったからだと思います。
 授業終わって、廊下で待つ教頭に「給食準備があるから准校長室へ行くのは、無理です」と伝えました。
 給食が終わる12時50分頃にも廊下に教頭が来ていました。私が午後の授業の準備に廊下に出ると「1時に准校長室に来るのは無理ですか」と聞かれたので「放課後なら行けます」と答えました。
 13時5分、准校長がHR教室まで来ました。「生徒がいるので後にしてほしい」と言いながらも「少しだけなら聞きます」と応じ、廊下で話しました。
 准校長は「立たないなら、入学式の時のように式場外の職務命令を出します。」と言い、私は反論しました。5分ほどのやりとり。准校長は「伝えましたよ」と自分が「仕事をした」と念を押すように言って去りました。
 不安そうに見ている生徒がいました。私は同僚の目にどう映ってるか気になってきました。
 3月6日(水)16時15分~16時50分。准校長室で、校長、准校長、H教頭と面談で、意向確認され、「迷っている」と答えました。
 3月7日卒業式当日、ほとんど眠れない状態で朝を迎えました。やはり自分を裏切る選択はできないと「立てません」と伝えました。すぐに受付業務を命じられました。
 受付業務を終了してから、介助と教育活動の必要を感じ生徒のいる式場に入りました。ところが式場内で教頭二人に、「式場を出るように」指示されました。「国歌斉唱」時、立たないでいると「立たないなら式場を出てください」と言われました。
 ◎ 信教の自由について
 「君が代」の強制は、憲法20条「信教の自由」を侵している、と私は訴えます。
 「君が代」は「国家神道」の宗教歌であり天皇を神と讃える歌でした。だから、そういう過去から繋がり今を生きるキリスト者である私は、「君が代」を歌えません。
 かつて天皇制は、軍国主義の下、国家神道によって政治的にも宗教的にも強化されました。国家神道は政府によって非宗教とされ、それ以外の教派神道、仏教、キリスト教などを国が管理支配するために宗教団体法が制定されました。宗教団体とし国の認可を得るための諸条件をクリアしなければならない、そして治安維持保法によって危険思想・反国家的信仰と見なされないようにしなければならない、という圧力の中で、日本のキリスト教会は妥協を迫られました。
 国策によってつくられた「日本基督教団」の指導者冨田満氏は1938年に朝鮮に行き、神社参拝を拒否するキリスト者にこう言っています。
 「諸君の殉教的精神は立派だが何時日本政府は基督教を棄てて神道に改宗せよと迫ったか。その実を示して貰いたい。国家は国家の祭祀を国民としての諸君に要求したに過ぎまい。・・(中略)・・明治大帝が万代に及ぶ大御心を以て世界に類なき宗教の自由を賦与せられたものをみだりに遮るは冒涜に値する。」と。
 朝鮮では神社参拝を拒否した二千人以上のキリスト者が投獄され、50人以上の牧師たちが殉教しました。また国内では、ホーリネス系教会の教職者130名以上が検挙され、7名の獄死者が出ました。検挙理由は、天皇統治を否定すると判断されたから。
 この事実に対し反省したから日本国憲法20条があると思います。「君が代」は、国家神道による国民精神の統制に使われてきました。「君が代」の強制は、戦争責任を曖昧にし、日本の国家の道徳性を損ない、品性をおとしめています。「日の丸・君が代」は偶像礼拝につながります。偶像崇拝によって真実から目を背けさせられ、思考停止に陥ります。本当の信仰は思考を活発にさせると思います。
 ◎ 児童生徒保護者への強制
 私は教員だから「国歌斉唱」時、不起立を選び、「国歌斉唱」時でも式場内に居たのです。教員たちが一斉に起立することは、児童生徒・保護者への強制に繋がると思います
 ある校長は、私にこう言いました。「児童生徒に立つように指導するのが仕事です。保護者の方針で立たせたくないと言われれば、保護者を説得するのも仕事だと思います。」と。それは違うと思いますと私は反論しました。
 いろいろな心情があり、たとえ「国歌斉唱」があっても起立しない自由、歌わない自由が保障されるべきであり、それを公務員である教員は身をもって示すべきと思います。私はかつて自分の子どもの卒業式で、座っている教員がひとりでもいることにホッとしました。
 2012年の入学式で私は新入生の担任なのに式場に入るなと職務命令を出されました。それを受け入れました私の心に、教員としてこれでいいのか、人としてこれでいいのかという思いが残りました。
 そして2013年3月の卒業式で私は式場へ入りました。翌月の入学式では、駐車場係をしました。開式ギリギリにやってきた新入生と保護者が鍵のかかってない入り口を探してに入ろうとして困っていました。私がただ一つ開いていた事務室前入口から校舎内に入ると事務主査が「もう国歌斉唱は終わりましたか」と聞きます。私は「わかりません」と答えました。
 国歌斉唱が終わった段階で、その事務主査は、校舎出入り口の開錠をしてまわっていました。同僚が式後そのことを事務長に言うと「奥野対策で校長から言われていた」と答えたそうです。
 ◎ 学習権の侵害。特に特に特別支援学校において。
 児童・生徒は、「君が代」について事実を知り、考え、自分で判断するという機会を奪われ、学習権を侵害されています。「人権」諸問題の中で、この重要な事実は学校で隠されてはいけません。
 職務命令であっても、私が従えないのは、長年、教員として生徒の前で「間違っていると思うことは一人でも発言して行こう。一人の発言から世の中が変わっていく」という事を言ってきたからです。
 私は同和教育、人権教育の係をやってました。「天皇制を考える」という主旨の授業もしました。天皇制の元で侵略戦争があり、アジアの多くの人々が苦しめられたのだと伝えました。このような学びの後で、「君が代」起立斉唱は強制できません。そもそも教育に強制はなじまないと私は考えています。
 8年前、特別支援教育の現場に来て、気がついたことは、「本人の努力で何かをできるようになる、あるいはできるように支援すること」が教育にとって大事なのではなくて、「仲間と一緒に関係を深めながら、できないことができるようになる、お互いにわからなかったことがわかるようになる、それが大事なことなんだ」ということです。
 それは私に、キリスト者の生き方を思い出させます。強いものが勝つ競争社会が肯定されるのではなく、共に支えあいながら成長して行き、正しいものこそ前に進める、そのような社会こそ目指すべき社会ではないかと思います。そのことを目指す教育でなければならないと思います。
 前大阪府知事が言った「面従腹背」などということが学校教育現場で勧められるなんて信じられないことです。もし私が「たかが三分間立ってるだけじゃないか」と、自分の良心を裏切るなら、それは恐ろしいことです。
 支援学校の教員は、児童生徒の安全を守るという責任があります。生徒の中には、起立したくても、できない者がいます。長時間、同じ姿勢でいることが、危険を伴う者もいます。それぞれが、自分たちの可能な状態で、式に出席しています。
 その児童生徒1人1人に適切に対応することが、教員には求められています。「国歌斉唱」時には起立するが、「校歌斉唱」時には着席し、起立できない生徒に寄り添い共に校歌を歌っている教員がいるのです。職務命令が有無に依るのです。
 また、周りで起立することによって立てない生徒の視野を塞いでいることも学習権の侵害です。教員は子どもたちの学習権を保障する立場に立つべきだと考えます。職務命令違反という処分を受けましたが、私は職務を全うしたと考えます。よって私に対する減給処分は不当でありただちに取り消すことを訴えます。この問題は私にとって宗教の問題でも政治の問題でもなく、信仰の問題であり教育の問題なのです。
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