最終章だけど、、、

日記や趣味を書く

ちょっとだけ、動いた一週間でした

2023-04-30 11:52:15 | 日記
世間は、黄金週間に入り、家族連れの笑顔が、ニュースのトップに登場するのは、嬉しいものです。
当方は、相変わらず、老人夫婦の変わり映えしない普通の日曜日です。

でも、私なりに先週は少し行動しました。
忘れてしまったような凡庸な日は置いといて、火曜日は、仕事と四十九日でやや辛い一日でした。過ぎてしまうとどうでもいいこととして、心の中には保存されていないのが幸いです。

水曜日、半年ぶりの友人来宅。この日、家人も大学時代の同期会?とかで、金沢での夜の宴のあと、その宿で泊まって翌日は小さな旅に出る ということでした。駅まで家人を送ったりして、出たり入ったりしながらも、10時から夜7時まで彼女と行動を共にした非日常の一日でした。

お昼に出かけました。精進料理というほどの形式ばったところではありませんが、野菜を中心に優しいランチを出してくれます。友人がさかんにシャッターを切るので、私も便乗して一枚。

ひろうず(共通語では、がんもどき?)のあんかけ、ゴボウの白和え、春大根のお味噌汁、あとは忘れました。

デザートは、お店オリジナルのかるかんでした。お湯のみに入っているのは、これもお店ブレンドのコーヒーです。


この小さなお食事処で1時間半くらい過ごし、また陋屋に戻り、お喋りの続きでした。世間知らずの私にはびっくりするような、おどろおどろしい彼女の職場の人間模様を聞かされ、まるでドラマを見ている心地がしたものです。相談相手としては、私は未熟でただただ聞き役を全うしただけでした(笑)
彼女は、当市の西隣の市にあるアウトレットのレストランで働いています。オープンから働いていて、もう間もなく5年になるそう。パートさんとしては、最古参なんだけど、あとから来た人にだいぶ苦労しているみたい。5年間で430万円収入があり、うち100万円を貯金したそうです。残りは家計に入れたり、自分の楽しみに使ったり、と会計報告までしっかりしてくれ、私は恥ずかしいだけ、、、

木曜日は、9時半の予約で受診。昨年秋の小さな手術後、ちょっと違和感のあったところをもう一度検査してもらいました。何ともなくてホッとしました。11時に、病院近くのスタバでかつて同業だった友人と今年になってはじめての逢瀬。「歌の森」という名にふさわしい緑に囲まれ、しかも、明るいスタバ。
そういえば、自宅から徒歩5分圏内にこの九月、くだんのスターバックスが出来るということです。市内には、大きなショッピングモールがあり、そこに少なくとも二か所、いや、三か所だったかしら、スタバがあったはず。。。我が家の近所っていっても、ただの住宅地が後背地としてあるだけの取り柄のないところだけど、ちゃんとマーケティングなどされたのかしら?まあ、他人事ですけどね。でも、竣工されたら、きっと毎日でも行くと思います。本を携えて。そんな時間にちょっと憧れがあります。車を駆ってまで行きたくないけれど、歩いて五分は嬉しい距離です。
家人は天候に恵まれ、白山スーパー林道、郡上八幡、あとどこだっけ、忘れましたが、緑の中をドライブしたそうです。チーズケーキやら、栃の実餅、ゆず風味のメレンゲ、白山白峰のおせんべいなどなど、袋一杯にお土産を持ち帰りました。高速インターの出口まで迎えに参りました。お仲間はそこまで送り届けてくださったのでした。高速道路でUターンはないですが、今来た道の反対車線で戻られたようです。

そして金曜日は、筍に格闘。
今日のお昼に、焼き筍を食しました。皮ごとオーブンで焼いてそのまま食べます。
また、はじめて、剥いた筍を電子レンジで15分、十分柔らかくなることを実験しました。
今までよりは、有難く感じられる季節の到来物です。でももうこれ以上は遠慮したいです(苦笑)


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Tryあるのみ

2023-04-28 13:54:48 | 日記
端午の節句が間近になりました。
ムスコの兜は、自宅の床の間に飾ってあります。
また生誕の折に、尊敬していたある学者さんが、即興で詠まれた漢詩のお軸も掛けてあります。
この方が、ムスコの名付け親でもあります。その名は、夫の実父(最後は校長先生で奉職を終えた教育者であり、書家でもありました)が思いを込めて筆をとってくれました。これも掛けております。ムスコは四月生まれなので、誕生日~端午の節句までずっと掲げております。
さすがに、それらをこちらでご紹介するのもちょっと憚られますので、陋屋の方の五月間近の様子を撮ってみました。今まであんまり撮りませんでした奥座敷です。

鍾 馗(しょう き)さまのお軸を掛けてあります。これもちょうど40年経て、かなり、しみがついていますので、アップはしません。お雛さまも飾る小さい床の間です。夫の母の祖父母の居室だったと聞いています。(今生きていましたら150歳は超えていますね)



いつも季節の掛け軸を掛ける小間の床の間には、私の母が京都の扇子屋さんで、誂えてくれた男の子のための兜と菖蒲の書かれた金扇子を掛けています。かける釘は背面の壁に埋め込んであります。
もう少し、陋屋で撮ってきたはずですが、データを送るのがまだ不慣れで思ったように捗りません。

さすがに、ねこの絵は季節外れ、本当は今日、仕事の帰りに寄ったのは、この部屋のこの掛け軸を、
シャクナゲののに、替える目的のためでした。
小5の背丈の私は、自在鉤で作動させる、といっても、高いところの作業苦手、上を見てめまいを起こしたら、登っている椅子から落ちて大けがをするかも、、、と情けない実情があります。そのうち、家人を動員するしかありませんね。
この段階でどっと疲れてついに、いつもの居間でティータイム。天井が低く狭いこの部屋が一番落ち着きます。

隣りの部屋が後ろ座敷です。

カキツバタとカワセミの掛け軸も季節としてはまあまあでしょうか。。。

こちらは、加賀人形を端午の節句用として置いています。

雀のちゅんちゅんの声に誘われて、庭におりました。

そうだ、朝掘ってきた、と義姉から電話があったんだっけ、堀たての筍、多分、数本はもらったはずだから、早々に帰宅して、1本は直焚き昆布とろとろのお味噌汁に、皮をつけたまま焼くのに1本、残りはお米のとぎ汁で茹であげとかないと。。。こうはしておられません。のんびり、スズメと遊んでもらうのをやめて、筍5,6本との格闘にかかりませんと!
お粗末な被写体と、画像でした。
少しずつ慣れていこうと思います。

そして、案の定、帰宅したら、キッチンの床の上にゴロン!とご覧の通り、義姉の竹林からの到来ものが。。。

家人は、私の労力を考えてすでに、いつも親しくしている夜のお店のママさんに届けてくれていました。それだけは、上出来でした(笑)
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コロナが及ぼした現象といえば、

2023-04-26 02:22:30 | 日記
いろいろありますよね。
密を避けるために、各種行事がほぼ休止状態、あるいは、規模縮小状態になりました。
それでも避けられないのが、葬儀関連です。

人の最期には、呼ばれなくてもお悔やみに伺うのは認められている、と聞いています。

東洋経済オンラインから借用します。

村八分とは、村社会の秩序を維持するために行われた処分のことで、共同決定事項に違反したり、共同労働を行わなかったり、あるいは犯罪行為をはたらいて秩序を乱した場合など、その家に対して交際を絶つなど人付き合いが制限されました。

八分とは冠・婚・建築・病気・水害・旅行・出産・年忌の8種のことで、これらは制裁が加えられる対象となるわけですが、残りの2種である火事と葬儀は別とされていました。

火事は、村全体へ火が回ってしまったら自分たちの生命や財産が危うくなるから、葬儀は村人への疫病の伝染を防ぐため、やむをえずであっても助け合わなければいけないというものです。

家族は、臨終から通夜等を通じて故人の側にいるため、感染症が原因であれば「濃厚接触者」である状態です。自分たちで葬儀の準備等を行い家の外に出ることによって、感染が拡大してしまうことも考えられるでしょう。死体の処理ができず放置されてしまったら、さらに事態は悪化してしまいます。

若い男性は墓穴を掘り、女性は台所でまかない仕事などを分担します。こうして死穢(しえ)を遠ざけようとしていたのでしょう。

コロナと満更無関係でもない話題です。
職場でも、この2,3年ほぼ定着したのが、家族葬というスタイルだと感じるようになりました。身内と、お寺さま、神主さま、神父さま、牧師さまなどだけで、儀式を行い、他人の出席や、香典・供物なども一切お断りする そんなやり方が、職場の方々の不祝儀にはよく見られ、すでに説明の必要もないほどです。
他人は、お世話になったあの方に、せめて香を手向けたいと思っても、容易にはできません。

家族葬では、家族の範囲は場合場合、あるいは、人々の思い次第なので、その規模は特定できませんが、最も親しかった親族だけで、最期の別れの儀式をする、というのは、意義深いようにも思います。
それでも、規模が小さいながら、家族葬にも通夜・葬儀というお弔いのステップを踏みます。

村八分の例外は、葬儀と火事だと先程のネットからの借用コラムに書かれていました。
ですから、〇〇には訃報を知らせたくない、最期の場に登場してほしくない、と主催者側がいえるものではありません(と、私は思います。気持ちのある人は誰だって、焼香の列に混ざることができる、と。コロナ禍は例外としても)
長兄の葬儀(とは言えない、私は今でも得心していません)に、次兄は来てほしくない、と長兄の配偶者が声を大にして言いました。人道的にも、常識的にも考えられません。喪主がこの人であることを呪いました。
さらに、家族葬ではなく、あとで、私がいろいろ調べたところ、長兄の儀式は「直葬」という範疇に属すことが分かりました。死亡が確認できてから丸一日は、火葬できないので、その間、霊安室などに保管してもらい、すぐに、火葬場へ見送ります。宗教的な儀式はほとんど、伴いません。
保管に費用がかかると聞いて、長兄の配偶者は、自宅に亡骸を運んでもらいました。火葬されるまで、何度も兄の顔を見に行きたかった、最期に心からの感謝を何度も言いたかった私ですが、兄一人にして、留守になっている時間帯が多くてかないませんでした。

コロナが及ぼした影響も「直葬」にはあると思われます。人目にさらさず、亡骸をなきもの とする必要があれば。

別れがたく、仮通夜、通夜、葬儀、とお線香とお経にどっぷりつかって、亡骸と時を共にする、家族葬であっても従来の葬儀であってもかわりません。

それを端折って、火葬を目的にするなんて、、、

いったんここで止めます。
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投稿方法も忘却の彼方へ

2023-04-22 23:13:28 | 日記
長いこと、電脳箱とは無縁の暮らしをしてきました。
最初に、ケータイの画像データの消失から始まり、
次には、PCのハードディスクが壊れて、
それは、さながら、私の脳内も同じ現象のように思えてなりませんでした。
2月中旬に、ささやかながら、私のお勤めが今年度の分終了して、それからちょうど2ヶ月。
つい数日前に、今年度の就業第一日目で、重すぎる腰をやっとこさ、起こした次第です。
長兄が急逝してはじめての月命日の日でもありました。

月遅れに出したお雛さまをお帰りいただく(片づける)のを日延ばせして10日ほど前に決行しました。
今までになく、お雛さまひとりひとりに、声掛けしてのお片付けでした。
仕丁の一人、下足をずっと持っている人には、「お疲れさまです。ゆっくり一年間ほど休養してね。いつ何時、お出ましがあっても、いいように、主君によく仕えられましたね。」と。
五人囃子の鼓を肩にしている人には、「雅な調べをありがとう。休憩したら来年もきっと変わらず登場してくださいね。」と。
以下、これ以上こんなセリフを延々とここにお示ししても、お笑いを誘うだけですよね。。。

私の兄は、長子として、期待を一身に背負って、一時期までは、一家の期待の星として君臨していた、そう幼い私は確信していましたし、
次兄も(多年、長兄次兄は仲が険悪でした、それなのに)「お兄ちゃんは、僕の誇りだった。自慢の兄だった」と絞り出すように声にならない声で、最期の一瞬まで慚愧の念に堪えない様子でした。

その長兄は、ひょうきんな人でした。私が小学校入学のころには、もう高校生くらいに年が離れていて、
お雛さまの前で遊んでいた私にこんなことを言ってくれたものです。
「あっ、ぽこちゃん、残念。今、ぽこちゃんがあっちを向いていた時、お内裏様が笑っていたよ。」
私、「えーーー、どこどこ、今度は真剣に見て待ってる」
兄、「今度は、随身の真っ白い髪の毛の男の人、お菓子を口の端につけていたよ、惜しーーーい」

こんなふうに、私をからかったものでした。
よく、私が(女の子がいない両親が思いあぐねて神仏に頼んで)お寺の階段の上におくるみごとかごにはいって、いたのを、偶然目にして、うちの子になったのだよ。だから、おとうさん、おかあさんは、本当のおとうさんおかあさんじゃないの」とも言って、私が「おかあさーん」と号泣しながら、その膝に泣き崩れていくのを楽しんだ人でもありました。「お兄ちゃん、またそんなこと言って!」と母に叱られても、えへへ、と笑っていました。
一度も、大きい声で叱られたり、命じられたことはありません。
どこへ行っても、お土産を忘れない優しい兄でした。
次兄とも7歳くらい離れていましたが、お互いの結婚まで同じ家で過ごして仲がよかったのを、長兄は、「このお人形さんがいつも、ぽこちゃんの味方をしてくれる。〇〇ちゃん(次兄の名前)がぽこちゃんだけの〇〇ちゃんでなくなっても、さみしいと思わなくていいよ。〇〇ちゃんは、いつもぽこちゃんの幸せを祈っている。口に出さなくても、僕も〇〇ちゃんもぽこちゃんが大好きだからね」と、大学生だった私を気遣ってくれたものです。
商社マンで、世界中を気軽に走り回っていた兄、駐在員の妻として同行できない、と最初の配偶者が離れましたが、後に再婚をしました。脱サラをして、東京駅八重洲に小さな商社を経営して、70歳近くに後進に会社を譲り、何を思ったか、半世紀ぶりに、この地に帰ってきました。両親の眠る地が落ち着くとのことでした。毎月お墓参りを欠かさなかったそうです。まもなく、自身もそこへ行こうとしていますね(涙)

長いこと、時が止まったように過ごしました。
陋屋のほうは、幸いまだ雑草の成長も見られず、除草はこれからです。玄関先のポストは木塀から入れる形で、受け箱が壊れていました。やっと、何とか探してとりつけました。



長兄は達筆の人でした。あの世からハガキを書いて、ここにいれてくれないかなぁ、というのが、壊れた受け箱を直す動機でした。お雛さまと語ったり、こんなことを思うなんてどうかしていますね、私。
初めて写真データをPCに落とすべく、初写メをしたわけです。

いつものかわらぬところですが、もう一枚。

玄関先から周囲数メートルは、自動的に人を認識して、ピンポンと鳴らすドアチャイムが取り付けられていましたが、最近不調でした。
中門の柱にワイアレスのアイホンを設えました。
何だか、おにいちゃんが、こっそり、いたずらっ子のように、中門のを押してくれるのでは・・・とも本気で思ったりします。家の中の画面の中にお兄ちゃんが出てくれたらいいのに、、、
チャイムを取り付けたところには、今までかけ花入れの籠を吊り下げていました。小さい花籠をまたアイホンの上にでもかけようと思います。
勿忘草や、ミモザが好きだった長兄が見ているから、ずっと、お花を生け続けます。

とことん、疲れ切ってやっと小さな仕事も始まり、こんな子供じみた発語をしている自分がいます。
何とか少しずつ、日常が戻ってきました。。。

スマホにはなれませんが、壊れたPCの代わりになるもとサブ役のPCが、いい相棒になってくれそうなので、昇天したPCのことは、白状にもすんなり忘れた私でした。
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亡き母の作品

2023-04-12 22:29:14 | 日記

先日、一人息子の誕生日でした。40歳になります。
その日の朝でしたか、自宅の玄関ポーチと玄関を掃いていて、ふと、見上げたところに、この日本画が掛かっていました。自宅は、息子誕生の5ヶ月前に完成して、だいぶおおきくなったお腹を抱えて、引っ越してきました。
新築のために家財道具をあずかってもらえる棟梁の別宅に仮住まいをしていましたが、ムスコの誕生が判明してからずっと、欠かさず、その仮住まいの近くにあった小さいお社にお参りをしました。
そのお社をスケッチして、亡き母が描いてくれた日本画が、この40年間ずっと玄関土間のこの場所に掛かっています。ふだん、何気なく、そこにあるのが当たり前のように、気に留めませんでしたが、今年は、こうしてはじめて写真にまで納めるほど、見入ってしまいました。
母が鬼籍に入ってから、20年近くになります。生きていたら90代の終わりごろです。母亡き後、5年して父もかの地に旅立ちました。生きていたら、108歳くらいでしょうか。。。
そしてその後、10数年、お墓には両親だけが眠っていました。
先月、私の長兄が永久の旅立ちをしました。享年78歳。まだ1ヶ月にもなりませんので、両親の傍らに行くのには、日が浅いです。
大手商社に就職してのちに、当時はトラバーユと言われた脱サラ?を果たし、多年東京駅八重洲口に小さな会社を70歳まで持っていました。やがては、自分も加わるはずの両親の墓地の近くに、と、当地にマンションの一角を求めてやってきて8年、呆気なく、逝ってしまいました。前日は自分で運転して買い物にまででかけたそうです。いろいろの事情があって、長兄とはしばしば会うという関係ではありませんでしたが、この年の離れた兄にはよくかわいがってもらい、一度も叱られたこともたたかれたこともありません。数年前に、精進料理のお店で御馳走になったときには元気でした。
故あって、(それが兄の運命といえばそうなりますが)再婚した相手の人とは、親しく交際することもなくそれどころか、どこのだれかも知らない相手として、父は、生前、公式の遺言書も残したほどでした。次兄が祭祀権も含むすべてを相続したために、結局、父なき後は、三周忌あたりが、二人の兄の顔を合わせた最後の機会だったように思います。
私が、次兄に「次は訃報ということになるから、今のうちに普通の関係に修復して」と頼んだこともありましたが、次兄は「それでいい」と申し、実際、そうなってしまいました。

次兄は長兄を尊敬し、愛していました。やっと、肉体が動かなくなって、10年以上ぶりに再会、お兄ちゃん、と泣き崩れていました。私だけに知らせるけれど、次兄には連絡をとらないで、と、長兄の配偶者に言われましたが、私は自分の一存で、次兄にも知らせました。

お通夜、お葬式は省略の、何とも悲しい哀れな最期の別れでした。
仏心の豊かな家に育った長兄は、自ら、お寺の庫裏の修繕にも寄進したり、普段から、ご住職さまとも親しかったので、一切しきたりなど知らない兄の配偶者に期待せず、ボランティアのように、ささやかな一連の行事を施してくださいました。野辺の送り、というような最後です。
四十九日の間にも、何度もお参りに行きたいのですが、とてもそれを言い出せる雰囲気ではないので、納骨以降、心ゆくまでお墓の兄に会いに行こうと思いを変えました。


木蓮が開花、そろそろ落下します。
桜の開花を待たずに逝った兄を想い、ますます、わびしいです。

そんなこんなで、遅くお迎えした私のおひな様のお帰りの行事もする暇もなく(時間的にはひまでしょうがない日常ですけれども)今夜も陋屋のお仏壇に手を合わせてだけきました。

長兄の危篤の案内は、何故か、この家の義父の月命日のお参り日に、夫のケータイに入った市民病院からの連絡でした。個人のケータイ電話番号など普通わかるはずもないところ、きっと、義母の最後のときにお世話になり、連絡先が登録されていて、何とか私どもまで届いたのだと、不思議な気持ちがします。またその日月忌参りのお寺さまは、長兄の幼稚園から高校までの親友であられ、だれにも知らせない家族葬にも満たない最期の別れに、「友人として」お経をあげにきてくださったのでした。お香典以外に、枕花を供花しただけで、何もできなかった愚かな妹である私が長兄にできた偶然のプレゼントでした。
そういえば、マンションへ亡骸を運ぶという兄の配偶者の意見に従うしかなかったのですが、7階へ連れていくエレベータには棺は入りませんでした。その際のすったもんだがおどろおどろしくまだ記憶にあります。。。

とりあえず、新スマホで撮った写真のみ送信(もっと簡単に送れるはずですが)してみました。
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