語学に本当に奔走中(旧子供の夢をかなえたい 旧英語に本当に奔走中)

娘Noneは現在某国公立大学生、今年院を受験予定。現在自分はジオシティーズ時代からのネット界の知り合いを捜索中。

母との確執

2013-04-20 13:20:26 | 英語学習でもなんでもないもの
母と和解して合唱団などに一緒に行くようになったのが
30過ぎだと書いたけれど、なにも音楽教室で見世物に
されたことぐらいで確執ができたわけではなかったことを
少し書いておきたいと思いました。

私が生まれる前から、ささいなことで母は父からDVを
受けていました。

けれど、私はそれを可哀想に思ったことは実はなく、
たぶん、赤ん坊だった頃から私に、「お母さん、こんなに
可哀想でしょ。」と自分の不幸をアピールしていたので
物心がついたときには私は母が自分の不幸に酔っている
と感じて、父とも母とも距離を置きたい衝動にかられて
いました。

私は、なぜか父からも母からも天才扱いされていました。
近所に同い年の子どもがいない私は、他の子を知らなかった
こともありますが、両親を見て根拠もなくそんな話を
作り上げていると思い、精神的に参っていました。

父は私に本当の「天才」になってほしかったらしく、
家で勉強をしていると、「天才は勉強をしなくても
できるもんだ!」と殴られてしまいますが、学校の
成績が父の思うようでなくてもしばき倒されてしまう
ので、(ついでに母もボコボコにされるんですが)
まあ、小4までは父の思うようになっていました。

母が稼いで、それで父が飲み歩く、その繰り返しで
小4まではなんとかなっていたのですが、父がもう
無職まるだしで昼間の公園を歩き回って、それが
悪い評判になって母の生徒数が経る、という状態に
なって、どんどん生活が悪くなって、もう限界が
近い、というときに、私は母に
「一緒に逃げよう」
と持ちかけました。そうしたら、
「お父さんはどこへ逃げても追いかけてくるから。」
と断られてしまいました。

母との確執ができるのはこの後です。

父が公園で遊んでいる男の子にサッカーはこうしろ
とか、絡んで行くようになったぐらいから、

学校で、クラスメートが私に
「おまえら迷惑だからどっか行け、むしろ死ね。」
と言う流れになって、私は流れに逆らうことができずに
縄跳びで首をくくって死ぬ真似をすることになりました。

それは、他のクラスの子が担任を呼んできて途中で
止められたのですが、呼ばれた担任も、ホームレス
もどきの父の子より、健全な家の子達の味方という
感じで、担任が家にいる母にもう私が問題を起こさない
ように言いに行く、ということになりました。

母ぐらいは、味方になってくれるよねと内心期待していました。

けれど、私の自殺未遂の話を聞いた母は、

「あんたが死んだらますます私の
ピアノの生徒が減って
生活できへんように
なるやろーーー!!!」


この話、後で誰に話してもみんな笑うんだよな

心の中でなにかがぷっつり切れて、もともと誰も
アテにしないタイプだったんだけど、それからもっと
人をアテにしないタイプになりました。

それから1か月後でしたかね、私と弟を置いて
母だけ実家に帰りました。

一応その後、母が親戚と一緒に私を引取りに学校に
来たのだけど、母と仲良くなかったし、母の親戚が
私の父や私達姉弟をよく思ってないのを知っていたので
私は父のもとに残りました。

その後は食事もまともに取れなかったり、ライフライン
しょっちゅう切れたりの生活で、幼かった弟は父方の
親戚に引き取られ、私と父との2人暮しになりました。

本当に夏休みとか、食べるもの2~3日にチロル一個
とか、そんなんだったんだけど、母方の親戚のほうには
行きたくなかったんです。

母が居なくなった後、仕事をしてない父は自分の暇つぶしに
私を登校拒否させて、父自身の不幸な生い立ちを延々と
私に聞かせるなどをしていて、学校に行っていない日が
けっこうありました。

久しぶりに学校行くと、小6のときとか、授業で知らない
うちに歴史とかに入っていて、見たこともないオッサンの
絵がプリントに印刷されてて、「この人は誰でしょう?」
とか聞かれたので、格好から「殿様」とか大ボケな解答
してしまうんだけど(正解は織田信長)そのとき、記憶の
引き出しにないものは、いくら天才の訓練とかしてても
出てこないんだと悟りましたね。

当然成績は下がって、父にマジボコにされたのですが。

6年の夏休みの終わりでしたかね、5年のときよりも
夏休みの給食がない時期の食事が悪くなったこととか、
父が暴れて家の窓ガラス割ったりしてるのが買い替え
られずにいるところに8月の末の秋風が入ってきて
電気もガスも切れてるし、この冬越せないなあと
思ったときでした。

私が2駅向こうに住む父方の親戚まで歩きで行って
助けを求めに行ったことがありました。そのときは
父に「恥をかかせやがって。」と後からまた殴られた
のですが、そのしばらく後に、

「俺の兄弟のところで恥をかかせるんだったら、
母親のところへ行け」
と、片道だけ電車賃をくれたものがありました。

小6の夏休みの終わり、そのとき、ほんとにこのまま
父のところに残ったら死ぬかもしれない、と思った
私は、冬を越すぐらいの期間を過ごさせてもらうぐらい
のつもりで母のもとに行きました。

夜8時頃、母の実家を訪ねて、母の実家大家族で当時
20人ぐらい人住んでたものだから、正直暗闇の中で
わらわら出てきた人のどれが母なのかわからなかった。

そのまま私は大阪で住むことになり、その後はそれまでの
一人でサバイバルではなく、親戚の中で邪見にされる
中での居場所の問題になったのですが。
(仕事に夢中な母はそのへん私に無頓着でしたし。)

自殺未遂の時に、娘の生死より、自殺した後の生活の
話を真っ先に出したことを謝ってもらったことは
ありません。その話をするといつも、
「そこまで追い詰められていた母さんが可哀想じゃ
ないの?」
と逆ギレされてしまうからです。

それ以来、母と口をきくことはあまりありませんでした。
生活も、それまでにしていた激貧の生活から特に変わった
ことはありませんでしたし、高校に入ってからはバイトして
普通親に買ってもらうだろうというようなものも、世話に
ならぬよう、徹底的に母を避けていました。

もちろん、グレて家出したりすることもできなかったのですから
あまり生意気なことは言えないのですが。

父が将来私の就職先にやってきてお金を無心するように
なるだろうと言われていたので、私は匿名でできるような
職業を目指すために、絵を描いたり漫画描いたりする
方向でがんばっていました。
しかし、なにせバブル期だったので業界関係の人と
知り合いになったとき、
「あなたの作風は暗いし貧乏臭い」とひと蹴りされて
しまいました。
私も、バイトもせず絵の練習に集中出来る人との実力の
差というのも実感していたので、自分に見込みないなあと
思ったときに、父が肝臓を患い亡くなりました。
高2のときです。
私の成績では中堅の4大に入れたらなという程度でした。
弟もいるので、お金を残すために短大にしてくれないか
と言われました。

でもそれは運命の妙というか、私が短大で卒業した年は
まだ就職事情がよく、あと2年後、もし私が4大で卒業
していたら、ちょっといい大学だったとしても、就職困難
だっただろうという状態になっていました。

関西外国語短期大学を出て大手でない電機メーカーに就職し、
そこからは割と普通の社会人です。

でも、諸事情あって、大阪外大に入ったりはしたのですが。
(このときは本当に勉強したと思っています。生まれた
環境が違っても理解しあえることについて、異文化理解
の観点から意味論とかテキスト論、分析哲学などを学び
ました。)


私の友人は複雑な家庭環境の人のほうが多いです。
高校のときのバイト仲間とか、大手でない電機メーカーとか
社会人になって大阪外大行くひととか、なんかみんな
私の行きそうなところは事情のあるひとの掃き溜めみたいに
なっていましたね。

まあ、もんのすごくダイジェストで家庭の事情話したので
私が母に対して持っている複雑な心境をちゃんと書けているか
わからないのですが、

自分の子供のこと、理解しようと1度でいいから努力する
姿勢ぐらい見せて欲しかったなと思いますが、25歳のときに
諦めて、たぶんずっと諦めたままなんでしょう。

私は、父や母の言うような天才ではなかったけど、確かに
生きる力というのは並みの子よりあったかもしれないと考えて
います。

私は家庭環境でやることが振り回されない状態で、None
自身がやりたいことをそうブレずに習得できて、頑張れる
ところまで頑張れれば、あとは自分で幸せを掴める子になれば
それでいいと思っています。

まあ、None自身が、今医療系とか言っていて、将来
全然違うものを言うことがあるかもしれませんが、それは
それで、実現可能性とかを考えて応援するかどうかを
決めるんだと思います。

まあ、最近はYouTubeを見ている姿を私に見られたくない
(たいしたもの見てないのに)らしいので、私と母ほどで
なくても、それなりの距離はできるんだろうなと思っています。

だいたいこんな感じです。
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