最終章だけど、、、

日記や趣味を書く

父が買ってくれた最後のバースディプレゼント

2024-01-15 01:58:44 | 日記
母が先に逝って3年くらいしたころでしょうか。
母の誕生日に私を呼んで一緒にご飯を食べようと父が申しました。
気が進まなかったですが、参りました。
せめてケーキでも求めて持参したらよかったのですが、手ぶらでした。
父は炊き立てのご飯を前に、さあ誕生日誕生日、とニコニコ。
いつもの仕出のお刺身とか煮物とかは、もう食べたそうです。
ごはんだけでお誕生日を祝っていたら、だんだん私はせつなく、悲しくなりました。
いくらお仏壇にお供えするのがご飯だからといっても。。。

そのあと、父は、ぽこちゃんの誕生日はお母さんの一ヶ月あとだったね、と申します。
ついでだから、今日今からプレゼントを買いに行こう、と父が提案しました。
亡き母も私も行きつけにしていた近くの洋装店に父と出かけました。
私は買い物はいつも母と一緒で、父にプレゼントしたいから、選んでごらん、と言われたのは、生まれてはじめて。3周り以上年齢差のある父がもう90歳を少し過ぎていましたから、私は50代も半ばでしたでしょうか。真っ白の質のいいセーターを買ってもらいました。4万円くらいしたように思います。
明日箪笥の中を探してみます。一度も着ていないかもしれません。

肝心の私の誕生日には倒れて死の床に就いていた父を想って、今夜決意したことがあります。
幸い余震があまり感じられなかった今日(1月14日ですから、もう昨日ですが)、父を思い、母を思ってだいぶ慰められました。
だから、自らに課して強くなろうと、立ち直ろうと思います。
日常生活に復帰します。
これから起こらないかもしれない自然災害のことで、杞憂するのをいい加減やめて、備えはよくして、あとは潔く、日々をしっかり送るように、父母の写真の前で誓いました。
まだまだそちらの世界に行くことを父も母も望んではいないはず。
父も母も知らなかった怖さも含むけれど、便利になったAIの活躍するこの世界をもう少し楽しんでから、あの世のことは考えようと思います。

さあ、明日(今日)起きたら、私はもっと歯切れよくなっているはず。
少しでも楽しい話題をお運びできますように、このブログもただのつまらないひとり言言いたい放題場所 だけに済まないように、心してゆくつもりです。
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10年以上ぶりに、実家を見る

2024-01-10 18:20:00 | 日記
さきほど、学校の帰りに思いきって、実家を裏側から見に行きました。
といっても、実家の後ろの塀越に、新しい家が何軒も建てられていてどこから裏側が見えるのか見当もつきません。
母が七十代でわずか2か月余りの闘病を経て鬼籍の人になった5年後、父が逝きました。九十歳くらいまで実家でひとり、空閨をかこった父は、最初こそ、長男夫婦(東京在住)が月のうち半分くらいは離れに住まってくれて、父の世話や家の管理(季節ごとの家の設えをするなど)そんなに不自由していない様子でした。一年半ぐらいたったころに、長兄のところで思いがけない事故があり、その結果、長兄のつれあい(そのころは入籍していなかったかもしれません)の背後に恐ろしい事実があるのが露呈。父は恐怖のあまり、正式に遺言書を作成しました。そして以後は次兄夫婦(千葉県在住)が時折実家に来て、父の世話をすることになりました。次兄たちがいないときは、私が夕方に必ず父の顔を見て魚屋さんから届く仕出のチェックをしてきちんと食べているかなど、話題のひとつにしていました。そのころの私は玄関鍵も持っていたのですが、決してキャッシュカードの番号や金庫の番号を父から聞こうとはしませんでした。父は私に知らせたかったようでしたが。
五年の独居生活を経て父が他界。遺言書には一切を(祭祀権も含め)次男に残すという内容でした。そのころ、事故の後遺症で健康を損ねていた長兄には、すでに、法事など主宰する体力がなく、以後、次兄が取り仕切りました。しかし、一周忌までで、三回忌以降は、父の御霊を供養することがありません。
母が、福井のお寺の孫として生まれ、母の実家で蓮如上人が修業されたとかで、とても仏心に厚い家だったせいで、私の実家も等身大の親鸞像が庭にあるなど、日常的に線香くさい家風でした。そんな両親の供養をしないでいるのが、全く不本意ですが、私にはどうすることもできません。

今回の地震で、恐らくその親鸞像もお倒れになっている、と覚悟して何とか後ろ庭の一部を垣間見る細い通路に到達できました。

蹲は、大丈夫みたい。簾の向こうはお風呂場のはず。

だいぶ濡れていますが、向こうに見えるのが木の戸で、ここを開けて茶室の躙り口へ、と行く構造だったのを思い出しました。濡れ縁の端っこに乗っかっているのは、石臼、お茶用です。茶臼といったかしら。お抹茶のために使いました。特に、お茶のお正月と言われる十一月ころの口切の茶事、または、新年早々の初釜の時は必ず、茶壷から香りも高い新しいお抹茶を出して茶臼をゴロゴロさせました。その音や石の上で挽く感触をまざまざと思いだしました。間もなく母が逝って20年ですが、ああ懐かしい、鮮明に何もかも蘇ってまいります!ぬ防備に濡れ縁に置かれているのに、よくぞ、あの揺れの中、鎮座していたものだわ!さすが、わが母の「気」があったのね、そこには。もう末期になって入院した病室に母のお茶の関係の知人友人がお見舞いにきてくださいました。ひきも切らさず、多くの方々が。そのおひとりおひとりにお抹茶をたてて(もちろん仰臥の母にはできないこと、私が代わって何十客ぶんをたてました)作りたての和菓子でおもてなししたのを思い出しています。ずっと忘れ去った図でしたが、今は、はっきりと蘇ってまいります。

小さい屋根が葺かれて、お上人様の修業姿の銅像がお堂の中に見られました。
古びていますが、十数年ぶりに、会えた実家の一部でした。

無関係の関係ですが、たまたまダウンロードできたので、

四十二の厄払いに行った上賀茂神社の神馬です。嬉しそうに(たぶん)手を伸ばしているのが、ムスコ。まだまだ若いです。

陋屋の茶室もどきの小間。地震のあとも平和です。亀の掛軸が掛かっています。
備前焼の茶壷。
備前の窯元さんから、お見舞いのお電話をもらいました。最近は、達筆の年賀状ではなく、どなたかの代筆らしかったのが、お元気で変わらぬ優しさが溢れるお声でしたので、地震のおかげで福音をもたらされたように感じています。
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平穏な日常に向けて

2024-01-07 22:25:30 | 日記
今年は、始まりから平穏でした。青空のもと、降雪もなく温かいお正月。
同じく、そのように感じて、今年はちょっとだけ、足を延ばして、気多神社という、万葉時代からのお社に初もうで、と思ったのが、私のかつての同僚だった友人。以下、彼女のその日の行動録です。

気多神社(けた じんじゃ)は、養老2年(718年)に僧行基が創建したと伝えられています。また天平年間(757~764年)に越中一ノ宮として能登一丿宮の気多大社から勧請したとも言われています。なお、富山県内には気多神社を含めて「越中一ノ宮」を称している神社が4ヶ所(雄山神社・気多神社・射水神社・高瀬神社)あります。

彼女は、氷見市民。氷見市でも南部、高岡市の近くに住んでいます。4時過ぎ、彼女の車は、雨晴駅近くを過ぎようとしていました。

そのとき、ぐらぐらときました。どこかの家の前庭に車を突っ込んで留めて、ハンドルにしがみついて揺れがおさまるのを待ちました。沿岸部だったので、津波が来ます、早く逃げてくださいというアナウンスが次々と・・・。彼女はもちろん、初詣は諦めて、少しでも高台へ、と運転開始したそうです。自宅もそこそこ沿岸に近いので帰宅しても避難場所へ行くことになる、と判断したようです。
車の台数がふえ、どんどん渋滞しながら、前の車について行ったものの、途中で、判断して、小矢部市への川沿いの道を行くことにしたとか。着いた先が、ここです。

三井アウトレットパーク 北陸小矢部です。お正月で休館だったのかどうか聞きそびれましたが、とにかく、ここがどんどん暗くなるし、断水がすでに始まっているのがわかって、すぐに踵を返した彼女。
次なる行先は砺波市だったそうです。
ここは、どこのコンビニも開いていて、国道沿いのいろいろな商店がみな、明るくて開店しているのが分かった、早速お水やパン、その他食料を調達して、砺波を出発したのがすでに8時。
1月1日、避難先にしようと、彼女が判断したのは、こちらでした。

氷見芸術文化会館です。竣工後一年なので耐震設備はばっちりだったらしく、水も電気も不自由なかったとか。畳の部屋で赤ちゃん連れの方とご一緒して何度もやってきた余震をしのいだそうです。
氷見市の他の施設はすでに断水、市の全部が断水になるのは時間の問題でした。

少しでも凌ぎやすい避難場所を求めて彼女は5時間走行したそうです。その間道路の亀裂を避けて、怖いながらも必死で前だけを見ていた、と言っていました。

一方私は、この6日間、外出の総和は1キロにもなりません。車の運転も全くしていません。当市の沿岸部(伏木というところが主)に実際津波もやってきて、伏木の旧市街地は、大変なご苦労をされているとか。。。
先程、家人に少しは状態がおさまった、と言えるかしら、と聞いたところ、誰もそう判断できないと思っていた方がいい、とあっさり否定されました。
余震の回数や強さが少しずつ小さくなっているように思っているのは、こちらの甘い根拠ない願望の現れでしかない、いつ何時、もっと大きいのが再度襲撃するかもしれない、そう覚悟していないといけないようです。
とはいえ、それに備える知恵が全くないので、やはり、1週間程は気をつけて、という気象庁の発表の1週間が明日なのをあてにして、少しずつ恐怖を和らげていきたいと思っています。
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平穏な日常(2)

2024-01-06 04:54:52 | 日記
先程も揺れました。

陋屋の石灯籠です。小ぶりに見えますが、2メートル近くはあります。
自宅のは、小ぶりで、しかも倒れた際に自宅の塀にもたれていたので、復元は私でも出来ました。
仰いだ空は青くて美しかった。真冬のそれとは思えません。
どうやら、この週末から寒波到来し、積雪もあるらしい。
泣き面に蜂、とばかりにたくさん積もってほしくはありません。
1か月くらい前にようやく雪つりが終わって冬の庭になった。いつ降っても安心、と
冬を待つ姿勢になったあの日、まさか、年のはじめに、自然災害がいきなり勃発するとはだれ一人思ってもみなかったに違いありません。

実は、冬が終わるころに、自分で小さいけれど難易度が半端ない挑戦をするつもりで、年末までずっと準備に余念がありませんでした。
今、その気持ちが萎えて、いっこうに、準備を続ける気がしなくて困っています。
音楽するときには、今みたいに心が折れた状態は相応しくないようです。
次のレッスンで先生に相談、というより、辞退させていただくことにしましょう。
会場に近い川崎日航ホテルの予約を取り消すのはもう少しあとにして、、、未練があるのかなあ。

冬休みが終ると授業再開ですが、校長先生と県教委から電話をもらい、何か不都合のできた先生の代わりに、来週から学年末まで授業を増やしてほしいとの依頼でした。気持ちがどうしても落ちてしまうので、えいよっとばかりに忙しくするのもありか、と引き受けました。2月いっぱいのことですし。

忙しく動く方が何か吹っ切れるのでは、と思い込もうとしています。
疲労が増してもっと気持ちが落ちることもあり得ないともいえませんね。。。

身体を疲れさせてぐっすり眠りたい。
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平穏な日常

2024-01-04 16:29:36 | 日記
ちょうど、3日前の今時分でした。
お元日のゆっくりした午後のこと。

思い出したくはありませんが、その後の絶えない余震が身をもって、記憶を再現します。
私共には、特に被害がございませんでしたこと、お伝えしたく、更新します。

30日に陋屋へ出向いてお花を活け、神様棚をきよめ、新年のしつらえをしてきたときの画像があります。

タイトルは、「賀春」

「菅公」

2日に帰省するムスコと一献傾けるために、父親である伴侶が用意しました。

水屋の棚に活けました。段が3段あります、私の腰以上の高さに細口の備前の花入れに投げ入れました。

これ以上にいろいろ撮りましたが、撮影時の浮き立つ思いがよけいに重くなるのでこれくらいで。

ところで、上記にお載せしました家の内部ですが、今回の強力な揺れびくともせずに、その後も動かず倒れず、水一滴こぼれず、鎮座したままです。
能登地方のあまりにもむごい有様に、無傷だったわが家の幸運をとても口に出す気になれませんでした。
当地からの高速道路も一般道路も寸断、土砂崩れ、液状化が著しく必要とされている水、灯油、食料、毛布などなど、運ぶに至っていません。
そして不甲斐ないことには、私自身が精神的にしっかりしていません。頻発する余震の恐怖で、一日中、ふわふわ、揺れ、何をする気力がわきあがりません。
孤立無援で救助を待つ方々や、自宅を離れて不自由な避難所で耐えていらっしゃる特にご高齢の方々を想うと、つくづく、申し訳ない。。。もう少し落ち着いたら、行動に動かないと、と思います。

なお、事後、陋屋に行ったところ、庭にそこそこ大きい石灯籠が倒れていました。誰も近くにいませんでしたし、家屋に損傷がなかったのが幸いでした。無傷だと思っていましたが、あらためてあの横揺れの感触を頭と体にぐるぐる感じました。
そのあとになって、自宅の庭の石灯篭も倒れているのを発見しました。
どちらの家も面する道路から離れて塀で囲まれていますので、何かの折に直接よそさまに倒れる可能性はありません。家の中が異常なしといってもこうして、無防備な庭は自由に動いたのですね。

幸いどちらの家の方面とも、電気ガス水道に支障もありませんこと、加筆します。
案じて下さるブロ友さんに背中を押されて、少しだけ、自分を取り戻しつつあります。
読み返さないで送信させてください。
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