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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

教育への干渉は行政権力から政治権力へ変わりつつある

2013年11月11日 | こども危機
 ▲ 特定の会社の教科書採択を妨げようとする動きが各地で起きるのはなぜか
中田康彦(一橋大学)

 ▲ 「強制」という表現が「争点」として使われた
 東京、神奈川、埼玉、大阪と、立て続けに、特定の会社から刊行されている教科書の採択に干渉しようとする動きが生まれている。
 横浜では中学で配布する副読本の記述をめぐって改訂を求める動きが生じている。
 沖縄県八重山地区の中学公民の教科書採択への干渉も同じタイミングで浮上してきたが、これは教科書無償措置法と地教行法という二つの法律の齪齪に起因しているという固有の事情があるが、政権交代後に政治家からあがった声によって、国が町の採択判断に権力的に干渉しようとしているのは、高校教科書の採択における〈教育委員会一学校〉の関係に通じるものがある。
 干渉派が問題視しているのは、日の丸・君が代に関する叙述である。

 日の丸・君が代をめぐる施策の妥当性については、国旗・国歌法制定以前から大きな論争点になっていた。
 「強制」という印象を高校生に持たれることを日の丸・君が代推進派が嫌ってこうした動きに出ていることは疑いない。
 だが、「強制していると書くとは何事か」という推進派としての素朴な憤りとは別に、教科書市場の支配をめざすうえでの絶好の攻撃材料を見つけたとして、ここに攻撃の焦点を限定することによって採択動向を有利に仕向けようという思惑も透けてみえる。
 執筆陣が思いをこめて選んだ表現を、逆に効果的に利用しようとしているのである。

 ▲ なぜ複数の都府県で同時に起ぎるのか

 教科書検定は国レベルの問題であるのに対し、教科書採択は地方公共団体レベルの問題である。
 さらに高校教科書は実質的に学校採択となっている。小中学校の教科書のように広域採択制の下で一気にシェアを奪えるようなオイシイ場面ではない
 一昨年の横浜市のように、小中学校教科書の採択地区分割を廃止して市内全中学校で育鵬社版を使わせるよう徹底したといった、ゲリマンダー戦術(※)も高校では使いづらい。
 そこで教育委員会(事務局)に通知を出させるという形式をとって、採択をコントロールしようとした。
 それぞれの地方公共団体で独自の判断があってよいはずなのに、なぜ複数の都府県で同じような動きが起きるのだろうか。
 今回の教科書採択の事例に隈らず、ある地方公共団体が始めた施策が、他の地方公共団体にも採用されて波及していくということがみられる。
 これは中央→地方といった、"上下関係"の中でトップダウン式にすすめられる政策過程ではない。同じ都道府県レベル同士、市町村レベル同士で水平的に展開される政策伝播である。
 このような政策伝播が起きる背景には、政策評価・行政評価が本格化し、それぞれの部局において果たすべき行政責任を果たしているのか、説明責任(アカウンタビリティ)の遂行が強く求められるようになったことがある。他では実施しているのにウチで実施しないのはなぜかと問われると、よほど具体的理由がない限り説明しづらい空気ができあがっている。
 その強迫観念をあおるのが目標管理制度である。

 目標管理は教員人事考課や学校評価だけで行われているのではない。むしろ学校に先駆けて行政機関に導入された経緯がある。
 1990年代末から行われた行政改革によって規制緩和がすすみ、地方公共団体の裁量は一見強まったようにみえる。しかし評価による結果責任が厳しく問われるようになり、かたちある目標を掲げ、それを具体化することに追われるようになった。
 「お役所仕事」と表現される無作為の連続よりましと思う人がいるかもしれない。だが、政策目的を実現するためというより、目標の体裁を整え、達成したという結果をひねり出すことが自己目的化するといった状況になると話がちがう。
 そのような目標管理に規定されているのは行政機関だけではない。
 最近はマニフェストという言葉をあまり聞かなくなったが、数値目標を掲げて、わかりやすさをアピールする傾向は政治家にもみられる。
 ▲ 政治主導が意味するもの

 もっとも、教科書採択への干渉の最大の原因は、目標管理や評価による品質保証が求められる社会になったことよりも、保守勢力の活発化に見出すべきだろう。
 政党政治においては与野党というかたちで対立しているはずの自由民主党と日本維新の会は、保守政治の推進という利害においては一致しており、それぞれが得意とする地域で政策の保守化に努めている。
 民主党が掲げた「官僚主導から政治主導へ」という方針は、敵対していた自由民主党に継承された。
 日本維新の会が掲げる「民意」という言葉も、いうなれば官僚に支配されていた行政主導に対し、住民・国民を代表する政治家に主導権を渡せという意図が明白にこめられている。
 いうなれば、住民・国民の不満・不信「民意」という名のもとにあたかも民主主義を体現しているかのような装いに利用されているのである。
 だが、その民意とはどのようなものであるかというと、これが難しい。
 2009年夏の総選挙で民主党が大勝を収めたのは、自由民主党政権に対する不満の表れであった。
 同様に2012年冬の総選挙、2013年夏の参院選で自由民主党が大勝を収めたのも、民主党政権に対する不満の表れであった。
 先日開票された堺市長選では現職が再選されたが、これは議会で多数を占める大阪維新の会の大阪都構想に対する反発によるものであった。
 つまり、浮動層がどこに不満を向けるかによって趨勢が決定するという状態が続いている。
 草の根保守が一気に進んでいるわけではない。だが、よどむ不信がどこに向けられるのかによって、政局に限らず世論が不安定に揺れ動く。
 不信の眼が向けられているのは政治だけではない。輪郭があいまいではあるが確かに蓄積されている教育不信の矛先が保守勢力によって利用されたのが、今回の教科書採択をめぐる動きといえる。
 ▲ 教育の政治化による教育行政の自律性のゆくえ

 政治主導の動きが浮動層の上に成り立っているため、教育の政治化は教育や教育行政を不安定にする。
 かつて教科書をめぐる教育の自律性の問題は、教科書検定に関して国家権力の干渉の是非というかたちで議論されてきた。
 いま、教育の自律性をめぐる問題の焦点は教科書検定から教科書採択へと移行し、土俵は国から地方へと移されつつある。
 同時にそれは、教育の自律性に干渉する相手が、文部科学省という行政権力から保守勢力という政治権力へと変わりつつあることを意味している。
 いまや学校だけでなく教育委員会もが権力的な介入の対象とされている。
 危機にさらされているのは教育の自律性だけではなく、教育行政の自律性もである。
 教育委員会が必ずしも信頼できるとは限らない。しかし埼玉県の事例は、政治勢力からの圧力に対し、教育委員会が教育行政の自律性をかざして抵抗したものとみることができる。
 教育委員会制度の見直し論議が本格化してきた。教育長に権限を集中させる構想が浮上しているが、同時に首長と教育長の連携を強めることがうたわれている。
 それは独立委員会としての教育委員会の裁量を縮小させ、教育行政の自律性を制限することを意味している。
 教科書採択をめぐる動きは、教育の自由を脅かすうねりの一つである。何を守るべきで誰が本当の敵なのか、他の政策動向とあわせてみすえていきたい。(なかたやすひこ)
 ※ゲリマンダー戦術…自分たちが有利になるように改変すること。

『子どもと教科書全国ネット21ニュース 92号』(2013.10)

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