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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

女一揆 米騒動から100年

2018年10月06日 | 格差社会
  =現地富山県滑川市からのレポート=
 ◆ 「米をよそにやらないで」漁師の女房達
   ~社会運動と民主主義が拡がる
(週刊新社会)


 「女一揆米騒動から100年」が、今年だ。
 1918(大正7)年7月22日、富山県漁津の漁師の女房たちの井戸端会議での話し合いから、天井知らずの米の暴騰への不満が陳情行動へと駆り立てた。働いても働いても喰えない現実の生活へのいらだちと怒りであった。
 米騒動の背景には、第一次世界大戦、ロシア革命に干渉するシベリア出兵を日本は連合国と実行、そこで、米価高騰を期待して米穀大商人の投機的買い占めで米価は暴騰した。漁民の玄房、農民、労働者たちが立ち上がり米騒動は全国へと飛び火していく。
 ◆ 米価の騰貴の事情
   第一次世界大戦、ロシア革命に干渉するシペリア出兵

 第一次世界大戦に日本は連合国側で参戦、これが国内にリベラルな風潮を与える一因となり、日本資本主義は未曽有の好況を経験した。
 日本は戦禍を受けず軍需・民需品の受注で工業生産が進み、戦前と逆に工業生産額が農業生産額をはるかに凌ぎ日本経済に多額の利益をもたらし、成金が輩出した。
 しかし国民大衆は物価高騰、とくに米価高騰で貧しい生活を強いられた。
 1918年8月2日寺内内閣はロシア革命に干渉すべくシベリア出兵を決定、米価高騰を見越した米穀大商人の投機的買い占めで米価がいち早く一石40円(1升40銭)以上に高騰し、北海道・樺太の商人の米の買い占めで富山県内の港から大量の米の積み出しにより、米価は天井知らずの暴騰を示した。
 ◆ 富山魚津で米騒動始まる
   マスコミの果たした役割も大きい

 主食の米価が上がったらたまらない。富山の漁村の主婦たちが立ち上がり、遂に米騒動が勃発。「越中の女一揆」として新聞に載った。
 7月18日頃毎夜、魚津の漁民の主婦たちが、「米をよそにやるから高くなる。ジョーキに米を積ませんようせんまいけ」と話し合い、米騒動の火ぶたを切る。
 23日朝、北海道に米を移出するため沖合に来ていた船に米を積ませない請願に漁民の主婦たち46人が海岸に集まったが、いち早く察知した警官が解散させる。
 退散後、漁民の主婦たちは米運びの仲仕たちに、「あんたらが米を積みだすから高くなる。どうしてくれんがいね」と泣き罵る作戦に出た。
 さらに魚津町の米穀商店を訪れ、「米をよそにやらないで」と懇願した。

 この経緯を『富山日報』『北陸タイムス』が報道、全国に配信された。
 7月27、28日東岩瀬町(現富山市)、8月2日泊町(現朝日町)で婦女たちが救助哀願を協議した。高岡市でも米を大量に保有する個人宅に米小売業者が米の売渡を迫るが物別れとなる。
 3日、西水橋町(現富山市)で漁師町一帯の主婦170余名が海岸に集合、4日東水橋町(現富山市)で漁師町一帯の主婦170余名が海岸に集まり、米屋や米所有の有志宅を訪ね窮状を訴え救助を請願したが、警察官が解散させた。
 当時の『高岡新報』、『北国新聞』、それを受けた「県外紙」に見られる新聞報道には「一部に過激と誇張が見受けられる」と記録されている。
 ◆ 滑川で米騒動、2000名超と大規模化
 夏8月滑川,1月に1升24銭の米が6月に30銭となり、生活を切り詰め藤表など内職で頑張ってきた町民たちの生活はついに限度に達した。
 当時日給(10時間労働)は、男50~70銭、女20~30銭で、女が一日働いても米1升が買えない。
 7月、8月は鍋割月と言われる不漁の生活難の時期で、夫を出稼ぎに出しその日暮らしの漁民主婦たちはついにたまりかね、8月5日より米商人宅に出かけ米の移出中止と廉売を要求し、これに一般町民も参加しだした。
 6日役場に押し掛け、一方で米の船積みを阻み、夜は金川宗左衛門商店へ2000名近くの町民が押し掛け、郡長の説得演説もヤジで中止となった。
 7日町会が救済を決議。夜、金川商店に集まった町民たちの主たるものに警察は白チョークをつけリストを作った。
 8日米の船積みは阻止されたが、滑川警察署はリストの者22名を逮捕留置した。
 夕方警察本部長が応援巡査を引き連れ来滑し、総勢50余名の巡査を要所につけた。
 当夜警察へも1000名を超す町民が釈放を求め押し掛け、翌日留置者は釈放された。
 10日から10月15日まで内外米廉売救済が始まり、断続的に翌年3月まで救済が行われた。
 この資金には町内有志寄付金及び恩賜金、全国篤志者寄付分配金が充てられた(参考『滑川市史』)。
 ◆ 政党内閣の誕生
   そして、21世紀の課題は

 滑川の米騒動が全国各地の新聞に報じられ、8日冨山市、9日名古屋市、10日京都市ほか、11日大阪市ほかで起き、米騒動は全国1道3府38県43市187町206村で起こり、9月に寺内内閣が倒れ、原敬政党内閣が生まれるなどその後の社会運動、農民運動、文化運動に大きな影響を与え日本の歴史を画する事件となった。
 米騒動の起爆は冨山の浜の女たちであり、歴史上最大の民衆蜂起で飢えた民衆の怒りだった。
 米騒動を機に富山県では社会運動や普選運動が活発になったが社会の矛盾が噴出している今、国民の怒りに火をつける21世紀版『米騒動』はいかに。
 (富山 野徳賢司)

 ◆ 富裕な階級はどう総括したのか
 米騒動を冨裕な階級と国家権力は、どのように総括したのだろうか。
 「所謂米騒動事件の全貌」の題で、検事の吉河光貞が昭和14年1月に序説で述べていることが的を射ている。(社会問題資料叢書1輯、「所謂米騒動事件の研究」思想研究資料特輯51号、1974年、東洋文化社発行)
 「『米騒動』の社会的影響たるや、之と時を相前後したる彼の欧州大戦の夫と並びて近代に於ける我国社会状態に急激なる変化を招来せしめたる二大原因なりと称せらるゝところにして、『米騒動』直後、寺内々閣が総辞職を決行して原敬政友会総裁其の後継内閣を組織し、茲に一応所謂政党政治を完成したるが如きは、其の直接なる政治的所産に過ぎず。右影響中特に顕著なるものを列挙すれば、第一には我国食糧の自給自足を目的としたる米穀政策の外地転換あり、第二には国民相剋の解消を理想としたる社会政策的施設の発展あり、而して第三には国民思潮の急激なる変化に基く各種社会運動の勃興を見るに至れるものなり」と結んでいる。
 簡単に解きほぐすと、この総括は民衆の力に恐怖したのと民主主義運動の脅威を支配階級が本能的に嗅ぎ取ったことを吐露している。
 窮乏化した貧民、つまり漁民、農民、労働者に対して社会的救済をとらなければ、社会不安が増大することへの危機感だったといえる。
 米騒動は1道3府40県に拡がり、取り締まりのために軍隊が出動、治安維持のために騒擾の鎮圧、治安の回復の名目で多数の民衆が逮捕されたり、死亡・負傷している。検挙者は2万5千人を超えた。
 米騒動事件とは、何かと言えば、大正7年に日本の大半を席巻した米価暴騰に対する民衆の反抗だったといえる。
 ◆ 社会運動と民主主義が拡がる
 米騒勤の社会的本質は、明治維新以来の未曾有の国民の決起であった。
 米価を始め物価の高騰によって生活不安におちいった民衆が、とくに戦時成金で豪華な生活をしている富豪、米穀商や投機業者の利己的暴利をむさぼる行為に社会的不平・不満を爆発させたものであった。
 冨山県魚津の漁師の女房たちから端を発した一揆ではあったが、広範な国民のなかにあった格差への不平・不満と窮乏生活をなんとか変えたいという感情に火をつけた。
 それは自然発生的ながらも、全国の炭鉱労働者、工場、農民の反抗心をたきつけることになり、時の政府を震憾させることになる。
 政府がとった措置は直接的な取り締まり新聞報道の禁止だった。
 だが、民衆の力とその裾野の拡がりは寺内正毅内閣の総辞職ど政党内閣の原敬内閣を誕生させる原動力になつた。
 時の内閣の打倒は、国内においては民主主義思想の拡大、つまり大正デモクラシーへと結びつき、労働争議の頻発や普通選挙の推進運動を強めた。
 国外では、日本の圧制下にあった朝鮮半島の「三・一運動」中国の「五・四運動」に影響を与えた歴史的な事件となつた。
 米価高騰に苦しみ、共同井戸の回りに集まり、話し合ったことから始まった米騒動。漁師の女房たちが銀行の米倉の前で、米の船積み作業をしていた仲仕(人夫)の着物をつかみ、米俵につかまって積み出しを体を張って阻止しようとした行動は、全国へと野火のように拡がり、時の内閣を打ち倒し、日本の民王主義を拡げる力となったのである。
 政府は譲歩して米の値段を下げるなどをせざるをえなくなった。
 民衆のカによってこそ、社会福祉の充実も実現することにつながったことがわかる。
 米騒動が社会運動へど拡がり、労働組合、農民組合運動、全国水平社創立、普通選挙の獲得、社会主義運動に多大な刺激と影響を及ぼしたのは歴史的な真実である。
 (大崎)

 ◆ 切実な要求は必ず世論が味方する
 明治の近代化以降、長男以外は奉公、養子に出され食い扶持を減らす。そして、農村から都市へと人口が移動。農家の人ロは減り、米を買う人々が増えていった。
 とくに買う人々の漁師の男たちは、3月から北海道へ出稼ぎに出ていたので、夫の留守を守るのは妻たちであった。
 当時は、子沢山で1日の米の消費量は平均家庭で1日2升であった。その米の価格が1升24銭だったのに、33銭、40銭、45銭、しまいには50銭というように高騰した。
 民衆にとってどうにも我慢がならない状況になり、銀行倉庫から米俵が積み出されるのを阻止する行動へと突き動かした。
 漁師の女房たちは無償で米を寄越せと言ったわけではなく、真っ当な価格で販売してほしいと願っただけである。
 当時、魚津町では町制施行後に「貧民救助規定」を全国に先駆けて施行していたが、町としても手に負えない事態であった。そうしたことから米騒動へと発展したといえる。
 米騒動を通して学べることは、「おかしいことはおかしい」と率直に出し合うこと、連帯を通して大きな行動が生まれることがわかる。
 切実な要求は必ず世論が味方をする。略奪はいけないが、正々堂々とした正当な要求は誰も止めることはできない。その結果、寺内内閣が倒れたことで、そのことを証明できる。
 今年、米騒動から100年を迎えた。せっかくだから、100年前の歴史的な出来事にふれる旅に魚津市を訪れたらどうかと思う。
(魚津市民 米沢義則)

『週刊新社会』(2018年8月28日・9月4日)

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