<沖縄報告>
◎ 戦争遺跡保存 全国シンポジウム南風原大会に参加して
関東の梅雨が本格化した6月19日、沖縄の梅雨は明けた。この日から3日間、那覇からバスで30分の南風原(はえばる)町で「第14回戦争遺跡保存全国シンポジウム南風原大会」が開催された。
沖縄・南風原文化センターの壁画。目の記憶、太陽、波、ねじれた時間…。大粒の赤い涙がこぼれている。作は中学生の美術部
「保存運動の現状と課題」をテーマとした分科会で<三芳・丸山地域の壕群と特攻機”桜花”発射基地について>のレポートを何とか終えた二日目の夕方、沖縄陸軍病院南風原壕群の見学会に参加した。
新装なった南風原文化センターの裏山、黄金森と呼ぶ小山の地下に縦横に掘られた壕があった。南風原病院壕は米軍の上陸前の艦砲射撃が始まった3月23日に開設され、米軍が迫った5月末には独歩できない患者に青酸カリ入りのミルクを配って、南部に向かって撤収した。
第一外科を構成する20号壕が唯一、保存公開されている。入り口は米軍の砲弾で破壊され、火炎放射機で真っ黒に焦げた跡がある。入り口、出口は二重の扉で密封され、1度に10人のみ、ガイド付き添いを条件に公開されている。
壕の中はとても狭く、ぬかるんでいた。当時、壕の片面には2段ベッドが設置されて患者が横たわっていた。
県立第一高女・女子師範の14~20歳の生徒たちが、看護補助や壕掘り、「飯上げ」に従事した。喜屋武部落にある井戸を使って準備された食事を、二人一組の生徒が壕まで運び上げる。「飯あげの道」は米軍の艦砲やロケット弾、迫撃砲弾にさらされる道。
生徒たちは死に装束としての制服に着替えて、醤油樽にいれた食事を運んだ。今は鬱蒼と樹の茂った尾根上の道の脇に「仏ぬ前」という標柱があった。
飯あげの道の終点、24号壕の上に「憲法9条の碑」「平和の鐘」がある。
そのなだらかに傾斜した丘には、病院壕で戦病死や爆死した患者・医療関係者・女生徒の遺体が埋められたという。
南風原病院壕で働いた第一高女・女子師範の生徒222名のうち191名が戦死した。
三日目、北部のフィールドワークに参加した。
名護市北部やんばるの山中深くに「御真影奉護壕」がある。
倒木や草に覆われた山の小道を、ハブを警戒して枝で叩きながらくねくねと進むと、小さな谷の脇に一人がやっと通れる狭さの壕が口を開けていた。「天然記念物コキクガシラコウモリ棲息地」の標柱があり、壕の口には鉄製の扉に錠が掛けてある。コの字の壕の奥に「奉護室」があった。
20人もの人がいきなりカメラのフラッシュを焚いたものだから、千頭は超えると思われるコウモリが乱舞。奉護室も壕内も堆く積もったコウモリの糞でぬかるんでいる。
1944年、米軍の十・十空襲が沖縄を襲い、各学校の校長らは「御真影」を抱えて逃げ惑った。それをきっかけに県は校長・教諭数名による「御真影奉護隊」を編成し、小中学生を動員して道ブシンをし、秘密裏に「奉護壕」を掘った。
米軍が名護に上陸した4月初旬以降、「奉護隊」は県内ほとんどの学校分の昭和天皇・皇后の写真のみを担って、山中を彷徨うことになった。米軍に追われ、食糧確保に苦労しながらも、毎日の「拝礼」を欠かさず行ったという。
6月下旬、牛島司令官自決の報を聞いて、山中で「御真影」を焼却し、7月初めに米軍に投降した。
南風原大会の様子は、地元の「琉球新報」「沖縄タイムス」に詳しく報じられていた。不発弾処理、壕や遺骨の発掘・調査が各地で続けられ、「沖縄戦」は終結していない。
北部を案内してくれた名護市史編纂室・川満彰さんの話
「調べていくと、沖縄戦は米軍が思い通りに基地を造るために、計画的に進めた戦争だったと思える。南部で日本軍と戦闘を続け、北部に住民を隔離する収容所を作り、中部では上陸当初から飛行場と基地を造った」。
基地を固守する米軍とそれを支える本土政府がある。 (志村秀三)
『藤田先生を応援する会通信』(第42号 2010/7/8)
◎ 戦争遺跡保存 全国シンポジウム南風原大会に参加して
関東の梅雨が本格化した6月19日、沖縄の梅雨は明けた。この日から3日間、那覇からバスで30分の南風原(はえばる)町で「第14回戦争遺跡保存全国シンポジウム南風原大会」が開催された。
沖縄・南風原文化センターの壁画。目の記憶、太陽、波、ねじれた時間…。大粒の赤い涙がこぼれている。作は中学生の美術部
「保存運動の現状と課題」をテーマとした分科会で<三芳・丸山地域の壕群と特攻機”桜花”発射基地について>のレポートを何とか終えた二日目の夕方、沖縄陸軍病院南風原壕群の見学会に参加した。
新装なった南風原文化センターの裏山、黄金森と呼ぶ小山の地下に縦横に掘られた壕があった。南風原病院壕は米軍の上陸前の艦砲射撃が始まった3月23日に開設され、米軍が迫った5月末には独歩できない患者に青酸カリ入りのミルクを配って、南部に向かって撤収した。
第一外科を構成する20号壕が唯一、保存公開されている。入り口は米軍の砲弾で破壊され、火炎放射機で真っ黒に焦げた跡がある。入り口、出口は二重の扉で密封され、1度に10人のみ、ガイド付き添いを条件に公開されている。
壕の中はとても狭く、ぬかるんでいた。当時、壕の片面には2段ベッドが設置されて患者が横たわっていた。
県立第一高女・女子師範の14~20歳の生徒たちが、看護補助や壕掘り、「飯上げ」に従事した。喜屋武部落にある井戸を使って準備された食事を、二人一組の生徒が壕まで運び上げる。「飯あげの道」は米軍の艦砲やロケット弾、迫撃砲弾にさらされる道。
生徒たちは死に装束としての制服に着替えて、醤油樽にいれた食事を運んだ。今は鬱蒼と樹の茂った尾根上の道の脇に「仏ぬ前」という標柱があった。
飯あげの道の終点、24号壕の上に「憲法9条の碑」「平和の鐘」がある。
そのなだらかに傾斜した丘には、病院壕で戦病死や爆死した患者・医療関係者・女生徒の遺体が埋められたという。
南風原病院壕で働いた第一高女・女子師範の生徒222名のうち191名が戦死した。
三日目、北部のフィールドワークに参加した。
名護市北部やんばるの山中深くに「御真影奉護壕」がある。
倒木や草に覆われた山の小道を、ハブを警戒して枝で叩きながらくねくねと進むと、小さな谷の脇に一人がやっと通れる狭さの壕が口を開けていた。「天然記念物コキクガシラコウモリ棲息地」の標柱があり、壕の口には鉄製の扉に錠が掛けてある。コの字の壕の奥に「奉護室」があった。
20人もの人がいきなりカメラのフラッシュを焚いたものだから、千頭は超えると思われるコウモリが乱舞。奉護室も壕内も堆く積もったコウモリの糞でぬかるんでいる。
1944年、米軍の十・十空襲が沖縄を襲い、各学校の校長らは「御真影」を抱えて逃げ惑った。それをきっかけに県は校長・教諭数名による「御真影奉護隊」を編成し、小中学生を動員して道ブシンをし、秘密裏に「奉護壕」を掘った。
米軍が名護に上陸した4月初旬以降、「奉護隊」は県内ほとんどの学校分の昭和天皇・皇后の写真のみを担って、山中を彷徨うことになった。米軍に追われ、食糧確保に苦労しながらも、毎日の「拝礼」を欠かさず行ったという。
6月下旬、牛島司令官自決の報を聞いて、山中で「御真影」を焼却し、7月初めに米軍に投降した。
南風原大会の様子は、地元の「琉球新報」「沖縄タイムス」に詳しく報じられていた。不発弾処理、壕や遺骨の発掘・調査が各地で続けられ、「沖縄戦」は終結していない。
北部を案内してくれた名護市史編纂室・川満彰さんの話
「調べていくと、沖縄戦は米軍が思い通りに基地を造るために、計画的に進めた戦争だったと思える。南部で日本軍と戦闘を続け、北部に住民を隔離する収容所を作り、中部では上陸当初から飛行場と基地を造った」。
基地を固守する米軍とそれを支える本土政府がある。 (志村秀三)
『藤田先生を応援する会通信』(第42号 2010/7/8)
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