最終章だけど、、、

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共感

2021-11-06 11:25:53 | 日記
12時半に、友人が、陋屋にやってくることになっている。
徒歩ゆっくりでも15分あれば、十分間に合うので、ここ(自宅)には正午まで居ることができる。
こんなふうに記すと、まるで今から友人を迎えるのがそう嬉しくもないような自分自身が見える。
2日ほど前に、所在なく過ごしていたら、この友人から電話があり、
「コロナもだいぶ下火になってきたし、例のお茶会をしません?つきましては今度の土曜日にでも」
とのお誘いというより、提案がなされた。

嗚呼、私はこんな時、考えもせずに答える癖がある。
「まあ!嬉しい!お待ちしているわ!ランチはいつものところ?私が予約を入れておくわね」

私はその時、嬉しくないのにそう言ったはずがないのだ。

ただ、
格別嬉しかったわけでもない。
折角の申し出だから応じたい、と咄嗟に反応して、ほぼ間髪を入れず答えることとなった。

正直、出かける間際になって面倒くさくなっている。

家人のお昼の準備は終わった。お茶などの用意も。

なんの憂いなく、出かけるだけのことだけど、この期に及んで今から始まるはずの数時間の不自由さを心に描いてしまう。

友人と他愛もない話題で会話は途切れることなく続くだろう。
その度に、楽しい気持がないわけではない。

とりあえず、秋空の下を歩くだけでも今の場合私にとっては望ましい。
このまま家にいて、今読んでいる本に惹かれて数時間過ごすよりは、健康的だろう。

タイトルの共感、これを求めて本の世界に逃げることが多い私。
もちろん、全ての本からそんなむしのいい、好都合な感情をもらえるわけでなく、むしろがっかりとか、疲労しか覚えない読後もある。それの方が多い。

ごくまれに、共感を得ることが本の世界から得られると、その余韻は心地よい。
自分が感じたことを見も知らない著者が表現してくれていて、ジグソーパズルの最後のピースにたどりつけた境地になる。。。。。

何のことはない。
私は、さっきまである本に虜になり、その続きを読みたいだけ、たったそれだけのことだ。


作家の名前で図書館の書架から本を抜き出すことは、誰しもよくあることだろう。
ずっとその作家を読み続けていたら、書店で買って自分のものにもすることもあった。

数年ぶりに、いえ、もっとしばらくぶりに手にしたこの作家の筆致は以前覚えていた感覚とちょっと異なっていたけれど、もっと、
もっと、私の心の裡に、銅鑼の響きのような重さを残した。

私も作家も時を経て、変わる。
変わらないところもある。

もうこんな時刻。でかけよう。
落ち葉を掃いておかないといけないのを思い出した。

友人は、月曜日にも職場で会う同僚(私は員数外の非正規雇用人だから言うのもおこがましいけれど)
の一人。
何故か、私のところが落ち着き、癒されると、以前は月一のお茶会を共にしてくれた人。

疫病の間,親交が絶えたのが、寂しかった、ということは私にはどうやらなかったようだ。

一人がいい、一人でいれたら、
そんな自分をむしろ疎んじて土曜の午後を他人と共有する。
きっと共感はあまり期待できない、とほぼ確信しながら。

いってまいります。読み返さないで投稿。
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